第25話 学校へ 4


 僕は。

 一気に、何も考えず、部室を出た。

 部室から、この安全地帯から、出なければならない。

 僕は、僕自身が、安全ではないからだ。


「噛まれた―――もう駄目だ」


 その台詞も、上手く声に出せたか不安だった―――喉がかたかたと震えるのが、なぜか止まらなかった。

 ドアを閉める寸前、周防さんと目が合った。

 目が合って、早口でさよならと言いたかったが、言いながら涙が出そうになったら情けない―――最後がそれは嫌だったので、言えなかった。

 彼女が口を開け、声をかけようとする。

 それ以上話していると辛かったので、僕は叩きつけるように、部室のドアを閉める。

 悪いけれど、もう終わりだ―――色々後悔はあるけれど、終わり。

 最後に女子の前で泣くなんてことをしたら、やってしまったら男子としては成仏しづらくなるから、これで終わりだ。


 無事でいてくれ。

 襲い掛かってくる、人間だった者が、三体。

 その三体の目つきは真っすぐと僕に向かっているが、僕の身体目当てであることはなんとなく目つきからわかるから、不思議なものである。

 それぞれに個性というか、感情がない。


 緩慢に服を掴んでくるのを、飛びのいて避ける。

 三体がお互い邪魔し合っていて、逃げる時間が探せそうだった。

 つかまれたら動けない―――。

 結局、この中のだれが僕の足を噛んだのかはわからないが―――ずきずきと、歩を進めるたびに痛む。

 痛む足首。


 走らなければ。

 走らなければ―――!

 さっきドアの向こうで、足だけ噛まれた。

 僕はいずれ―――もう、―――そのうち、なる。

『こいつら』みたいになる。

 ならせめて、周防さんのいるあたりから離れる―――しかない。

 そうだまだできることはあるかもしれない、今から考えれば、何か。



 噛まれたのが足首なのは不幸だった、運が悪かった―――移動するたびに傷む。

 そうこう考えながら、普段より遅いペースでグラウンドを走っているうちに。

 背後に三体が、追いつく。

 僕は一体を、突き飛ばす。

 だが三人がかりだと無理な話である。


 転倒して、また覆いかぶされる形になる。

 くそう、もうどうにでもなれだ。

 もう終わってる僕、そしてそもそも終わってるこの世界。

 細かいこと抜きにして、逃げ切るとか抜きにして、お前ら全員ぶっ殺してやる。


 つかみ掛かってきたその左腕を、両手でつかむ。

 腕を持って、ぐい―――と引っ張る。

 感触はひどいものだった―――もはや人間の腕ではない、変色して、腐った果実のようだ。

 こいつを投げれるだろうか―――柔道のように。

 くそう、この化け物が、せめて一体、一匹―――こいつだけでも倒す。

 何かの方法で―――。


「このぉ―――引きずり―――倒す!」


 引きずり倒してやる。

 目の前の男子生徒だった者、の名前は結局わからないが、そいつの左腕を掴んで、力比べをする。

 噛みつこうとする、その人間だった者の前歯を回避しながら、身体を取り押さえる―――取り押さえようとする。

 その後ろの二体が、近づけないように、こいつを振り回す。

 身体を振り回してやる。


 僕はもう、死に物狂いだった。

 顔が熱くなった、心も熱くなった。

 進む方向を注意、意識して部室棟側に戻らないことだけ、注意しながら―――。


 ―――ぶちぃっ!


 と、太い縄がちぎれるような音がして、血液がばたたっ―――と僕の身体にかかった。

 赤黒い液体には勢いと質量を感じた。

 腐臭が強く、より直接的なものになる


 なんだ、大量の―――どこの血液だ―――と思う間もなく、転倒。

 僕は急に腕を離され、転倒する。

 二転ほどして、転がり―――マズい、まだ移動しなければと、走った。

 奴も転倒したようだ―――。

 僕が、腕を持って先に立ち上がる。

 呼吸が、息が、詰まりそうになった。


「ほおっ、ほ………!」


 僕は出したことのない声を出した。

 僕は、奴の腕を持っていた。

 欠落した部品―――指から肘ぐらいまでの、大体五十センチほどを―――もって、見つめる。


 腕の重量を、僕は手で感じていた。

 腕だけを持つ。

 腕―――、腕、単品たんぴんを、持つ。

 今まで色んな人と出会い、だから色んな腕を見てきたが、僕は他人の腕を持ち運んだ経験はないのだった。

 持ち運べるタイプの腕である。


「………おっ!」


 腕を大根だいこんか何かのように抱えて、日本語はそれきり浮かんでこない、あとは呼吸音だけになる。

 声が出ない。

 が―――何か、感銘を受けるような、感心するような―――こんなことが有り得るのだなあという気持ちが、一瞬だが沸いた。

 その後は―――ひたすらに、とんでもないことだと思った。

 腕が―――指から肘までが、腕から肘までを、僕が、持ってる。

 持ち歩いている―――指から肘までを。

 断面からたぷたぷ、とまだ血液が溢れてくるたびに、ぴちぴちと、跳ね動いているようにも見えた。

 持っている腕が赤い液体でぬめぬめと、温かくなった。

 腕の表面は、その血液やそのほかの体液か何かで、ひどく滑る。

 その感触は家庭科の授業でさばいた生魚を、もう少し大きくした感じだった。


 僕の首に、覆いかぶさった奴が噛みついた。


「あああッ!」


 逆方向の首に、もう一匹噛みついた。


「あがあああああああああああああああああああああああ――――――――ッ!」


 全部出る――――。

 声が、全部出る!

 やつら二人がかりの重みで、地面に倒れた。

 頭を打つ。

 首筋に刺さる前歯の感触に戦慄している、動くとさらに酷いことになりそうだ。

 僕はなぜか、噛みつかれながら、持っていた持ち運べるタイプの腕を、さらに強く握っていた。

 け反って、見上げた空が青い。

 意識が遠のく。

 色んな、過去にあった声が、聞こえる。




 ―――全員が『病気』にはかからないの!






 怒鳴り声。

 記憶の中の―――怒鳴り声。

 それは女のこ、え………誰が………言ったんだったか………。

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