12.夫婦の愛情

 もうそろそろ部屋に戻らないとまずい。私達は屋上を後にすることにした。

 梯子を下りるのは結構怖い。絹の靴下ストッキングは滑るのだ。


「俺、先に下りるよ。もし滑ったら受け止めるから」


 伊織は出入り口を開くと、梯子を使わずにひょいと屋根裏部屋に飛び降りた。


「すごーい。身軽だねえ」


 さすが脱獄歴二回、という言葉が出かかったが、慌てて飲み込む。さて次は私の番、と出入り口を覗き込むと、伊織は私ではなく、部屋の入口の方を見ていた。


「ちょっとお、伊織……」

「ああ、びっくりした! 二人とも、なんでこんなところにいるんだよ!」


 部屋の入口の方から声が聞こえた。更に覗き込むと、半開きの扉の向こうに嶋田さんがいた。


「申し訳ございません。秦様に見つからなければ構わないと思い、俺が凛子様をお連れしました」

「だめだよ勝手なことしちゃ! 凛子さんの部屋に行ったら、誰もいないんだもん。すっごい探したよ! もう絶対だめだからね! ほら凛子さんも、そこから下りて下さい」

「本当に申し訳ございませんでした」


 嶋田さんがぷりぷり怒りながら部屋を出ていった後、私は梯子を下りた。


「うわー、凄い偶然。間が悪かったねえ」


 嶋田さんに見つかったのはまずかったが、思った程怖いお咎めじゃなくてよかった、などと考えていた時、伊織が口を開いた。

 扉の方を睨んでいる。


「……嶋田さん、多分、偶然ここに来たんじゃない。さっきの、わざとらしかったろ。それに」


 梯子の下に目を移す。


「凛子が靴を脱ぎ捨てた時、靴は梯子に引っかかるように転がっていた。なのに俺がここに下りた時、靴は梯子のわきに移動していた」


 伊織の言葉を受け、私は自分の足元を見た。

 そういえば、片方の靴は梯子に引っかかっていたはずなのに、今、梯子から少し離れたところで靴を履いた。


「どういう、こと……?」


 一瞬、屋上での私達の姿を覗く嶋田さんの姿を思い浮かべたが、掻き消した。多分それはない。出入り口が開けばそれなりの音がするから。

 だが、梯子を少しのぼって様子を窺うくらいはしたかもしれない。

 

「嶋田さん、私達のことを探していて、偶然ここにある靴を発見して、様子を窺ってみたのかな。で、私達が下りて来そうになったから、慌ててたまたま今部屋に入って来たんですよーみたいなふりをしたとか」

「だったら堂々と屋上に来て俺達を叱ればいいことじゃないか」


 そんなの分かっている。だけど、そう思った方がいいと思ったから言っただけだ。


 だって、最初から私達の後をつけていて、ずっと様子を窺っていたとしたら、嫌じゃないか。




 胸に不快なものを抱えて屋根裏から二階に降りている時、秦様の大声が聞こえたので足を止めた。どうやら帰るところらしい。


「どうやらかびの生えた石頭はお父様譲りのようですね!」


 その言葉を受けたものらしい怜様の声が暫く聞こえた後、秦様の怒鳴る声が響く。


「もういいです! あなたはこの家をどうしたいんですか? 世継ぎがいないのにめかけも持たない上に、こんな良い話を蹴って資産を殖やそうともしないとはね!」


 その言葉に被さるように、美那様の金切り声が響く。扉の閉まる音が聞こえた後、美那様が今度は怜様に向かって何かをなじっていた。


「なんか、やな感じぃ」


 私の呟きに、伊織は軽く頷いた。

 資産の件は知らない。だが確かに名家では当たり前の妾が怜様にはいない。

 私はそれは怜様が美那様一筋だから、なのだと思っている。だから美那様の弟である秦様が、あんな言い方をしなくてもいいと思うのだ。

 怜様に恋をし始めた時、怜様の愛情を一身に受ける美那様が羨ましくて、自分の立場を表す『花嫁』という言葉に悲しくなったものだ。


 間の悪いことは続くもので、階段を降りて二階の廊下を覗いたら、いきなり美那様が飛び出してきた。


「なんであなた達がこんな所にいるのよ?」


 下手に言い訳をするのも良くないと思い、黙って頭を下げた。

 頭を上げた時、美那様と目が合った。


 反射的に目を逸らす。

 美那様は、涙を流していた。


「あの……」


 階段に向かう美那様に声を掛けようとした時、伊織に腕を掴まれた。

 振り返る。伊織は私に向かって無言で首を横に振った。

 美那様は靴音を響かせて、階段を昇っていった。


「美那様、どうしたんだろう」


 女中達の寝室くらいしかない屋根裏に、用事があるとは思えない。なのに美那様は、怜様に何かをまくし立てた後、屋根裏に向かって行った。


「俺らは関わらない方がいいよ。独りで泣きたいのかもしれないし」

「まあ、それはそうなんだけど」


 廊下の反対側を見る。怜様が、自分の部屋の方に向かって歩いていた。

 美那様が、泣きながらこっちに来たのは見ていたはずなのにな、と思う。


 そういえば、前にもこんなことがあった。

 怜様。

 穏やかで、優雅で、いつも微笑を湛えている印象だけれど。

 今になって気が付く。美那様がいつも愛情たっぷりの笑みを浮かべて怜様を見つめている時。


 怜様が笑みを返している姿を、思い出せない。




「凛子、お尻!」


 伊織のあんまりな言葉に我に返った。


「何、私がお尻って!」

「違う違う、凛子がおおお尻じゃなくて、ここ、汚れている」


 指差された所を見ると、成程、お尻の部分が、綺麗な楕円形の茶色に変色していた。

 そうか。いくら完璧に手入れされたお屋敷とはいえ、屋上に直接座れば汚れるんだ。


「う、わー、ありがとう教えてくれて。……ってことは」


 伊織の後ろに回り込む。案の定、彼の黒い外套も楕円形に汚れていた。


「やだちょっと、湿った所に座ったんじゃない? ここ、濡れて泥っぽいのがついている」

「わ、本当だ、どうしよう」


 自分と伊織のお尻を見ているうちに、なんだかおかしくなって笑ってしまった。それを受けて伊織も笑う。互いのお尻を指差しながら、「汚いよ」「格好悪い」と言い合う。

 心に溜まっていたおりが、ふっと軽くなる。

 泥のついた伊織のお尻から、何気なく廊下に視線を移す。


 怜様が、自室の扉に手を掛けた姿で、こちらを見ていた。

 離れた場所からでもはっきりと分かる程、

 柘榴石ガーネット色の瞳に、憎悪の光を宿して。


 心の芯が、急速に冷えていく。


 伊織も怜様の視線に気づいた。無表情に頭を下げ、私を部屋に促す。


「さっきの怜様の視線、見たよね」


 部屋に入り、伊織に言った。彼は無言で頷いた。


「私達がうるさかったのかな。それとも美那様を睨んでいたのかな」

「さあ」

「怜様、最近変だよね。美那様にもなんか冷たいし。今まで仲が良かったのに」

「仲がいい? 叶様と奥様が?」


 伊織は少し首を傾げ、目を細めた。


「あの二人を見ていると、名家って面倒臭いなあと思う。好きでもない人と結婚しなきゃいけないなんて」

「好きでもないってことはないでしょう。美那様、いっつも怜様にくっついているし、それにほら、前に美那様言っていたよ。怜様が自分とご隠居の仲を疑っていたとかなんとか。あれ、やきもちじゃないの?」

「どうだろう。あれは喧嘩した勢いの、単なる売り言葉に買い言葉な気がする。美那様は真に受けていたみたいだけど」


 ま、下衆げすがあれこれ詮索してもしょうがないし、と言って、伊織はこの話を打ち切った。




 あれ以降、嶋田さんは変わった様子を見せない。

 怜様の態度は変わってしまったまま。

 私は自分の行くべき道を決めかねたまま。

 そうして日は、過ぎていった。

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