第20話 松江さん 3


右手側には民家が立ち並ぶが、左手側には、用水路が通っていた。

用水路は、広く、深さもあった。

その深さは三メートルはあるだろうか―――人が降りられそうだ。


実際に、降りていた。

人が。

たくさん。


かつて人だった者が、何十人か、知らないが―――。

用水路の中を、歩いていた。


「うッ………うッ………!」


僕は走りながら声を出す―――出しそうになりながら、喉で声が止まる。

黙らされる。


光景もさることながら、においも強くなった。

呼吸が乱れる。

勢いよく吸ってしまったら、眩暈めまいがした。

くらくらとしたのではなく、ずきんと痛かった。

用水路と、血の匂いが―――濡れたり乾いたりする、濡れたり乾いたりしている、何十人かの血液の匂いが―――何十種類かの血液の混ざった臭いが―――僕の走るすぐ横のレーンで形成されていた。


僕のレーン………つまり一般車道、歩道には、『被害者』はいない。

しかし地上から消えたわけではなかった。

彼らは地上にいた。

半分、水中…か?


ばしゃり、ばしゃりと、用水路の、膝から下で水を踏むような音が、聞こえる。


僕が走る足音に気付いた、一部の『被害者たち』が、手を伸ばす、上げる―――天をあおぐように。

僕はその横、というか高い位置を走り続ける。


「『オッ』」


それは、声だった。

かつて人間だった者たちの。


「『オッ』『オオッ』『オオオオ………』『ロッ』『オッ』『オオオオオ』『オ』『オオオ』『オオオオオオオオ』『ロ』『オオ』」


無数の、声。

声というより、鳴き声―――理性ない動物、の。


落ちた、のだろう―――、高い位置から低い位置。

それだけの事だった。

それでもまだ、人間ならば、どこかで這い上がる手段を見つけたのかもしれないが―――。

人間だったら、の話だ。


やはりみんな、人間ではなくなったらしい。

人間とは欠落している―――上がろうとする、そう、意志が。

或いは。気づいていないのか。

用水路に落ちたことにも気づいていないのか………?

思考が、思考回路が。

人間のものとはかけ離れている。


そういえば、目が白かった。

白い。

普通の目ではなかった―――視力も、あれでは落ちているだろう。

ろくに見えていない可能性がある………だから落ちた?


なんにせよ、僕は、襲われない―――距離としてはすぐそこ、目と鼻の先、目と鼻の下だが、まだ走る道はあるということは、確かだ。

大丈夫だ、襲われない。

大丈夫だ、襲われない。

走れる。


車道のど真ん中をひた走る僕。

地獄絵図の隣を走り続ける僕。

前方に死体がうつぶせになっている。

また、ハードル走みたいに飛び越す。

脇にがっしりと抱え込んだペットボトルが、またばしゃりと揺れた。


死体をまた飛び越えた。

体育で使ったハードルよりも、低いからあっさりしたものだが、何故だろう、ごっそりと疲れた気がする。


とにかく、このままいって、どこかでまた曲がらなければ。

左に。

そうして走り続けて、周防さんのいるサッカー部室棟へ―――あそこにたどり着いてドアを閉めてさえ、しまえば………!


背後を一瞬、振り向く。

松江さんだった者、が全力疾走してくる。

うわぁ………まだ。

まだ来る。

くそっ、まだ来る!


松江さんは落ちないか、落ちないだろうか―――落ちてくれ。

お前も用水路に。

だが僕に向かってくる以上、用水路に向かって突っ込むことはないようだった。


くそう―――くそう、どこかで曲がるしかない、曲がりたい。

用水路側に曲がるから、左。

いや待てよ―――?

そうだ、用水路だ。

用水路があって―――!


―――奴らの、白い目!


僕は曲道にまでたどり着く。

左へ曲がれる。道。


「ふっ………ふっ………!」


自分の息が荒くなってきた。

落下防止用の、一メートルほどだろうか、その高さのフェンスがあった。

用水路に沿って備え付けられている。


左へ曲がる道。

僕は、そのフェンスに手をかける。


「こ、のぉ………ッ!」


フェンスに手だけでなく、片足をかけ、そのままジャンプする。

用水路の、彼らの―――無数の目の頭上を、駆けた。


その先のフェンスを踏み、踏み台にして、再び道へ戻る。

僕は曲がることができた。

直角ではなく、斜めの軌道で。

ショートカット。


僕は曲がって、またひたすらに走り続ける。

前方は―――死体が何体かあるだけだ。

背後を振り返る。

走ってくる音がする。


松江さんだった者が走ってきた。

走ってきて、僕のいる左へターンしようとして、同じ軌道を走ろうとした。

松江さんだった者は、フェンスに勢いよく腹をぶつけた。

ぶつけて、それに構うことなく前のめりになり、両手を伸ばす。

用水路をまたぎ、その先のフェンスに、手がかかった。


「ふっ………、ふっ………ふっ………!ふっ………」


僕は息を荒げながら、走るのをやめ、早歩きに移行する。

クールダウンする。

松江さんだった者、の動向を眺める。


松江さんだった者、は曲がり角のフェンスに、腹と、前に伸ばした指先で乗っていた。

その姿勢でいた。

身体がぷるぷると震えている。

手を上げて、こっちに向かって進もうとした。


松江さんの顔が、一瞬、こっちに向く。

次の瞬間、かかっていた指がずるりと滑り落ちる。

僕からは、それは前転するような動きに見えた。

スカートと両足も、視界から消えて、ずるりと―――、落ちていく。

下へ、闇へ。


ばしゃりと、用水路の中の水が、大きく跳ねる。

そんな音が―――、聞こえた。

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