第18話 松江さん
「この子は噛まれたわ!昨日の夕方よ!昨日の夕方に、手当てしたの、私はずっと一緒にいる!この子は被害者なのよ何が悪いの!」
栗色の髪の女の子が真っすぐとした目を僕に向けて、怒る。
怒りを向けてきたものだから、僕は、すぐに言い返せなかった。
噛まれた被害者なのか。
その被害者が一番まずいのだ、下手をすれば加害者よりも危険なのだと、そんな理屈が言葉が喉から出かかった。
だが―――彼女は昨日の夕方に噛まれたと言っている。
昨日の夕方―――は僕が最初に騒ぎを目にして逃げ回った頃だ、この事件が起こった―――と、僕が思っている頃だ。
昨日の夕方だって?
それから、一晩経って日が昇って、今は午前九時ごろだろうか―――十二時間は経っている、もっとか―――計算になるが。
僕は腕を噛まれたという、氷室由佳の目を見る。
怯えてはいたが、瞳は澄んでいた。
知性が失われた印象はない。
綺麗な黒目だ―――別段大きくも小さくもない、正常な日本人の瞳だ。
清浄な人間の瞳だ。
肌も白い―――別段、身体的におかしな点がない、異常がない。
「い、いや―――あの」
「噛まれたらああなるって、誰が言ったの!この子は『ならない』の!」
長尾さんは言った―――そういった。
この子はならない、この子はならない―――とは?
何だって?
言っている意味が。
「全員が『病気』にはかからないの!」
「………いや」
病気、病気―――と来たか、確かにこれは病気のようなものなのだろう。
僕は―――僕はそれを聞いて、妙にくらくらとした。
助けを求めたいが、相談相手は見込めない。
過去に、ヒントを求めた。
噛まれたものが感染する何か。
全身から血がにじんでいるのに手当てする気など毛頭ない被害者たち。
コンビニの死体。
確かに何人もいた。
「絶対に『なる』の?絶対、百パーセントなの?」
死屍累々―――というほどではない、死体はあるが、大量の死体というほどではない、町。
病気にはかからない………?歩道に死体。
百パーセントはない。
「誰が言ったのよっ―――一人残らずなんて!」
死ぬ人もいて―――死ぬ人だけでも、無い。
人が少ない。
みんなどこへ行った。
どこかへ行った―――歩いて。
「ぼ―――僕だって、ちゃんと知ってるわけじゃない、逃げるのに必死だったから」
僕は昨日の経験から、判断していた。
だが、そう。
だが昨日の僕の経験は、ひたすらに走るという行為、もしくは近くにあったもので殴る、という行動がメインだった。
そうでないと身が守れなかったから。
結果的に助かったから、間違いではない………と我ながら想う。
だがそれは自衛のためで、調査や観察はしていない、できなかった。
被害者を観察する時間などなく、全力で息を切らせて走っている、という活動が主だった。
それなら僕はまだこの事件の―――全容を知らないのか?
「全員病気には、ならないかもしれないじゃない―――この子は大丈夫なのよ、本当に!」
「全員病気にはならない………_」
………全員が。
全員が―――昨日の夕方、全員が発症し、追いかけてきたら―――。
全員、だっただろうか?
本当に。
昨日あの時、僕を追いかけてきた生徒は、全員だっただろうか。
教室で、廊下で、倒れていた、転がっていた者はいた。
仮に全員が襲い掛かってくるのだったとするならば、そこまで強大な事件なら、僕は逃げ切れたか?
部室棟のドアに飛び込めただろうか。
僕は今頃、生きていないのでは。
あんなドア、というか小屋はいつ壊れてもおかしくない。
周防さんも、生きていられただろうか。
と、考えすぎかもしれないが、自分の考えていたイメージが揺らいだ。
「ま、まあ―――そこまで言うなら、わかった」
長尾さんが本気なようなので―――というか、声が大きい。
一歩、二歩、後退する―――たぷん、とペットボトルが揺れた。
僕は抱えているペットボトルを見る。
お茶。スポーツ飲料。
そうだ―――目的を見失っていた。
僕はこんなことをしている場合ではない。
僕はここで騒ぎを起こすのではなく、帰るべき場所があるのだ。
周防さん。
戻る場所。
とりあえず彼女とお茶しないといけない―――というと言い方が変だが、命懸けのお茶である。
あとは水。
じゃりっ。
と、足音が、高校の校舎がある方向から聞こえた。
歩道に女子生徒がいた………脇道から出て来たらしい。
とっさに周防さんが追ってきた可能性を期待した―――不安になって僕を追いかけてきてくれたか?
なんだか女子ばかりと会うなぁ。
なんだ―――僕の人生では珍しい、わりと華やかな展開だが―――ようやく春が来たのだろうか、我が世の春が。
名札がある。
制服には、『
松江さん。
なるほど松江さんか、今度は―――。
下の名前は知らないが、また制服の名札が情報源として役に立つ。
なかなかにスタイルがいい女子だった。
言いはしないが周防さんよりもすらりとしたモデル体型だ。
松江さんは肩にかかったウェーブの髪を揺らしながら近づいてきた。
髪の先端は固まっている。
手入れが行き届いていない?
松江さんの瞳は。
目の奥の、瞳が白くかすんでいて、大理石みたいだった。
どこを見ているのか、視線が曖昧だが凝固したような首は僕の方を向いていた。
見ていないが、首が向いていたというふうだった。
首は黒い。
血が固まっている。
固まった血。
首以外も、肌が随分と汚れていた。
松江さんが口を開く。
ぽこぽこっ、と、赤黒い泡が、松江さんの整った歯並びの隙間から漏れた。
唇は、口紅をたった今塗ったように赤かった。
松江さんの唇から血が出る。
とろろんっ、と垂れて、唇が塗り重ねられる。
血液が地面に何滴か落ちて、たっ、たっ―――と音がした。
たった今、僕の目の前で唇に赤を塗る。
唇がぬるぬるしていて、なまめかしい。
顔色はひどいものだった、変色している。
男子の僕としては専門外なことがらだが、化粧が落ちていると、こういうことになるのだろうか。
彼女が近付いて来てわかった。
髪の先端が固まっているのは、血液で接着されているのだ。
血液のかたまりが凝固している。
松江さんは靴をじゃりっ、と引きずり、僕に一歩踏み出す。
両手を僕に向かって、上げる。
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