第19話 松江さん 2
「きっ………き、来た!連れてこないでよおおおおっ!」
長尾さんが叫ぶと同時に、ぐわっと腕を振りドアを動かす。
民家の玄関で、がらがらと―――、ドアが閉まる。
閉めて―――閉めるときに、その際、怪我をした少女、氷室さんの驚愕に固まった表情が、わずかに見えた。
だが、あっという間にドアの向こうに消えた。
木製の玄関のドアの、残像が―――焼き付いた。
―――ぴしゃり、と。
しっかりと、はっきりと音を立ててドアは閉まる。
「あっ―――ちょっ………と待って!」
玄関のドアはしっかりと閉じたまま動かない。
いや、ガタガタとわずかになり、鍵をかけている動作がガラス部分から透けて見える。
くそう!
僕は、一歩、二歩後ずさり、―――脇に抱えていたペットボトルが、下腹部にずり下がりそうになる。
迫ってくる松江さん―――ゆらゆらと、海中を漂うような、動き。
じゃり、じゃり。
靴はコンクリートの歩道で引きずっている―――靴に悪そうだ。
「くっそぉ!」
僕は、走り出す―――弾かれたように、必死に。
松江さんに背を向けて―――走る。
『松江さん、だった者』―――今は被害者、感染者或いは化け物―――に背を向けて―――走る。
伸ばされた両手が、僕のすぐ背後で、空を切った。
走る。
ペットボトルを、水分を支えながら、腕は振れないが、走る。
背後から走る音がする。
走る音が背後からする。
まさか!
足音が僕より大きい。
間違いない―――松江さん………走ってきてる!
後ろを見る暇はない、検分する間もない。
その距離の差はあまりない、距離が開いていない、走るしか―――。
前方に死体があった。
歩道に横たわっている死体。
僕はそれを、
「ふんっ………!」
ハードル走の要領で飛び越える。
コンマ五秒くらい、宙に浮く。
着地。
持っているスポーツ飲料はそろそろ
背後で、というか『松江さんだった者』の方で、派手な音がした。
どちゃり。
僕は振り返る。
松江さんは横たわった死体の上に、突っ伏していた。
転倒している。
「っふ………!っふ………!」
と、僕はまだ息を荒げて走る。
少し余裕が生まれたけれど、逃げ切れたとは思えない、走らないと―――走って―――。
くそう、あの女。
『松江さんだった者』もそうだが、栗色の、やや巻き毛の女!
あの長尾め!
閉めやがった―――閉めやがった、僕を簡単に―――見捨てやがった。
「くう………!」
喉が痛むが、必死で走る。
あの女は―――僕よりも、友達の―――氷室を優先して、家の中に避難しやがった。
そりゃあそうだろう。
全く持って、正解で―――。
的確だよ。
会ったこともないどこの馬の骨ともわからん男子の僕ではなく友達を救う。
女子二人で助かるなら―――。
愛すべき友達が―――怪我をしている女の子をだ、かばう。
ああ、美しいね。
僕がその立場だったらそうしたかもしれない。
ああ、それでいい、それでいいだろう。
女の子二人で、仲良くね。
だが目の前でああも完璧に戸を閉められるなんて―――実際やられると、こんな気持ちになるとは。
ぴしゃりという、思いっきりドアが閉まった音、あの時は心臓をぎゅっとつねられたかと思った。
戸というか、門というか。
地獄の門はあった。
現世にあった―――高校から、だいたい歩いて一分くらいのところにあった。
知らなかったよ今まで―――。
恐ろしい。
いい。
とにかく、いい―――僕は走るさ―――走るしかない。
走るが―――。
僕は前方を見て走る。
だが、その前方が問題だった。
道に落ちている死体は、確かにあるが―――危険性という点から見れば、ない。
襲い掛かってくる者が前方にいるわけではなかった。
だが―――方向が、マズい。
コンビニの方向に逃げてしまった………。
逆戻り。
元来た道を選んだ―――。
選ばなければならなかった。
あの松江さんだった者、は部室棟側にいた。
スタート地点、周防さんと過ごした部室棟側。
つまり高校の部室棟に向かって逃げるのは無理だったわけである―――。
仮に僕の運動神経が抜群であるならば、華麗なフットワークで松江さんを躱す、という手段があったかもしれないが、―――いや駄目だ。
リスクが高すぎる。
ここで
噛まれたら終わり。
手で掴まれただけでも、そのあと噛まれない保証もない。
というかまず、触れたくない。
『松江さんだった者』のことも知らない―――、運動能力はまるで情報がない。
手足が長い体型、何か運動をやっていた可能性もある―――彼女の
機敏に動くタイプならマズい。
逃げるのが無難だ。
そもそも生きているのだろうか―――あれで生きているとは?
死んでから動いているようにしか見えないのだが。
とにかく追いつかれないように足掻くしかない。
僕、両手には荷物を持っているし、全力疾走のタイムを超えることは難しいと考えるべきだ。
………いざとなったらこのペットボトルを捨てる必要も出て来るか。
考えながら、僕は歩道から、車道に踏み出して、斜めに走る。
昼間にこんなわたり方をするのは初めてなので、景色に新鮮さがあった。
目指すは曲がり角。
わき道である。
ここを左に曲がり、次も左、左―――のような曲がり方をすれば一周できることになる。
遠回りだがそれで行くしかない。
高校の近くだから、通ったことはある―――大丈夫だ、やるしかない。
車道は完全に横切り、
用水路の、水の音が聞こえる。
音が大きくなってきた。
ちらりと後ろを見る―――。
離れてはいたが、松江さんだった者が、走ってきた。
フォームとか、めちゃくちゃだった―――そしてやたらと足音がうるさく、無駄なエネルギーを使っている。
陸上部員でも何でもない僕でも、わかる。
しかし前傾姿勢だけは本気、全力そのものであり。
全力以外のものを忘れたように、加減、手加減を忘れたように走っていた。
僕に向かおうという姿勢がまだ、あった。
………駄目だ。やっぱりあっちには逃げられない。
曲がり角を、曲がる。
通常時なら、ただの民家が並んでいるのみの、平和な光景のはずだった。
僕は数秒間、気づかずに全力で走り抜けるつもりで、いた。
しかし。
「うッ………!」
異常はあった。
この世界はやはり、変わってしまった。
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