13.繰り返す悪夢

 暗い地下室の扉を開ける。だが、そこには何もない空間が広がっているだけだった。


 ――ほらあ。やっぱり他の世界の東京なんかなかったじゃない。


 私は何もない空間を見据える伊織の腕を引っ張った。


 ――何もない? ほら、ここに違う東京があるじゃないか。こんなに光が眩しいのに。


 どうしたんだろう伊織。彼の目に、何が映っているんだろう。


 ――てのひらにのるでんわでんきではしるくるまいろあざやかなえいぞうがびるをまるごとつつみこんで

 ――伊織、ここには何もないよ。きっとそれは、幻なんだよ。


 私は意味不明な言葉を話し続ける伊織を引っ張り、暗い倉庫を出た。

 泣きながら。私を助けようとするあまり、壊れてしまった大切な人に謝りながら。


 ごめんね。自分が助かりたくて、外の世界に逃げてきてしまった。

 私を逃し、壊れてしまった伊織。きっともう、怜様は伊織を雇ってくれない。あなたは捕まるだろう。そして私は。


 ――今日で二十歳はたちになったね。さあ、貰おうか。


 怜様の笑み。柘榴石ガーネット色の瞳が光る。私は、自分の部屋で怜様の腕に抱き寄せられていた。

 めり、という牙が伸びる音。牙が刺さる。深く、深く、深く、刺さる。じゅるじゅるとすすり上げる音が耳元で響く。

 牙の刺さった部分が鈍く痛む。頭の中を手でゆっくりと掻き混ぜられるような感覚。肌が痺れ、手足が冷たくなっていく。落ちるような浮遊感。失われゆく血を求めて、胸が激しく身をよじる。


 ――やだ、やめて。苦しいよ。死んじゃうよ。


 覚悟をしていたはずなのに、麻痺していたはずなのに、死への恐怖が頭の奥深い所から全身を駆け巡る。

 肌が色を失い、体がしぼんでいく。胸は潰れたまま、それでも必死に動こうとする。


 嘘つき。私が苦しみで顔を歪めないようにするって言ったのに。優しく命を奪うって言ったのに。


 怖い。苦しい。死にたくない。死にたくない。

 怖い。


 好きな人に命を奪われるなら。

 どうせ死ななきゃいけないなら好きな人に。

 好きな人なら。


 嫌だ。死にたくない。

 死にたくない。

 好きだって、殺されたくない。


 ……好き……?


 力強い、大きな手が私を掴む。

 伊織が私を引っ張り上げる。あたたかな広い胸に私を抱き寄せる。


 ――俺が、凛子を守るから。


 微笑みを向けてくれる。私も微笑む。

 伊織の傍はあたたかくて優しい。


 知らない街の路地裏から大通りを窺う。怜様はいない。ほっとした時、目の前に警官が現れた。

 嶋田さんが、警官の詰襟服を着ていた。

 ああ、あの消し炭色の詰襟の仕着せは、警官の制服を誤魔化すためのものだったのか、と思う。


 ――ずっと見張っていたんだからね。これで僕も執事になれる。比佐子と結婚するんだよ。


 嶋田さんは私を見て言った。


 ――一人では何もできないくせに、どうやって外の世界で生きようと思ったの? 伊織が全部やってくれると思ったの? 食われることしか、能がないくせに。


 そうだ。私は吸血族に血を吸われることでしか生きられない。だから外の世界に行ったら血を売るしか道はないのだ。


 ――俺は凛子の血は売らせない。どんな事態になっても、それだけはさせない。


 強い口調で伊織は言い、嶋田さんの傍に立った。

 詰襟のボタンを外す。


 ――なあ。


 嶋田さんに顔を寄せる。唇を歪ませ、すさんだ笑みを見せる。

 シャツの釦を外す。


 ――旦那ぁ。


 皮膚の崩れ落ちた左肩が顕わになる。

 肩から赤い体液が滲みだす。

 滑らかな皮膚が茶色く垂れ下がる。

 顔も色が変わり、縦横に皺が刻まれる。


 白髪が抜け落ちる。

 歯がぼろぼろと零れ落ちる。

 えたような強烈な臭気。

 

 落ちくぼんだ眼窩の奥の、澄んだ鳶色の瞳。


 ――血を、買ってくれよぅ。




 声にならない悲鳴を上げ、目を覚ました。

 ベッドの上に起き上がる。体が小刻みに震えている。ストーブの消えた寒い部屋のはずなのに、じっとりと汗をかいている。

 窓から差し込む朝の光は、私を嘲笑うかのように清々しく煌めいている。


 また、夢だ。

 今のは特に酷い。死への恐怖と、伊織が堕ちる恐怖。立て続けに突きつけられ、必死になって叫び声を押さえた。

 もう、何日この状態が続いているだろう。眠れば眠る程疲労する。

 どうして、今になって死への恐怖に囚われるようになったのだろう。翡翠の血を持ち、農場で育った以上、避けられない運命なのに。優しく殺してくれると言われているのに。


「おはようございます。お目覚めですか、凛子様」


 扉の向こうから、伊織のよそいきの声が聞こえる。「おはよう」と言おうとしたのに、喉が張り付いてちゃんとした返事ができなかった。


「大丈夫ですか? 喉の調子が悪いんでしょうか」


 ゆっくりと扉が開き、朝食を載せたワゴンが覗く。

 伊織が顔を出す。


「おはよう。大丈夫?」


 心配そうに声を掛ける伊織の顔は、


 皴だらけの、茶色い皮膚が垂れ下がり。


 喉が震え、絶叫が溢れ出す。


「どうした!」

「いやあぁ! ごめんなさい! ごめんなさいもう逃げないから!」


 私のもとに駆け寄る伊織から後ずさる。ヘッドボードに背中を押しつけ、両手で顔を覆う。

 頭の中で何かが弾け飛ぶ音がする。夢の映像が顔を覆った掌を突き抜けて蘇る。感情が破裂した井戸の水のように溢れ出す。


 伊織が私の手を掴む。それを振りほどく。彼はベッドの上に片膝を載せて私を押さえようとする。振りほどく。目が合う。彼の顔が間近に迫っている。

 夢の中の姿とは違う、いつもの、繊細で端整な顔がそこにあった。


 我に返る。

 いけない、夢と現実が一緒になってしまった。こんな態度を取ってしまって、彼はどう思っただろう。私が何かに怯えているのに気づいただろうか。

 駄目だ。気づかれちゃいけない。そんな事になったら、彼は無理矢理私をここから逃がそうとするだろう。そうしたら夢が現実になってしまう。


 向こうの世界に期待して、もし、幻だったら。本当だとしても、彼に苦労はかけてしまう。今まで考えることすらしたことのなかった私は、何も出来ない。私に出来るのは、このままここにいて、怜様に食べられて、伊織の安定を守る事だけだ。


 怖い。

 麻痺なんか、するはずない。死にたくなんかない。もっと生きたい。

 死にたくない。死にたくない。

 だって、せっかく伊織に会えたのに。


「凛子。怖い夢でも見たの?」


 黒い恐怖で強張った心に、伊織の声がじわりと沁みる。その声に、優しさに、思わず身を委ねそうになる。私は首を横に振り、笑顔を作ってみた。


「ううん。ななんでもない。夢なんか、見ていない。びっくりした、だけなの」


 私の下手くそな嘘に、伊織が騙されるわけがなかった。彼は片膝を更に深く載せ、ヘッドボードに手をつき、私の顔を覗き込んだ。

 ヘッドボードと彼の腕に囲まれ、逃げ場を失った私は、俯くことも出来ずに彼の瞳を見た。

 さっきまでの恐怖とは別の何かが、私の胸を熱く打つ。


「逃げよう、ここから。もう、時間がない」

「ななんで? どうしたの? 私は大丈夫だよ。こ怖くなんかないし。ももう決まっている事だし。苦しまないようにするって言っていたし。それに、伊織だって、このままここにいれば、もう苦労しなくていいんだよ。せっかく平和な生活が」

「何度言わせるんだよ、凛子をうしなった世界のどこに俺の平和がある!?」


 ヘッドボードを拳で叩き、伊織は叫んだ。


「俺が外の世界で生活できたのも、刑務所で虐待の餌食になりながら生き延びて来られたのも、なんでだと思う? 凛子のその気遣いが、俺にとってどれだけ残酷なものか分かる? あのな、俺の気持ちをばかにすんなよ」


 彼は俯き、声を僅かに震わせた。


「……別に、凛子が俺をどう思おうと構わないんだよ。友達でも、兄ちゃんでも構わない。向こうの世界に逃げて、生活に慣れて、そして、凛子に好きな奴が出来て、俺と別れても構わない。嫌だけど。でもさ、凛子が生きていてくれることが一番大事なんだ。凛子が生きて、ささやかな幸せに満ちた、長い人生を」


 言葉が途切れる。

 顔を上げる。

 溢れそうに潤んだ目で、私を見つめる。


「だから、逃げよう。準備は出来ている。あとは」


 ベッドから降りる。

 拳を握る。


「凛子が、叶様への想いを断ち切ってくれれば」


……え?


 伊織の言葉を聞いて、突然、私の胸の中に得体の知れないものが湧き上がった。


 逃げられるものなら逃げたい。でも逃げられるか分からない。

 逃げられたとしても伊織に苦労をさせてしまう。それは嫌だ。

 でも生きたい。折角伊織に会えたのに。

 今、そう思っていた。


 なのに、何故だろう。

 あんなに好きだと思っていたのに。


 今の私の心の中に、怜様が、どこにもいない。

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