5.誕生日祝い
分かっている。今、伊織が忙しいことくらい。
真面目で面倒見のいい彼が、去る後を濁さないように働いているのだ。忙しくなるのは当然だ。
分かっている。今の私の気持ちが、単なる我儘だということくらい。
それでも、夕食後まで私の机で黙々と書類仕事をしている伊織を見て、不満が頭をもたげる。
ねえ。ちょっとくらい、私を見てくれてもいいのに。
さっき洗面所で、私がどんな思いをしたか、分かる?
自分のしたことに恥ずかしくなって、海に向かって走り出したくなったんだから。
ねえ。気づいていないでしょう。
私、今、口紅つけていないんだけど。
「失礼します。伊織に算盤教わりに来まし……あれぇ、凛子さん、なんか顔が物足りないと思ったら、口、色ついていないじゃないですか」
算盤と帳面を抱えた嶋田さんが、純粋な瞳で私を見ながら言い放った。なんだかもう、言い返す気も失せる。
伊織は少し顔を上げて私のことを見たが、すぐに視線を嶋田さんに移して「早速始めましょうか」と言った。
仕方がないんだ、今の伊織の態度は。嶋田さんがいるし、仕事だって忙しいんだから。五年間、いや、もう五年半、ずっと暇だった私とはわけが違うのだ。
小さく溜め息をつき、
私は二人の邪魔にならないように、ベッドの上で丸まって、静かに様子を見ていた。
そうだ、嶋田さんがこうやって学んでいるのだって、恋人の為に執事になりたいからだ。
恋って、無責任にどきどきしたり、切なくなったりしていればいいものではないんだな。
「伊織ってさあ」
早くも飽きたのだろうか、嶋田さんは算盤を頭の上でじゃらじゃら滑らせながら、伊織に声を掛けた。
「肌、綺麗だよね。なんでだろ」
「算盤、飽きたんですか」
「ちょっと休憩したいだけだよぅ。比佐子はさ、『食べ物を食べるからニキビが出来るんだ』って言うんだけど。僕、吸血の方が体質に合っているのかなあ」
「吸血族寄りの体質の人もいますからね。でも、ニキビは年齢とかも関係するんじゃないですか。嶋田さんは十七でしょう、俺は二十二ですし」
いや伊織は十七歳の時もつるつるだった、というのは置いておいて、私は大事なことを思い出した。
そうだ、明日は伊織の誕生日だ。
なんだか少し残念。どうせなら、向こうの東京でお祝いしたかった。明日は脱出直前だから、下手にお祝いなんかして目立つ訳にいかない。
でも、と思い直す。
頬が自然と緩む。
誕生日は毎年やって来る。今年は残念だけど、その分来年は盛大にお祝いしよう。
来年も、再来年も、その先も、ずっと……。
「そうかなあ。食べ物って、やっぱりよくない気がしてきた。血の方が体にいいんだってさ。でもおいしくないんだもん」
私の甘い想いなどお構いなしで、嶋田さんは雑談を続行した。算盤、いいんだろうか。
良質な血は健康や美容によい。美那様もそうだが、綺麗な人が血の味にこだわるのは、そのあたりにも理由があるらしい。
そういえば、あの人も綺麗だったな。
今でも思い出せる。会ったのはほんの少しの時間、しかも遠目からだったのに。
ご隠居が亡くなった日の夜、お屋敷を訪ねて来た吸血族の女性。質素な喪服を着ていたにもかかわらず、美しい顔立ちと、すらりと均整の取れた体つきが凄く印象的だった。
しんなりと頭を垂れながら濃厚な香りを放つ、百合の花のような人だった。そういえば、あの時以来見ていない。
井村さんは、誰だか知っていたみたいだった。
あの人、どういった人だったんだろう。
「算盤、どうしますか。今日中に切りのいい所まで終わらせようと思うのですが」
伊織の少し不機嫌そうな声に、嶋田さんも私も我に返った。嶋田さんは算盤に絡まった自分の髪の毛をつまんで床に捨て――ちょっと何するのよ!――、机に向かった。
ぱちぱちと算盤を弾く音が、部屋の中に響く。
伊織は嶋田さんの算盤を見ながら、自分の仕事も同時にこなしているみたいだった。文字がびっしり書かれた紙を読み、何かを書き込み、合間に嶋田さんに声を掛けている。
時折、眉間をつまんで軽く溜息をついている。よく見るといつもより顔色が良くない。
嫌な予感がする。視線を下に移す。
あ、まずい。
伊織の足元を見て、私はベッドから飛び降りて机に向かった。
「ねえ、もう遅いから、おしまいにしない? 私、眠いんだけど」
「すみません凛子さん、あともうちょっと」
「駄目。今日はもうおしまい。はい、おしまいおしまい」
「えー」
嶋田さんは不満げに頬を膨らませたが、渋々、という感じで片付け始めた。伊織が何かぼそぼそ声を掛けていたが、無視して嶋田さんを追い出す。
扉を閉め、振り返る。伊織に向かって声を荒げる。
「具合が悪いんなら休まなきゃ! お屋敷の仕事よりも、伊織の体の方が大事だよ!」
伊織は昔からこうだ。自分だけが無理すればなんとかなると思っている。
膝が、貧乏ゆすりをしているみたいに震えている。これは座った姿勢を保つのがやっとの時の症状だ。
肩を貸し、立ち上がらせる。体重が私の右肩にのしかかる。
「ごめん……。情けない」
「全然情けなくなんかないから、もうそれ言わないの。どんな感じ? 気持ち悪いの? 目眩するの? ちょっとそこで横になっていくといいよ」
伊織の部屋まで連れて行くのは大変なので、嫌がる伊織を無理矢理私のベッドに横たえた。靴を脱がせ、毛布を掛ける。
自分のものと比べ、大きくてずっしりと重い靴に、何故か少しどきりとする。
呼吸が浅い。時折小さな呻き声を漏らしている。
蒼ざめた額に浮かぶ汗を拭く。
どうしたんだろう。過労だろうか、睡眠不足だろうか、それとも刑務所での過度な吸血による血の不足が、まだ治っていないんだろうか。
こういう時、どうしたらいい? どうしたら体調が良くなる? 気分を良くするには何が必要?
おろおろするしか出来ない自分に、私の方がよっぽど情けないよ、と思う。
そして気付く。伊織はいつも、私がその時一番おいしいと思うお茶を淹れてくれたり、心地よいと感じる香りを焚いてくれていた。なんであんなことができたのか。
あれは、私の気分や体調を、常に気にかけていてくれたからだ。その時その時で、私が一番必要としているものを選んでくれていたんだ。
私には、あんな知識も技術もない。大切な人が苦しんでいるのに、何が必要か、どうしたらいいのか全然分からない。
どうせ餌だからと、無知であることになんの疑問も持たなかった、今までの自分が恨めしい。
伊織の目が閉じる。少しずつ呼吸が深くなる。このまま眠るようなら、寝かせてあげよう。
ベッドの脇に椅子を持ってきて座る。眠りに落ちようとする伊織の手を、そっと握る。
おろおろと
伊織には、今までいっぱい無理をさせてしまった。これからは一緒に苦労して、ずっと一緒に幸せになりたい。
愛情を欲しがって、守ってもらうだけが恋じゃない。愛情を与え合い、支え合うのも恋なんだ。
分かったような分からないようなことを考えているうちに、いつしか、ストーブの熱と共に、睡魔が私のもとに降り立っていた。
肩から背中にかけての、張るような痛みで目が覚めた。
窓の外は既に明るくなっていた。どうやらベッドに被さるように眠ってしまったようだ。長時間変な姿勢で寝ていたせいで、肩や背中がとにかく痛い。
伊織はまだ眠っている。穏やかな表情で、顔色もいい。疲れが溜まっていただけだったのかな、と少しほっとする。
朝の光が白い髪の上を滑る。このまま朝の光が伊織を溶かして連れて行ってしまうんじゃないかと思う。それを引き留めるように、伊織の体の上に手を添える。
ふ、と彼が目を覚ました。
「おはよう。具合どう?」
伊織は暫くぼんやりと私を見た後、呟いた。
「ここで寝ちゃったのか……」
「うん。ぐっすり寝たみたいだよ。体、大丈夫そうだね、顔色いいもんね」
「ありがとう。ごめん、ここ使って。凛子はどこで寝ていたの?」
椅子で、なんて言ったら変に気を遣うかもしれない。適当にもごもご言ってごまかしてみる。
「……今夜、ここを出る」
伊織の言葉に、私は頷いた。
「今日の夕食後も、嶋田さんがここに来る。その時も、いつもと同じように接して。俺は一旦、嶋田さんと一緒にここを出て、部屋に戻る。丑二つ刻になったら、昨日言ったように外に出る」
「分かった。じゃあ、とにかく今日一杯は普通に過ごさないとね」
「うん。目立つことはしないように」
「だよねえ」
伊織の具合が良さそうなのと、脱出がうまくいきそうな気になってきたのとで、私の心に小さな贅沢がぶりかえした。
「この状況で言うのも、っていうのはあるんだけどね、あのさ、覚えている? 今日、伊織の誕生日なんだよ。二十三歳の。おめでとう」
「あ……りがとう」
自分の誕生日なんかきれいさっぱり忘れていて、今一瞬、何を言われたのか分かりませんでしたよ、みたいな表情をして、伊織は物凄く心のこもっていないお礼を言った。
「でも、今日は表立ってお祝い出来ないよね。残念だなあ、って思ったの。お祝いは来年までおあずけかなあ。来年はプレゼントもしたいな」
もし、向こうの東京で、少しでも働くことができたら、自分で稼いだお金で何かプレゼントを買いたい。今の私からすれば、かなり実現度は低そうだけれど。
伊織は私をじっと見つめ、俯いて
「今年は、何もないの?」
「うん。ごめん何も出来なくて。でも来年」
「あのさ、俺、欲しいものがあるんだけど」
珍しい。伊織はあまりものを欲しがるたちではないのに。
私が相槌を打って促すと、彼は天井を向いてもう一度咳き、私を見た。
「昨夜から気になって気になってしょうがなかったんだ。でも言い出す時機が見つからなくて、どうしようと思っていたら嶋田さんが来たし。その後あんな情けない状態になったし。自分で言ったことなのに、本当にされると恥ずかしかったり」
一体、何が言いたいんだ。訳の分からない事をぶつぶつ喋る伊織に向かって首を傾げる。
伊織は一度息を呑み、人差し指で、そっと私の唇に触れた。
赤い口紅のついていない、裸の唇に。
「俺が今、一番欲しいもの、貰っていい?」
伊織の人差し指が、熱を帯び始めた私の唇から、顎へと滑る。
そのまま顎を引き上げられる。
胸の奥が、とくとくと熱く音を立てる。
伊織の顔が近づく。
目を閉じる。
視界から伊織が消え、柔らかであたたかな伊織の唇の感触が、私の唇から、糖蜜のように甘く広がってゆく。
「普通にする」というのは、結構難しいものだ。
普通、と言うからには普通にしていればいいのだが、今日に限ってそれが難しい。
伊織は本当に普通だった。よそいきの態度で私に接し、ちょこちょこ顔を出す井村さんや嶋田さんにも、変わらぬ態度で接している。そしてきちんと仕事をこなしている。
一度、井村さんと一緒に怜様が私の部屋に入って来た。どうも急な人間の来客があるらしく、伊織を手伝いに駆り出しに来たのだ。
「伊織、菓子と茶の用意をしてくれ。今から五人分、菓子を焼けるか」
「俺が作れるのは庶民のおやつ程度ですよ。女中に作って貰えば」
「作れないんだと。今日、出入りの菓子屋が休みで。なんでもいいよどうせ来るのは庶民だし。お前の菓子とか茶って美味いんだろ。知らないけど」
「まあ、井村さんがお茶を飲んだら命にかかわりますからね」
井村さんは怜様の方を向いた。
「では早急に支度を致します。ポットは陶器でよろしいですよね。カップは無地の物で」
「いいえ。折角春も近いのだから、今日は敢えて花の描かれたものにします」
怜様は、並んで立っていた私と伊織の方を見た。
目を細め、口角を上げ、微笑みを見せる。
「椿の柄のものを使いましょう。紅い椿の描かれたものを用意しなさい。この時季、紅い椿は実に美しいですからね」
井村さんは返事をして頭を下げ、伊織を促した。三人が出口に向かう。
「伊織」
怜様が笑みを崩さずに声を掛けた。
「今日は伊織の誕生日ですね」
怜様の言葉に、伊織は無表情のまま黙って頭を下げた。
夜が更け、時計が丑二つ刻を指した。
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