第40話「エピローグ 人は変わることが……」

 

 2013年3月 富士山麓 巨大霊園


 あれから五年が経った。

 敬介は青く澄んだ空の下を、砂利を踏みながら歩いていく。

 あたりは霊園だ。一面に砂利が敷かれ、クルマほどの大きさに区切られた区画が何千と並び、その区画の中には墓石が立っている。どの墓石も見事に掃除され、昨日切りだされたばかりのようにピカピカだ。墓石の周囲には必ず花や、小さな樹が植えられている。緑溢れる、空間の余裕を大事にした墓地だった。

 そして空には、白く雪を頂いた富士の山が浮かんでいた。裾野の方は空に溶け込む同じ色で、山頂に近づくに従って雪の白さを帯びていくのだ。

 世界を旅してきた敬介も、これは素直に美しいと思った。

 先ほどからずっと、冷たい風に乗って、ハーモニカの演奏が聞こえてきていた。敬介が歩いていくにつれ、その響きがだんだんと強くなってくる。

 奏でているのは、墓石の前に立つ一人の女性だった。長身を象牙色のコートに包んでいる。髪はごく短いが、女性であることは間違いない。背筋を伸ばして肩をいからせ、ただハーモニカを持つ手だけが滑らかに動いて、音が紡ぎだされていく。

 曲が盛り上がり、終わるまで、敬介はその女性の後ろに立ち尽くしていた。

「隊長」

 女性の背に声をかけると、彼女は振り向いた。

 サキだ。

「遅かったな」

「時間通りですよ。隊長が早すぎるんです。いまの曲は?」

「これはカチューシャの唄と言ってだな、大正期の流行歌だ。気に入ってくれるといいのだがな。お前はどう思う?」

「その……とても良かったです。ブワーッという感じで、聴いている俺の気持ちも、なんていうかブワー……感動しました」

「わかった、わかった。悪かったよ。無理に訊いて。相変わらずだな」

 サキは苦笑する。敬介はサキの隣に並んで、墓石を見下ろした。

 墓石は、同じ大きさのものが二つ。


 天野愛美

 氷上凛々子


 御影石の美しいグレイの表面を、いく滴もの水滴がつたっている。今朝の雨がまだ乾ききっていないのだろう。泣いているようだと思う。

 サキは無言で、持ってきた桶と柄杓で墓石を洗う。敬介はやはり無言で、墓石の前に線香を供えた。

「素晴らしいお墓だと思います。本当にありがとうございました」

「ありがたいと思うなら、もっと頻繁に来てくれよ」

「すみません……」

 あれから五年。敬介とサキは、凛々子たちの命日に会うことにしていた。

 いつも大して喋らない。挨拶と、ほんの数分の会話を交わすだけで、敬介は頭を下げてその場を去っていた。

 サキも殲滅機関のメンバーだ。姉を殺した奴らだ。そんな気持ちが心の中で頭をもたげるので、恐ろしくなってすぐに去ることにしているのだ。

 それでも敬介にとっては大きな救いになっていた。歳をとることもなく、仲間や家族を作ることもなく、闘いの道をゆく敬介にとっては。

「最近、どうなのですか、隊長のほうは」

「ああ、大尉になったよ。お祝いはいい。現場に出られなくなるのが憂鬱だ。この五年、情報局の発言力ばかり大きくなってな。いろいろ大変なんだ」

「そうでしょうね」

 ヤークフィースとゾルダルートを倒したことで、有力な蒼血は恐れをなして日本から逃げていった。いまでも国内の蒼血の活動は不活発で、作戦局員の出動自体が減っている。かわって大活躍しているのが情報局だった。もと教団員を何十万人という単位で逆洗脳し、普通の人間に戻してきた。かつてない規模の記憶操作のためにアメリカ本国から惜しみなく資金と人材が送り込まれ、いつしか情報局は「有力な部署」ではなく「日本支部の中心」になっていた。

「知っているか、今年から殲滅機関情報局は、与野党や財界のトップクラスに直接工作をかけて、記憶操作や人格改造で操ることにしたんだ。また蒼血に浸透されるのを避けるため、だと」

 胸糞の悪い話だった。

「初耳です。ではヤークフィース達のやっていた事と大して変わらないですね」

 今も敬介の脳裏には、ヤークフィースの投げ掛けてきた皮肉が焼き付いて離れない。

 ……『民衆を侮蔑していることにかけては、あなたがた殲滅機関も相当なものですよ』

 苦々しい思いに唇を歪めた。

「まあ、私のことはいいだろう。天野はどうなんだ。アフリカでの活躍はうちの支部にまで聞こえてくる。今日はちゃんと教えてくれ」

「ちゃんと……ですか?」

 敬介は口を半開きにして固まった。

 何を話せと言うのだろう。

 アフリカに殺戮と狂気を振り撒き続け、永遠の暗黒大陸たらしめてきた蒼血、『混沌の渦』ナーハート=ジャーハートとの闘いを、その場にいない者にどう伝えればいいのだろう。

 伝えようがないし、ここでサキに泣き言をいっても始まらない。すべて背負っていくと決めたのだから。

 だから敬介は意識的に笑顔を作り、喋り始めた。

 ――飢えや伝染病で虫けらのように死んでいく子供達を、大勢治したこと。

 ――蒼血に乗っ取られた軍閥やカルト教団に殴りこんで、いくつもいくつも壊滅させてきたこと。

 ――そのほか、幾多の勝利の物語を。

 死から救った子供達の大半は少年兵となり、十五歳にもならないうちに自動小銃で殺しあって死んでいった、ということは話さなかった。

 軍閥を潰しても、軍閥に参加していた人々は戦いをやめず、むしろ細かな民族の差や宗教の差、四代前の祖先がどんな出自だったかで分かれて、今まで以上に激しく殺しあったことも、話さなかった。

 カルト教団を滅ぼした途端、信者達は心の支えを失って集団自殺したことも。

 ナーハート=ジャーハートとその眷属は、ヤークフィース以上に間接的手段を用いた。人間を洗脳や暴力で直接操ることは好まなかった。人間の中に必ずある無知や偏見や欲望につけこんで踊らせていた。蒼血が先ではなく、人間の愚かさが先にあった。だから、戦っても戦っても、蒼血をどれだけ滅ぼしても争いは減らなかった。むしろ増えているような気がしてならなかった。こんな愚かな人々は蒼血に支配されるべきだ、というヤークフィースの言葉を何度思い返し、慌てて心の奥底に封じ込めたか、分からない。

 今では胸の中に、重く冷たい諦観が、冷えたアスファルトのようにこびりついている。

 敬介がこれらの悩みを隠して明るく喋り続けるのを、サキは黙って聞いていた。

 最初は棒立ちで聞いていたが、やがて腕組みを始め、眉がハの字になった。眉間に深い皺を寄せ、唇を噛むようになった。

 敬介が喋り終えると、深いため息をついた。

「……相変わらずだな、本当に。隠すのが下手だ。なんでも抱え込んで深刻に悩んで、でも他人の目からは、悩みを隠していることがバレバレだ。素直なんだな」

「そんなこと」

 大きくかぶりを振って否定したが、サキは引き下がらない。

「つまりだ。お前は辛くて仕方ないんだろう。自分の頑張りは無駄なんじゃないかと、思えてならない」

「かなわないな、隊長には」

 肩を落として呟くしかなかった。

「そうです。隊長のおっしゃるとおりです。

 でも、俺は諦めませんよ。

 決めたから。絶対にやり抜くと。

 どんなに辛くても戦うと。

 命が尽きるまで、です」

 笑顔を浮かべることはもうできなかった。胸の奥で渦巻く、泣きたい衝動をこらえて、顔面をむりやりにこわばらせて喋った。きっと悲壮極まりない顔になっていると思った。

「……ふむ」

 サキは腕組みを解き、いたずらっぽく笑う。

「ところで、今日はもう一人来るんだ」

「え? 聞いていませんよ。やめてくださいって言ったはずです。姉さんは殲滅機関と関係ないから呼ばないで欲しい、墓参りをされる筋合いはないし、俺だって殲滅機関の人たちとは、あまり会いたくない」

「そう言うな。どうしても行きたい、お前に会って言いたいことがある、頭を下げられたんだ。

 リーの奴だよ」

「な……」

 敬介は動揺した。日常的に銃弾の嵐をかいくぐっている肉体が、恐怖にわなないて冷や汗を分泌した。

「待ってくださいよ!」

 あいつは俺の事をいまでも憎んでいる。間違いない。細い目に宿る、刺すような憎悪の光をいまでも覚えている。「戦友を殺された」。まったく抗弁のしようがない、正当な恨みだ。

 他にも恨まれる理由はある。敬介はあの戦いで多くの負傷者を治したが、リーは治しきれなかった。 

 そして俺はこの十年、凛々子のことぱかり考えて、彼のことは切り捨てて生きてきた。彼もまた、償うべき相手だというのに。頭を下げることすらなかったではないか。

 そしてこれからも……俺はリー軍曹に、本当の意味で償うことはないのだ。

 大切な人を奪われた遺族は、犯人の謝罪程度では到底納得しない。

 『お前も死ね』それが遺族の本音だろう。敬介自身、『お前も死ね』の気持ちが身に滲みて分かる。

 だが死んで償うなど論外だ。俺は凛々子の償いのためだけに生きると、約束したのだから。

 たとえ他の全てを切り捨て踏みつけようと。

「駄目です、隊長。俺はリー軍曹に会いたくありません。会う資格がないのです」

「まあ待て、逃げるなよ」

 立ち去ろうとする敬介の首根っこをサキが掴む。もちろんサキがどれほど肉体を鍛えても敬介の指一本ぶんの力もあるまい。力ずくで振りほどくなら簡単だ。

 それなのに体が固まって、振りほどくことができなかった。

 遠くの方から足音がする。

 シャリリ、カツン、シャリリ、カツン。砂利の上を誰かが歩いてくる。

 敬介の鋭敏な感覚は足音を反射的に分析してしまう。足だけでは有り得ない音。杖を突いている。そして片方の足にだけ体重がかかっている。バランスは悪く、歩行のペースはひどくゆっくりとしている。

 今までリーの事は全く訊かずにいたが、やはり後遺障害が残っていたのだ。

 と、そこで一つの符合に気付いた。体を縛りつける苦々しい思いが、さらに増した。

 ……姉さんと同じだ。

 俺が仇討ちを諦め、こんな冷たい土の下に閉じ込めて、ろくに顔も見せに来ない、「切り捨ててしまった」姉さんのように。

 姉さんの無念が、形を変えて現世に現れたかのように。

 リーの足音がますます近づいてくる。

 カツン、シャリリ、カツン……

 ……俺に何を言うんだ、リー軍曹。

 ……俺をどれだけ憎むんだ。

 ……俺は。受け止めなければいけないのか。

 ……凛々子なら、どうしただろう?

 頭の中が濁って、ぐるぐると同じ事を考えてしまう。どうすればいい、どうすればいい。

 答えは出てこないまま、暗澹たる気持ちでリーを待ち受ける。

 曲がり角からリーが姿を現す。

「……え?」

 思わず、驚きの声を漏らす。

 リーはジャージにスニーカー姿という恐ろしくラフな格好だった。不自由な体にはこの服装が便利なのかもしれない。

 かつては筋肉に包まれていた肉体は見るも無残にやせ衰えている。片足がろくに動かないらしく、ひきずってゆっくりと歩いてくる。体全体を小刻みに痙攣させているところを見ると、脚以外にも具合の悪いところがありそうだ。

 だが、その表情は何とも明るいのだ。

 リーは敬介たち二人の姿をみとめると、細面ににっこりと笑顔を浮かべ、片手をぎこちなく挙げて挨拶した。足が不自由なりにペースを上げ、せかせかとした動作になる。

 あっけにとられる敬介の前にやってきた。

「や あ。 ひさしぶり だな。 あまの。」

 体を震わせながら、不明瞭な発音でゆっくりと喋った。これも姉を思い出させてならない。

「ご……ご無沙汰しています、リー軍曹」

「天野、彼はもう軍曹じゃない。除隊したからな」

 そうだろう、この体ではどうしようもない。

「あまの。おれの じょたいのことについて。おまえに ひとこといいたくて きたんだ。」

 ……ああ。来るぞ、怨嗟の言葉が。

 敬介は両の拳をかたく握りしめ、せめて目を逸らすまいと、リーの糸のように細い目をじっと見つめた。

「おれいを いいたかった。ありがとう。」

 一瞬、何を言われたのか理解できなかった。馬鹿みたいに口を半開きにして、たっぷり二秒間は経ってから声を上げる。

「……はあ!?」

「おれは たたかえない からだになって じょたいした。

 さいしょは つらかったよ。

 まいにち、 むかしのことを ゆめにみて、とびおきた。

 そうけつと たたかえない。なんのいみがあるかと、おもった。

 でも、おれと おなじようなからだの あつまりで。 

 にょうぼに であったんだ。」

 そこで、恥ずかしそうに顔をほころばせる。リー軍曹がそんな純情な一面を見せるところなど、敬介は一度も見たことがなかった。彼はいつだって皮肉や冷やかしを言っているか、さもなくば本気で何かを罵っているか……

「とっても いいおんなだ。すぐに むちゅうになった。あんなしあわせが あったなんて。

 だから」

 そこで微笑を消し去り、この上なく真摯な表情で言い切った。

「おまえには かんしゃしてるんだ。

 おまえが、なおしてくれなければ。

 しんでいた。にょうぼにはあえなかった。

 ありがとう。」

「……でも、でも。俺は軍曹を、ちゃんと治せなかったんですよ。他の隊員はみんな元通りなのに、軍曹は脳の損傷がひどくて……そんな体に」

「だから。いってるだろ。こんなからだ だから あえたんだ。」

 頭をガツンと殴りつけられたような衝撃だ。

 だが敬介は、動揺に声を震わせながらも、ためらいがちに問いかけた。

「俺は確かに、良いこともしたかもしれません。

 でも五年前、全くのミスで、軍曹の部下や戦友をたくさん死なせました。軍曹は、俺を殺したいくらい怒ってましたよね。

 他のところで良い事をしたって。消えるわけがないと思うんです。こんなことが、これだけのことが。

 それでも恨んでいないんですか、俺のことを!?」

 最後のあたりは声高に、叫びに近くなってしまった。

 有り得ない、頭の中でそう叫びがこだましているのだ。

 リーは黙り込んだ。顔を伏せ、沈痛な面持ちだ。

 数秒間、誰一人リーに声をかけない。

 そして……ふたたび笑顔を取り戻すと。

 不自由な足で歩き出し、敬介にさらに近づき、背中に腕を回して抱きついた。

 震える手で、敬介の肩を叩き、耳元でささやいた。

 遠い日のように。

 ベテランの下士官が、失敗にしょげ返る新兵をなぐさめるように。

「いいってことよ。」

 その途端、敬介の胸の中で何かが解き放たれた。冷たく鬱屈していた想いが、勢いよく蒸気と化して体の中を吹き上がる。吹き上がった熱い気持ちは、涙腺に殺到した。

 いけない、と思って瞼をきつく閉じたが、もう涙は溢れ出していた。

「……あれ。おまえ、ないてるのか。」

「な、泣いてなんていませんよ。なにを馬鹿な……」

 そうは言っても、涙は勢いを増すばかりだ。

 瞼が作る闇の向こうから、サキの優しい声がした。

「なあ、天野敬介。

 いまでも思うか?

 人は変わることなどできないと。

 自分のやってきたことには、なんの意味もなかったと」

 敬介は即座に答えた。

 涙声で。万感の思いを込めて。

「そんな事。そんな事……思うわけないじゃないですか!」


 終わり 

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ブラッドファイト 『蒼血殲滅機関』戦闘録 ますだじゅん @pennamec001

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