第11話「神の軍勢」

 ほぼ同時刻 東京ビッグサイト


 会場の東123ホール。もはやそこで同人誌を売り買いしているものなど誰一人いない。

 机が片付けられ、繭を中心にして一万五千人もの人々が集っていた。人々は同心円になって並んでいる。

 愛美は円の中心のすぐ外側の列にいた。目の前に繭の姿を見ることができた。

 人々に向かって、繭は微笑を浮かべながら語りかける。

「我々はこれから、多くの苦難にさらされることでしょう。見てください、会場内にいる警察たちを。会場の入り口をかため、我らを睨み付けているものたちを」

 愛美も先ほどから不思議に思っていた。

 本当にあの警察たちは何なのだろう。

 暴行の加害者を逮捕するならわかる。目撃者の話を聞くのもわかる。だがどちらもせず、ただ出入り口を固めて人間の出入りを防いでいるだけなのだ。

「これから警察などとは比較にならない恐ろしい相手が来ることでしょう。

 我らが神の王国を建設することを恐れるものたちが。

 この世界を裏から支配する者ども。邪悪の軍勢です」

 ずっと黙って話を聞いていた群衆のあちこちにざわめきが生じた。

 当惑と懐疑のざわめきだ。

 愛美もさすがに眉をひそめた。この世界を裏から支配する邪悪の軍勢? あまりにマンガじみた話ではないか。一度は神と信じた気持ちが揺らいだ。信じようとは思う。だがまさか。

 人々の感情を敏感に察し、繭は強い口調で言い放つ。

「なるほど、私の言葉が信じられない者がいるようですね。しかし邪悪の軍勢は必ず来ます。おのが眼で、しっかりと真実を見極めて下さい。

 その前に。戦うための力が必要です。

 明石美雪! 有川拓人! 皆口礼二! 長谷川貴史! 水原鞘! 滝山源! 多田野美樹!

 来るのです!」

 名前を呼ばれた人々が、同心円の中心に集まってきた。

「ほんとうの奇蹟を見せてあげましょう。みな、脱ぐのです」

 あまりに意外な言葉に愛美は耳を疑った。

 だが呼ばれた七人はためらうこともなく服を脱ぎ始める。年齢性別は様々だ。鍛え抜かれた体の男も、太った中年男も、まだ未成熟な体の少女もいる。

 繭もすばやく裸になった。あらわになった裸身は白く輝き、手足はすんなりと長い。豊かな乳房が若々しい生命力と弾力に溢れ、重力を無視して誇らしげに突き出している。

 愛美は同性でありながら繭の裸身に目を奪われた。これほど豊満で、だがこれほど贅肉を感じさせない、美しい女の体を初めて見た。神聖なものだとすら思った。これと比較すれば自分の体など、いやほとんどの女の体など出来損ないだ。骨か贅肉のどちらかが目立ちすぎる。

「さあ!」

 繭が両腕を広げると、呼ばれた七人が一人ずつ、列を作って繭の前に並んだ。

 最初のひとり、鍛えられた肉体をもつ若い男が繭と抱き合った。

 次の瞬間、愛美は目を大きく見開いた。何が起こっているのか認識できない。

 全裸で抱き合ったふたりが、ダンスでも踊るように足を進める。

 二人はその場でゆっくりと回り出す。

 だから愛美にはよく見えた。

 抱き合って接触した胸に、腹に、音もなく白い泡がたくさん生じた。泡の出現とともに若い男の体が縮んでゆく。太い手足がしぼみ、胸板が薄くなっていく。かわりに繭の肉体が膨張していく。太るのではない。おそろしく均整のとれたプロポーションのままで、顔が、腰が、胸が……身体の各部分が膨らんでいるのだ。いくら長身といっても百七十センチ程度だった繭の体が、眼で見てはっきりわかるほどに大きくなっていく。

 吸収! そんな言葉が愛美の脳裏に閃いた。

 人間が、人間の肉体を吸収している。

 あまりに非現実的だが、目の前で確かに起こっている。

「ああ……ああっ……まゆ……さまっ!」

 吸収されるのは快感であるらしい。体中の肉を吸い取られミイラのように縮んだ男は、顔を歓喜に歪ませて涙声で叫ぶ。

「ああ……ああっ……あっ!」

 ついに丸ごと繭の体の中に吸い込まれた。繭の身体がまた一回り大きくなる。

「次はあなたです」

 繭の声に答え、全裸で並んでいた二人目が前に出る。肥満してたるんだ皮膚の、中年の男だ。この男もまったく同じように吸収された。次の若い娘も。その次も。

 七人の人間を吸い尽くした繭は、いまや巨人だった。身長は四メートル近いだろう。

「まだ奇蹟は終わりません。割目するのです」

 声帯が大きくなったせいか、繭の声は女のものとは思えないほど低く太い声になっていた。群集はもはや誰一人しゃべらず、ただ驚愕に目を見開いている。

 巨人となった繭はその場に手を着いて四つん這いになった。その体が変貌した。長い黒髪が縮んでいき、かわりに白い裸身を突き破って、無数の細いものが突出する。

 針のように細く、紫に光るもの。それが顔といい背中といい、あらゆる場所から幾万となく生えて、体毛のように体を覆い尽くす。

 ごりゅっ がりゅっ

 岩の擦れるような音が連続して響く。腰の骨盤が回転する。

 みちっ みちっ みちっ

 ゴムや縄の引きちぎれるような音が加わった。長い脚が縮んで、逆に腕が伸び、逞しく筋肉が盛り上がる。前肢と後肢の長さの不均衡が解消された。もとより四つ足で生きる獣だったかのように。いつの間にやら手足の先端も変化していた。長い指を持つ掌はない。犬や猫のような、短く太い指を持つ足先に変わっていた。足先からはナイフを並べたような鋭い爪が覗いている。

 最後に繭の、一抱えもある巨大な頭、黒い艶やかな毛で覆われた頭のてっぺんに、ふたつの器官が生じた。曲面を帯びた三角の肉板。そうだ、耳だ。

 最後に、両肩が盛り上がって、人間の腕ほどの長さを持つ奇妙な突起が形成される。突起の先端には穴が開いていた。愛美は大砲を連想したが、その突起もやはり紫の針で覆われている。

 たった数秒で変身は完了していた。

 いまやそこにいたのは、体長三メートルを超える、猫に似た獣だった。

 一番似ているのは豹だろうか。だが愛美が昔動物園で見た豹は人間の大人と同じくらいの大きさしかなかったし、紫に輝く毛皮では覆われていなかったはずだ。

 直感的に理解した。これは豹に似ているが、地球上にはあり得ない超生物だ。

 紫に輝く巨大な豹、いや、神の獣が、口をきいた。


 み な さ い。

 こ れ が

 か み の ち か ら で す。

 

 愛美たちはもはや誰一人言葉を発せない。

 その直後、会場の外から別の音が轟いてくる。ぎいん、と金属的なエンジン音。バラバラという音。愛美はこの音を知っていた。ヘリコプターだ。会場の四方八方から聞こえてくる。どんどん音が大きくなる。複数のヘリコプターがこの会場に接近している。

 神の獣、繭が顔をあげる。


 おそれる

 ことはありません

 わたしがうちやぶります


 がん! がん!

 重いものを叩きつけるような音が連続して響く。

 会場の左右に三つずつある、大型ダンプが通れるほどの開口部から、何かが撃ち込まれた。ヘリコプターの爆音もかき消すほどに強い爆発音。一発だけでなく一度に五発も十発も。白い尾を曳いた砲弾が会場の上のほうを横切る。天井や柱にぶつかって跳ね返り、床に落ちて、まだ白い煙を噴き出す。まだ砲撃は止まらない。数十発も飛んできた。周囲はたちまち真っ白な煙に包まれて完全に視界が遮られた。

 ガスを撒いているのだろうか。頭がぼうっとなる。体から力が抜けてまっすぐ立っていられなくなる。愛美は脱力し、その場に座り込んだ。他の人達もみな一緒にくずおれた。薄めたミルクのように濁った視界の中に、ただ神の獣だけが悠然と立っていた。

 意識が遠のいていく。

 だが不安はなかった。

 神が、守ると明言したのだから。

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