第16話 氷室さん


死の匂いがはびこる町の中。

海老沢譲司は一人、手に入れたペットボトルを両脇にかかえて、歩いていた。


「―――みんな」


呟く。


歩道は、歩ける。

歩けるが、道はあるが、ところどころに死体があった。

あった、というか落ちているというか。

死屍累々、というほどの大量の死者ではなく、歩道はちゃんと歩けるスペースがあるのだが………。

一晩経ってこれほどまでに―――散らかるものなのか、町は。

夏から秋にかけて、一晩経ったら落ち葉が溢れていた、と言うように―――ただ、死体が落ちていた。散らばっていた。



死の匂い。

死の匂いが現れた町。

それは民家の茂みの下から見える、動かない腕であったり、排水溝に体半分を突っ込んでいる者であったり、車の中でシートベルトを締めたまま動かなくなっている人もいた。

それが死体であるという感覚が薄かった。

本当にこんな、こんな簡単に起こることなのか。


「―――みんな、死んで、いるのか」


外の世界を目の当たりにして、一晩明けて。

事実を―――僕は飲み込む。

飲み込まなければならないようだ―――


事態は最悪であると言えた。

最悪と言えた、はずだが―――


「死んだんだな」


それらの死体を、多少は見慣れたのだろうかそして、昨日と比べて―――湧き上がる感情。

通常はあり得ない一種の、感情が沸いた。

それは安堵、安心感。


「死んで―――もう、襲ってこない、んだな」


安心感。


噛まれた被害者が―――襲ってこない安心感。


この時の僕には、間違いなくそれがあった。

不謹慎極まりないのでもちろん、言いはしないが―――いう相手が町にいないが。

状況は最悪だ。

最も悪い状況で―――そして、これ以上の惨事には、ならない。


昨日の学校内のような、混乱を極めた暴動はない。

理性を失って人に噛みつき、噛みつかれた者はまた理性を失い、誰かに襲い掛かる―――。

そんな混乱。

それよりも―――今は状況が良好。


「覚悟して飲み物だけでも取ってこようとしたんだけど」


かなりの危険に遭遇する覚悟はしてきた。

大人数の、敵。

想像していたのは個ではなく軍勢、といったようなものだったが。

そういうわけではない?


とある民家の玄関が、目にまる―――その玄関の扉は、開いている。

不用心に開け放たれ、散らかった靴が見えた。

その奥は暗闇。


「もう―――終わったのか?『あれ』は、全部」


困惑の中である。

しかしそれまで神経を研ぎ澄ませてこそこそと行動していた必要に、疑問。

僕は泥棒でもないのに、抜き足差し足忍び足。

そうやって歩いてきた―――いや、お茶は盗ってきたものだ。

僕は泥棒。

対価を払わなかった者。

コンビニで、お金を払わず―――まあ店員もおそらく、生きていないだろうからいみはないのだが。


そうやって、どんな足音一つ聞き漏らさずに神経を研ぎ澄ましつつ、帰ろうとしていたが―――この必要は、なくなるのだろうか。

全力で走っていい―――いや、もしや慌てて移動しなくても、もう………?


立ち止まる。

立ち止まっていた。

僕は、今まで歩いてきた道を振り返る。

コンビニの方向。


騒ぎは被害者が暴れるだけ暴れて、しかしそれは昨日のうちに終了したのだろうか。

だとしたら、食料も取ってこれる………?

助かるのか。

食料に関して―――なんなら周防さんと一緒に行くことも出来るか。


民家の暗闇の奥を、注視しながら、ぼくはスマートフォンを手に取っていた。

文明の利器である。

昨日は役に立たなかったそれだが


今なら、助けを呼べる。

呼べる―――のかも。

スマートフォンの電源が付いた。

画面が白く光る―――一晩経ったくらいなら大丈夫か。

ここまではいい。


電話だ。

履歴で通話するばかりで、打ち慣れていない1、1、0を入力していく。

警察―――今度こそつながるか、日本の警察よ。

ここで僕に対して役立ってくれ、それでこそ警察だろう。


「今度こそ助けを呼べるのか―――?」


電話をかける間、歩きながら、というのは苦手で。

ノイズが入りそうで。

立ち止まる―――今立っている歩道から見える民家。

玄関が開け放たれている。

その暗闇の奥に目がいった。

何もない空間。


「たのむ、こんどこそ助けを―――」


電子音の、無機質な繰り返しのみが、響く。

なかなか繋がらない。

繋がらないのか、もう―――それとも、もう少しでこの事件は終わるのか?

それまでの辛抱なのか?


民家の奥の暗闇が、揺らいだ。

暗闇が揺らいだ気がした。

ぎし、ぎし。

廊下を歩いてきた―――女がいた。


女だとわかったのは、制服のスカートをはいていたからだ。

高校生がいる。

僕はスマートフォンを耳に当てながら、その姿勢で硬直する。

その家の暗がりから、制服を着た―――つまり僕の高校の女子が、やってきた。


ぎし、ぎし。

黒い靴下で床板をのし、のしと押し歩く者。


「―――あ、」


民家の玄関までやってきた彼女は、日光を浴び、黒い髪の長い子だということはわかった。

僕は彼女と目が合った。


先に声を発したのは彼女の方だった。


耳に押し当てた電子音は繰り返され、繋がらない。

或いは繋がってはいて、電話に出る人間が―――いない、というかもう―――この世にはいないのか。


「あ、あのう―――」


女子は言った。

知らない子だ、同じクラスの女子ではなかった。

制服の左胸についている名札を見る。

氷室。

氷室ひむろ』―――と名札にあった。

氷室さん、か。


「あの、私、怪我しちゃって手当てを―――しているの」


彼女は、氷室さんは話す。

彼女は日本語を話すことができる―――口を動かすより前から、その滑らかな肌、見た目で安全性が伝わって来たけれど。

か細い声で、完全に聞き取るのには少し神経を使う。

だが、日本語を話せる相手だった。

その子がジェスチャーで柔く動かす右手には、包帯が捲かれていた。


「お願いだから、あのうぅ―――食べないで―――私を食べないで、ください」


彼女は僕を見て、それから視線を切り、玄関を見た。

民家の玄関のドア、それに手をかけ、ガラ、と閉め始める。


「ちょ、ちょっと―――待ってくれっ!」


僕は携帯を切った。

だがあきらめたわけではない。

何かがつかめそうだった。

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