4.逃げよう、一緒に
1.穢いもの
「だーかーら、本当ごめんってば!」
ある日、嶋田さんが伊織に引っ張られて私の部屋に入って来た。
「なんでですか。正直に理由を言って下さい。嘘吐いたりしらばっくれたりしたら、俺の血を飲ませますよ」
「わーかった、分かったから。そんないかにもまずそうな血、やだよ。僕は食べ物派だし」
「嘘吐いたら俺の血を飲ます」って、そんな脅迫のしかたがあったのか。そして伊織って、そんなに血がまずそうなのか。まあいいや。それよりこの二人、なんで私の部屋に来たんだ。
「俺が外出中、後をつけている嶋田さんを見つけたんです。で、この間の事もありますし、ここは凛子様の前で話を聞こうと」
嶋田さんは伊織の手から離れると、椅子に座って頭を掻いた。
「なんだよもう、僕の方が先輩なんだぞ。……えーとですね、すみません、外出の時とか、叶様の目が離れている時とか、伊織の後をつけていました。だから、この間二人で屋上に行かれていた時も、下の部屋で様子を伺っていました。本当、すみません」
頭を下げられて思い出す。あの時、本当に後をつけられていたのか。下の部屋にいても話は聞こえないだろうが、やはり不愉快だ。
「やだ嶋田さん、気持ち悪い」
「そう真っ直ぐ言われると、流石に
「なんでそんな事したの?」
嶋田さんは伊織の方を見ながら言った。
「伊織って、二度も脱獄しているじゃないですか。その調子でここを脱走しないように、見張っていたんです。もし脱走したら、捕まえて、叶様に報告しようと思って」
「え、怜様に見張っていろって言われたの?」
「違います。僕が勝手にやっていました。叶様も井村さんも伊織を頼りにしているから、もし、伊織の脱走を止めたら、凄い手柄になるかなあって」
少し不貞腐れたような口調で言葉を続ける。
「僕は算盤も帳簿記入も出来ないし、あんまり頭がよくないけど、どうしても執事になりたいんです。井村さんは体が元気なうちに辞めるって言っていた。でも」
嶋田さんは自分のニキビだらけの頬を指差した。
「僕は半吸血族です。よっぽどのことがないと執事になんかなれません。分かっているけど、なりたいんです。比佐子、人間どもにばかにされながらこき使われていて。だから、『執事の嫁』として、楽させたいんです。それには、それなりの手柄が必要で」
「それなら俺の後をつける前に、算盤と帳簿記入を覚えなきゃいけないんじゃないですか?」
伊織は嶋田さんの前に座り、両手を膝の上で組んだ。
あ、なんか、懐かしいな、この感じ。
農場にいた時、悪さをした年下の仲間に、こうやって諭していた。伊織の諭し方は、言葉が結構直接的だから、それだけで嫌がられたりしていたけれど、私は好きだった。
諭されるのが好き、というのも変だけど。でも、伊織の言葉には、相手を想う気持ちがあるのが分かっていたし、なんだか大きな優しさに包まれているような気がしたのだ。
「幾ら手柄を立てても、このままでは執事の仕事は務まらないと思います。算盤くらい、俺でよければ訊いて下さい」
嶋田さんは、微笑みながら伊織を見て頷いた。
伊織の気持ち、分かったんだ、とほっとする。
「先輩に向かって生意気かもしれませんが、分からないものが出来ないのは当たり前です。分からなければ、学べばいいんです」
「だよね。うん。ありがとう。じゃあ夕方、早速教えてくれる? 僕、頑張るよ。だから伊織もね、逃げないでよ」
嶋田さんの言葉に、伊織は曖昧な笑みを浮かべた。
この時引っかかったのは、伊織の一言だった。
おそらく彼は、そう深く考えずに言ったのだろう。
だが私は、心の中で、この一言を何度も何度も繰り返し思い浮かべ、考えていた。
「分からないものが出来ないのは当たり前です。分からなければ、学べばいいんです」
そう、学ぶというのは良いことだ。
少なくとも、伊織の後をつけ回すよりはよっぽど良いことだ。
だが。
「……まだぁ?」
なんで夜中まで私の部屋で算盤を弾いているんだ。
「ごめ……申し訳ないです凛子様、俺の部屋は机がありませんし」
「すみません凛子さん。皆がいる使用人部屋でやるのはちょっと」
「なんでえ? 恥ずかしいことないじゃない。算盤なんか、他の人も出来ないんでしょ?」
「まあ、そうなんですけどね、あの、使用人部屋には女中が結構出入りして、その」
言葉を濁した嶋田さんの後を、伊織が引き取った。
「『掬い上げ』に算盤を教わっている姿を見られたら、嶋田さんが何を言われるか」
うわー……。じゃあしょうがない。私は欠伸をした後、ベッドの上に丸くなって彼らの様子を眺めていた。
どうせ、眠っても悪夢が待っているだけなのだ。
だから、彼らと一緒にいるほうが、自分の心を誤魔化せる。
「ねえ、伊織さあ」
それにしてももう結構な時間だ。嶋田さんもそろそろ飽きたらしく、頬杖をついて伊織に声を掛けた。
「恋人いる?」
「は!?」
伊織は目を見開いて愉快な声を出したが、私の方を少し見た後、無表情に戻って答えた。
「いえ」
「嫁は?」
「いません」
「じゃあやっぱりあれなんだな。特定のひとを選ばないで、遊んで棄てて泣かすやつだ」
「算盤、飽きたんですか」
嶋田さんは椅子の上でふんぞり返って算盤をかしゃかしゃ振った。
「誤魔化されないぞ僕は。どうなの。やっぱりそうなんでしょ。女は冷たくて危険なにおいのする奴に弱いって、比佐子が言っていたもん。それってまさに伊織じゃないか。だからもてるでしょう。ニキビもないし」
「それは創作の世界の話でしょう。それに俺だって騙されません。飽きたんでしたら今日はおしまいにしませんか」
「なんだよう。いいじゃないか。こういうの、使用人部屋だと聞けないんだもん。ねえねえ、今まで何人と交際したの? はじめて女と
嶋田さんは私の存在を完全に忘れているらしい。彼はお屋敷に住み込みで働いていて、周りに同年代の男性が少ないので、こういう話が出来ないのだろう。だから気持ちは分からなくもない。でも。
私は、いつの間にか彼らの話に聞き入っていた。
伊織はさっきから、無表情のまま嶋田さんの話をはぐらかしてばかりいる。さっさと答えれば、嶋田さんの詮索もおさまるだろうに。
もう、二人とも、さっさと出て行ってよ、と思う。
伊織、私のことをずっと好きだったって言っていたのに。私と一緒に違う世界に行こうなんて言っているのに。
五年の間に、嶋田さんの言葉を否定しないようなこと、あったんだ。
……へえ。
まあ、そっか。
伊織は綺麗だし、優しいし、よく分からないけれど危険なにおいもするらしい。きっと沢山言い寄られていただろう。
伊織は優しいから、女の子を振ったりしなかったのかな。
そんなもんだよね。
……ふうん。
むかむかする。気分が悪い。得体の知れない怒りのようなものが、ふつふつと沸き上がる。
「ねえ、無駄話するためにこの部屋貸している訳じゃないんだけど。終わったんならさっさと出て行って」
きつい言葉を投げかけても気持ちが静まらない。ぺこぺこと頭を下げて、逃げるように部屋を出る嶋田さんの態度が気にくわない。
むかむかする。
心の中がもの凄く
「遅くまでごめん。おやすみ」
私はベッドから降り、算盤と帳面を手に出ていこうとする伊織の服を掴んだ。
「さっき、嶋田さんが言っていたの、否定しなかったね」
心のどこかが「言うな」と叫んでいたが、言葉が零れるのを止められなかった。
言葉と一緒に、私を侵す穢いものが次から次へと溢れ出す。
「外の世界にいた五年の間に、色々あったんだ。そういえば前に私が少し言った時に否定しなかったもんね。そういうことだったんだ」
「なんの話?」
「別にいいじゃない、嶋田さんに言っちゃえば。今までの恋愛遍歴のこと。随分華やかだったんじゃないの?」
自分の唇の形が歪んでいるのが分かる。話せば話すほど、心の中に穢いものが満ちる。苦しい。なのに、止まらない。
伊織は俯き、唇を噛んだ。血を奪われ、色を失っていた唇が淡紅色に染まる。
顔を上げる。私を見つめる。
彼の心の中を表すような、澄んだ瞳に軽くたじろぐ。
「……あの時、咄嗟に作り話が出来なかったし、正直に話す訳にもいかなかったんだ。正直に話して、うっかり凛子と俺を繋ぐ話をしたら大変だし」
算盤と帳面を、胸の前に引き寄せる。
「多分嶋田さんが考えているほどじゃないけど、確かに色々言って来た人はいたよ。その度に苦しかった。どう拒んでも、その人は傷つくから」
私は彼の服から手を離した。
胸が鈍く痛む。
心の中の穢いものが、後悔の渦に飲み込まれていく。
「もし他の人を好きになれたら、どれだけ楽だろうと思ったことはある。でも、凛子のことが好きで、好きで、どうしようもなくて。今だってつらいんだ。この気持ちを断ち切って、割り切った気持ちで凛子をここから連れ出せたらって思うのに。でも、どうしても駄目なんだ」
彼に、醜く穢い心を抱いてしまった事が恥ずかしい。
私って、どうしてこうなんだろう。どうしてあんな心に支配されてしまったんだろう。伊織はとっても大切で、大好きな人なのに。
あれは、なんなのだ。あんなに穢くて、激しくて、苦しい気持ちになんか、なったことない。私はあまり性格がいい方ではないが、それにしてもあんな醜い心が眠っていたなんて知らなかった。
伊織は一気に話した後、頬を淡く染めた。
「本当、鬱陶しい奴でごめん。気にしないで。分かってはいるんだ。今、凛子も、好きな人を裏切ったり、断ち切ったり出来ないんだろ?」
彼の言葉に曖昧に頷きながら、私の頭の中が一瞬、真っ白になった。
あれ?
視線を無意味に彷徨わせる。頭の中に、考えがぐるぐると巡る。
そうだ。私は怜様が好き。私が逃げるということは、怜様を裏切り、断ち切ることなのだ。だけど。
今、そのことを、少しでも考えていたか。
いや。そもそも、私は怜様のことを考えていたか。
顔を上げる。伊織は首を傾げて私を見ている。
そうだ。今、なんで、伊織の過去の恋愛に関して、こんなに穢く激しい感情に揺さぶられていたんだろう。普通なら、嶋田さんみたいに興味は持っても、むかむかしたりはしないはずだ。
伊織、私の言葉に嫌な思いをしただろう。私に自分の気持ちを軽く思われていたのだから。
どうしよう。私、凄く嫌な奴だ。
「ごめんなさい。私、なんだろう、私ね、なんか、凄く、凄く、嫌な奴だ」
何言っているんだろう私。でも、どう謝ったらいいのか分からない。だって今、どうして自分がこんな気持ちなのか、分からないから。
伊織は私を見て微笑んだ。寂しいような、悲しいような、このまま空気の中に溶け込んで、消えてしまいそうなほどに儚げな微笑みだった。
「これ言うの、多分二度目だ。たとえ本人でも、凛子を悪く言うのは許せない」
私の頭を、二回、ふんわりと叩く。
おやすみ、と囁いて部屋を出る。
私は暫くその場に立ち尽くしていた。
胸に手を当てる。そして思い返す。
さっき、伊織の微笑みを見た時。頭をふんわり叩かれた時。
胸がぎゅうっと苦しくなった。
穢いものが、体の中から消えてゆく。
なんでだろう。ぎゅうってするのに、苦しいのに、なんでこんなに甘くて心地いいんだろう。
私、どうしてしまったのだろう。
私は怜様が好き。だから好きな人に命を奪われるのは怖くない。ずっと、そう思って来た。
それなのに、本当、ここしばらくでだ。命を失うのが怖くなって、心の中の怜様が薄くなっていく。
いつのまにか、怜様と直結する想いが、不審と、恐怖ばかりになっている。
ベッドに入り、目を閉じる。
だが、悪夢を見ることすら出来ずに、心がぐちゃぐちゃに乱れる。
私、おかしい。
穢い想いとか、激しい想いとか、甘く苦しい想いとか。
伊織のことを想うたびに、どうしてこんなに心が乱れるんだろう。
そしてこんなに乱れるのに、どうして彼の傍にいるだけで安心するのだろう。
おかしいじゃないか。
これではまるで、恋みたいだ。
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