5.違う世界へ

1.再会

 くらくらする頭を抱えながら、伊織に手を引かれるまま歩いた。

 頭上で大音量の話し声が聞こえる。ビルの壁に貼り付いた、鮮やかな映像が喋っていたのだ。そのビルの前には人々が群がっている。皆、掌くらいの薄い板を覗き込んだり耳に当てたりしている。


 伊織が急に立ち止まった。遠くにある何かを見るようなしぐさをした後、いきなり走り出す。だがすぐに止まり、小さく舌打ちをした。


「どうしたの伊織」

「気のせいか……うん、ちょっと、急ぐ」


 違ってくれ、と呟きながら、私の手を引き、歩き出す。

 暫く歩くと、地下に繋がる階段があった。階段を降りると、中は昼間のような明るさで、様々な店がひしめいていた。


「凛子、大丈夫?」

「もう……大丈夫かどうかも分かんない」


 兎に角、あらゆる刺激が強すぎる。伊織は初めてこの世界に来た時、具合が悪くなって気絶したと言っていた。私は丈夫なので気絶はしないが、そうなってしまう気持ちは分かる。




 地下街を左に曲がる。そこには服や小間物を売る店が集まっていた。伊織はその一角にある、女性ものの服の店に入っていった。

 店内には二人の女性がいて、鼻から脳天に抜けるような、独特の甲高い声を出している。


「いらしゃいま、せぇー。どぞごらんくだ、あっ」


 そのうちの一人が私達の姿を認めるや、満面の笑みを浮かべてこちらに来た。

 短いスカートを穿き、長い脚を惜しげもなく晒している。金茶色の髪をした美しい人なのだが、睫毛が異様に長く、目の上半分を覆っている。彼女は伊織に向かって話し掛けた。


「久しぶりぃ伊織君。元気だった? 相変わらず汚い格好してるねえ。折角の美少女顔が台無しだよ」


 伊織の腕をばしばし叩きながら、結構な言葉を浴びせる。彼女は私に視線を移し、笑顔を向けた。


「もしかしてあなたが凛子ちゃん?」

「あ、は、あ、はい。あの」

「初めましてぇ。和泉いずみです」

「いずみ?」

「あ、紗良さらです。伊織君から聞いてるかな。よろしくね。凛子ちゃんの事はるよ」


 にっこり微笑み、丁寧に頭を下げられる。つられて私も頭を下げるが、なんと返せばいいのか分からない。


「ちょっと伊織君。可愛いじゃない凛子姫。どうなの。ちゃんと告った?」

「え、ええ、まあ」

「おー。じゃあもしかして、告白うまくいって、これからこっちで姫と一緒に暮らそうみたいな?」

「はい」

「本当!? おめでとう! 爆発して!」


 紗良さんの言っている言葉は、分かりそうで分からない。「爆発しろ」と言われて、はにかんで俯く伊織もよく分からない。

 伊織はなおも話そうとする紗良さんを制して言った。


「あの、それより、すみません、スマホ貸してもらえませんか。急いで勝巳まさみさんと連絡取りたいんです」


 紗良さんは頷き、店にいたもう一人の人に「トイレ三番行ってきます」と言った後、私達を連れて店を出た。




 地下街の隅に連れていかれ、そこで紗良さんは伊織にピンク色の手帳のようなものを手渡した。手帳の中に紙はなく、板が挟まれている。伊織はそれを手に取り、板の上をつついたりなぞったりしていた。


「用事を済ませてから、新宿に出て来てくれるそうです。俺達は先に待ち合わせの場所まで行きます。お仕事中失礼しました。じゃ」

「えー、何それ。久しぶりなんだから皆でご飯食べようよ。今日はもう仕事終わるしさ。あ、先に預かっていたお金、渡すね」


 話の雰囲気から、伊織はいつの間にか勝巳さんと連絡を取り、待ち合わせをすることになったようだ。そこに紗良さんも混ざるらしい。

 わけの分からないことだらけで、気持ち悪くなってきた。伊織に寄りかかって息をつく。


「疲れただろ。先に待ち合わせ場所に行って休もうか」


 伊織は私の肩をそっと抱いて引き寄せた。人前なので少し恥ずかしかったが、その腕に体を委ねる。紗良さんは私達の方を見て、腕を組んで大袈裟に溜息をついた。


「何、めっちゃラブラブじゃない。ホント今すぐ爆発して。でもね伊織君。いくら自分が汚いからって、彼女の格好は気遣ってあげないと」


 紗良さんは私の足元にかがみ込んだ。


「凛子ちゃん、どうしたのこの脚。靴ドロドロで、ストッキング破けてるじゃない。ちょっとごめん、スカート上げるよ。あ、何これ、もしかしてシルク? 今時シルクのフルファッション(脚形の平面に編んで縫い合わせる製法)のストッキングなんて、そう見かけないよ。でもこれじゃあね。私、替えのパンスト持ってるからあげる。……ところでさ」


 紗良さんは視線を私の足元から顔に移した。


「この靴もだけど、服とか、髪とか、メイクとか、それ、向こうの世界の流行りなの?」

「え、これ、ですか? いえ、私がいたお屋敷の当主が、私や自分の奥さんにはこういう格好をしろって」

「当主、ああ、凛子ちゃんの命を狙っている吸血鬼か。そいつ、趣味、微妙じゃない? はっきり言ってその恰好、凛子ちゃんのいい所を全部殺してるよ。奥さんも凛子ちゃんと同じ感じの人なの?」

「いえ、全然違います。華やかで大柄で」


 最初は足元の汚れの話だったのに、なんでいきなり格好の話になったんだ。そんなにこの格好が変なのだろうか。紗良さんの勢いに飲まれて受け答えしてしまったが、何が言いたいのかよく分からない。彼女は立ち上がり、首を傾げた。


「奥さんの服装に口出す人、たまにいるけど、その人とタイプが違う人の格好も一緒くたにって、なんだろ。制服みたい。メイド服とかと同じ感じ。その人個人に似合うものを、っていう感覚、ないのかな。なんかな。まあ、もういいんだけどね」




 「パンスト」なるものを履いた。下着が肌色の半透明の生地から透けているさまは不気味だが、好意に我儘は言えない。伊織に連れられて、待ち合わせ場所だという飲食店の中に入った。

 店内いっぱいに、香ばしい香りが満ちている。主に飲み物を楽しむ店らしい。


「カモミールのトールとソイラテのショート、ディカフェで」


 理解出来たのは「カモミール」だけだった。座り心地の悪い椅子に座り、伊織から飲み物を受け取る。


「びっくりした?」


 私の正面に座った伊織は、飲み物を手にゆったりと言った。


「びっくり、というか、もう、頭の中がぱんぱんだよ」


 私の言葉に少し笑う。


「うん。刺激が強くて、全てのものの動きが速い世界だから。でも、慣れれば平気だよ。それにこれだけ色々なものが溢れているのに、ここには吸血族が存在しない」


 鳶色の澄んだ瞳が、私の瞳を捉える。


「だから『翡翠』の概念もない。ここでの凛子は、どこにでもいる、普通の女性だ」


 頷く。さっきから人を見ていて分かった。この世界には様々な人がいる。髪の色も瞳の色も様々だ。この店で飲み物を作っている人の中にも、菫色の瞳をした、異国人らしき男性がいた。

 だが、瞳から光を放って人間の血を啜っている人は、どこにもいなかった。


「でも」


 カップを持っていた伊織の手が、躊躇いがちに私の手に触れる。


「俺にとって凛子は、この世でただ一人の、特別なひとだよ」


 伊織の頬が桜色に染まる。はにかみ、俯き、私の手に触れた指先に力が入る。

 心の中がきゅうっと縮んだかと思うと、ふわりと広がり、あたたかく舞い上がる。

 目が合う。

 微笑み合う。


「おぅ」


 いきなりすぐそばから野太い声が聞こえた。それと同時に伊織の手が勢いよく引っ込められる。

 目を見開き、声のした方を見ている。


「これ! これ一度やってみたかったんだよ俺! いい雰囲気の二人の間に割って入って邪魔するやつ! お約束だよな! ベタだよな! 俺、ベタやテンプレって大好きなんだよ!」


 いつの間にか、私達のすぐそばに、紗良さんと大柄な男性が、意味ありげに笑って立っていた。

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