A-to-Zombie!

時流話説

序章 電車内



なにやら後ろが騒がしいので、酔っ払いの客が出たのかもしれないな。

―――と、恵崎純也えざきすみやは思った。



後ろ、というのは自分がすぐ背後という意味ではなく、客室だった。

いま座っている運転席から壁を隔てた客室である。

客もまばらな車内―――いや、この時間帯になれば退勤する社会人、下校する学生が増えてくる、座席。

ワンマン電車の運転中である彼は、先程の駅も定刻通りに出発し、走行にも異常はなかった。

恵崎は公共交通機関の乗務員である。


いつも通り仕事にいそしむ彼は、がたがたと一定のリズムで揺れる、車内でこの町を横断するレールを眺めていた。



運転席と座席とを仕切る透明な板は、強化ガラスでこそなかったが、とにかく、そのガラスを通して後ろを見ようとする。

簡単に砕けてしまうもろいガラスではないのだろう、ではなんなのだろう。

ふと思った。


恵崎はこの電車しごとばの材質のすべては、知らなかった。

ただの日常の一部としか思っていなかった。

運転席上部のミラーは乗客席を見渡す角度から、やや外れていた―――古い電車なので細かいところにガタがきている。


後ろにワインレッドの色の座席、客室があり、乗客はそろそろ増えてきた時間帯だ。

社会人も学生も帰宅時間帯である。


「ワンマン電車なんだから、客室乗務員はいませんよ、と………」



運転席から離れるわけにもいかないので独り言をつぶやくのみである―――なにか、余程のことが起こらない限り。


防音まで行き届いた新幹線に乗ったことはあるし、その乗り心地に純粋な感動はあった。

しかし彼はこの、別段最新鋭でもない、地方鉄道が気に入っていた。

この車種だと、その記念撮影は、四十年以上前のものが残っているそうだ。



自分よりも年上。

ところどころ、ガタが来ている年頃だろう。

減速機の重さ一つからとっても、感じ取れる。

仕事中は常に、がたんごとんと揺れるが、その音の割には体に伝わってくるのは軽快な振動で、心が落ち着く場所ですらある。

唯一無二だ。


「きゃあ!」


「あ、あんた―――なにを」


そんな声がいくつか聞こえて、客の足音がガンガン、とやかましく車内に反響する。

どうしたというんだ―――客も客だ、どこの馬鹿だ、面倒ごとを起こすなんて。

しかし酔っ払いが出るには、まだ日が高いが。

夕陽。

空には夕陽の眩しい赤が、周囲の住宅や、田園風景を照らしている。


流石に妙だなと思って、立ち上がり、後ろを見る。

客席で誰かが騒いでいる。

背後を見る。

その背後のガラス。


だん!

と、ガラスに赤いものがぶつかった。

恵崎は一瞬怯む。

衝撃で割れはしないところを見ると、やはり強化ガラスか、それにちかいなにかのようである。

だが、何がぶつかった。

あかい。


だが、なあに―――人の手だった。

真っ赤な、人の手。

ガラスに、赤いものが塗りたくられる。


「はぁっ―――?ちょ、ペンキ?お客さん、一体、なにを考えて」


赤い手の。

手形の。

その先に、ぎょろりとした目があった。

こぼれ落ちそうに、飛び出た眼球だった。

どうやらペンキを手ではなく体全体にかぶっているようなその乗客は、泡立った茶色い水のような皮膚をしていた。

それに赤が混じる。

一瞬、人間ではない、別の生き物と疑った程だ。

赤いぼつぼつは、皮膚ではなく血液だった。



その息は荒い。

何だこの、憔悴した男は。

普通じゃない、誰に何をされたんだろう。

その男………ひどく表情かおが汚れているので性別がちょっと自信ないが………男だよな。

荒い息がガラスにかかっていて、やや白い。

ガラスが白く曇り、透明になり―――の繰り返し。


息が荒い。

被害者。

だと、そう感じた………何かの被害者。

何の被害者かは知らない。


その男―――男性だと仮定するが、彼は何か―――激しく怒っているような、憤っているような、そんな風に見えた。


―――悪質な、クレーマーなのか?

まずいなこれは、一度前に向き直り、減速を開始してから話を聞こう。


男はガラス窓から離れない―――様子がおかしい。

やはり酒か………?

酔っ払いとは、こういうパターンもあるのか?

ガラスを垂れていくそれが、身体から垂れ出た血液だと、気づく恵崎であった。

血、血液。

夕陽の赤とは全く質の違う、赤。


余程のことが起こっているようだ、と恵崎は思った。

そこから先は――――――――



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