第12話「敗北」

 同時刻 ビッグサイト外


 凛々子は大刀を手にして、M4カービンを肩にかけ、チヌークを飛び出した。

 すでにヘルメットを被っている。ヘルメットとスーツは防弾に加えて完全気密で、酸素を供給し、空気中の銀をシャットアウトする。

 今いるのは、豪華客船が入りそうな巨大なコンクリートの箱の外。この箱は東京ビッグサイトの会場だ。箱には大きな入り口が三つある。入り口では警官達が呆然と立ち尽くしてた。彼ら末端の警官は蒼血の存在も殲滅機関のことも知らない。指揮官らしき人物が何事か叫んで近寄ってくるが、その叫びはチヌークのローター音にかき消されて聞こえない。

 凛々子が突入命令を待っていると、他のチヌークからシルバーメイルに身を固めた隊員たちが飛び出してくる。彼らは巨大な機械を抱えていた。

 第一印象は大型機関銃だ。モスグリーンに塗装され、赤ん坊の腕ほどもある太い銃身を持つ。三脚に固定され、銃の機関部からはコショウ瓶をベルト状に連結したような弾薬がつながっている。

 オートマチックグレネードランチャーだ。敬介たちが使っている手持ちのグレネードランチャーを圧倒的に上回る速射性を誇る。

 隊員達は数十キロに達するランチャーを軽々と抱えて、入り口近くに設置する。銃口を斜め上に向けた。

 警官が数人、隊員たちの前に立ちはだかった。こんな状況でも、彼らは健気に職務を遂行しようとしていた。

 だが彼らは作戦にとって邪魔だった。隊員達が背中のバックパックからスプレーガンを取りだし、直に昏睡性ガスを浴びせた。警官達は次々に倒れていく。

「シルバースモーク弾、昏睡ガス弾、射撃開始せよ」

 電波回線を通じて命令が発される。隊員たちがオートマチックグレネードランチャーの後ろにしゃがみこんで一斉に操作する。

 十機を数えるランチャーの発射音は凄まじいものだった。風船が破裂するパアンという音を何百倍にも増幅した音が、ローター音すら圧倒し、機関銃のように連続して何十何百となく響いた。ランチャーからグレネードが矢継ぎ早に発射される。白い煙の尾を曳いて会場内に叩き込まれていった。このビッグサイトは野球場ほどに広大で、ガスで満たすためには膨大な量のグレネードが必要なのだ。

 凛々子は頭の中のエルメセリオンに呼び掛ける。

『いくよ、準備はいい?』

 頭の中に老人のように低く、暖かく優しげな声が響いた。もう八十年以上も苦楽を共にしてきた相棒の声。

『いつでも構わん』

 そのとたん、頭のなかで炎が燃え上がったような熱さが生まれる。熱さに悶える間もなく、熱さは一瞬にして体のすみずみにまで拡がった。

 ブラッドフォース『ストレングス2』発動。筋肉収縮力を増大。アデノシン三リン酸の燃焼速度を増大。体中の筋肉に静かな力がみなぎる。

 『アクセラレータ』発動。神経内のパルス伝達速度を増大。脳細胞のパルス発信速度を加速。

 あらゆる思考速度と知覚速度が桁違いに上がり、自分以外の人間が銅像のように止まって見える。軽いはずの空気が、重く粘性をもって手足にまとわり付いてくる。水飴の中にいるようだ。

 そのほか、普段は最低レベルでしか発動させていないブラッドフォースを一度に全力発動する。

 耳のイヤホンがサキ隊長の言葉を伝えてきた。

『シルバースモーク散布完了。敵情動きなし。氷上、突入しろ』

『りょーかーい!』

 明るく答えて抜刀し、会場へと駆け込んだ。背後にシルバーメイルの重い足音がついてくる。支援部隊だ。その中には敬介もいるはずだ。

 もちろん敬介とのやりとりを思い出して集中を乱すようなことはない。意識がまるごと戦闘用に切り替わっていた。

 会場内に入ってすぐ、猛烈な煙に包まれた。身長より深みのある白い煙が満ち溢れていた。数メートル先の人間すらぼやけた人影にしか見えない、ミルクの海の中のようだ。いくらなんでも凄まじい銀の量だ。

 片目の網膜を変換させ、赤外線視覚を得た。

 赤外線視覚に切り替えた瞬間、音もなく巨大な何かが突っ込んできた。赤外線視覚が熱い塊の急速接近をとらえた。四本の脚をもつスマートな巨獣。背筋を悪寒がはしる。

 全身の筋肉をしならせ、横に跳ねとんで回避した。間一髪、風圧を感じるほどのすぐ脇を黒い影が駆け抜けた。ワンボックスカーほどの巨躯だ。

 すぐに振り向いた。あの勢いなら止まるのが一瞬遅れるはずと思ったのだ。その間に戦いの主導権を握れる。

 甘かった。振り向いた凛々子の眼前にまたしても巨獣が突進してくる。あれほどの慣性力をいともたやすく殺してのけたのだ。

 もう避けられない。そう判断して逆に斬りかかる。相手の前足が凛々子を捉えるよりも先に、全力で顔面に向かって一撃。

 相手の体の突進の慣性に、自分の腕力を加えた大威力の斬撃だ。

 刃が巨大獣の顔面の真ん中をとらえた。額から鼻、顎まで一直線に。体を包む紫の針は強靭だったがそれでも刃の前に砕かれた。刃が頭骨に食い込む。 

 だが骨を切断できなかった。激突の瞬間、獣がわずかに首を振って刃を逸らしたのだ。腕に衝撃が伝導した。視界を巨大な顔が埋め尽くした。頭突きで吹き飛ばされた。

 宙を飛び、後頭部が柱に打ち付けられる。柱のコンクリートが砕ける感触。

 柱から落ちた凛々子はすぐに手をついて立ち上がろうとして、片腕の骨が砕けているのに気付いた。叩きつけた打撃力のほとんどが跳ね返されてしまったのだ。刀を放さなかったことだけが救いだ。

 すぐにエルメセリオンに肉体を再生してもらおうとする。だがその隙すら与えられない。

 体のあちこちに何かが衝突した。鋭く細い、釘のようなものを打ち込まれた痛み。

 衝突したあたりから濃密な水のしぶきが飛び散った。

 マッスルガンだ。強烈な水鉄砲でめった撃ちにされている。

 威力はライフル弾程度だろうか。スーツは破れていない。だがひっきりなしの衝撃で、砕けた骨がますます砕かれる。内臓がかき乱される。頭に直撃してめまいを憶えた。

 凛々子にはこれほど連続してマッスルガンは撃てない。向こうは体が大きいから水分に余裕があるのだ。

 痛みを堪えて目を見開くと、相手は銃撃だけで片をつけるつもりはないようだった。両肩から突き出した「肉の砲身」から水弾を放ちつつ、煙を引き裂いて走ってくる。

 突進してくる獣の顔にはもう傷が残っていない。

 無傷なほうの腕でM4を連射した。顔面に向かって撃った。だが避けもしない。何発かは目玉に飛び込んで眼球を潰しているのに、苦しむそぶりもなく駆け寄ってくる。

 相手が飛び掛ってくるのを棒立ちで受けた。殴り倒され、踏みつけられる。凄まじい力で胸を踏まれて肋骨がきしむ音が聞こえる。

 絶体絶命状態の凛々子に、巨大な獣が話しかける。

「ものたりん! お主、それほど弱かったか」

「君、ゾルダルート?」

「いかにも。『魔軍の統率者』ゾルダルートだ。そしてこの体が『魔軍』だ」

 そうか、と凛々子は理解した。他に蒼血の姿が見えないのは、全て合体しているからだ。

 この巨体からして七、八人くらいの人間が合体しているだろう。七人とすると、四百二十兆の細胞を七体の蒼血で操っているのか。そんな大規模な複数寄生は聞いたことがない。神業だ。

 その膨大な細胞量により、自分を遥かに超えた筋力・瞬発力、そして装甲防御を得ているのだ。

 このまま奴が一息に自分を食い殺すなら、どうしようもない。

 だがそんなことはしないはず。ゾルダルートが愛好するのは戦いだ。一方的な殺戮ではない。

 会話しながら一瞬の隙を作り出すしかない。

「久しぶりだねゾルダルート。アンデスでも会えなかったから」

「懐かしくなどない。儂の知己はエルメセリオンのほうだ。女、お前ではない」

「あいにく、戦いのときはボクに任せてもらうことに決まってるんだ」

「実に愚劣な決断だぞ、それは?」

 さらに喋りながら、必死に頭を整理する。

 まだ謎は残る。このシルバースモークの中で苦しまずにいられるのはなぜか。息を止めて、体内の酸素だけで活動している? 理論上は可能だが、それなら高圧で空気を貯蔵する器官がどこかに形成されているはず。その器官を破壊すれば倒せる。

 隙を作れれば……

「ヤークフィースも一緒にいるのかな?」

「教えるほど親切にはなれんな。お前には失望した。とっとと死ぬがいい」

 あちこちから銃声が聞こえる。きっと援護部隊が撃ってくれているのだろう。

「こしゃくな。まずは人間を片付けるか」

 そう言って四肢を伸ばし、立ち上がる。

 凛々子はその隙を見逃さなかった。

 上半身を前足で押さえられたままだが、下半身を跳ね上げ、足を振り上げ、足を刃に変化させて、長く長く伸ばし、巨獣の腹を全筋力で刺突!

 刺さった!

 予想通り。全身を完全に装甲化したら柔軟な動きができなくなる。きっとどこかが柔らかいと思っていた。四足なのは柔らかい腹を守るためなのだろう。

「ぐおっ!? 離せ貴様!」

 不快げに唸り、空いている方の前足を凛々子の顔面に振り下ろす。胸を踏まれているので逃れる術はない。包丁を並べたような巨大な爪の列が顔面に叩きつけられた。ヘルメットのフェイスシールドは最初は抵抗したが、二度三度と衝撃を加えられて大きくゆがみ、ヒビが入った。

 やばい、これは銀が来る。

 そう思って息を思い切り吸い込んだ。あとは息を止めるしかない。どれだけ止めていられるか。

 ヘルメットのバイザーが粉砕された。とたんに外気が顔に押し寄せる。煙を浴びたように目にしみた。熱く涙が溢れてくる。ワサビの塊を食べたように鼻の粘膜が悲鳴をあげる。

 むきだしになった凛々子の顔面に、なおも前足が叩きつけられる。頬に熱い痛み。頬の皮膚と肉がえぐり取られて血が噴きだした。歯に爪が激突する音。もう一度爪が振り下ろされる。今度は額。頭蓋骨がきしむ音。脳が圧迫されて視界がぐにゃりと歪む。頭は割れなかったが、ぬるりと生ぬるい血が額からあふれ出す。前足が巨大な棍棒となって何度も何度も降ってきた。そのたびに肉が弾け、歯が折れ飛ぶ。きっと自分はひどい顔をしているだろう。

 傷は再生できるが、それでも顔を傷つけられるのは特別に腹が立つ。

『女の子の顔を! ひっどいなあ!』

『怒る元気があるなら大丈夫だ』

 頭の中でエルメセリオンと軽口を叩き合う。

 今は傷の回復に力を使っていられない。

 すべてのブラッドフォースを。細胞変換能力を。

 ただ、相手の腹に突き刺した「足剣」に集中させる。

 剣は長く伸びながら相手の内臓に滑り込んでいった。

 フェンシングで使う剣のように細い。相手を両断できるものではない。だが。

 ついに相手の脊髄に刃が到達した。突き刺さる。

「おうっ」

 さすがにくぐもった苦痛の唸りを上げて、獣の巨躯が揺らいだ。

『いまだ! 神経つないで! エルメセリオン!』

 刃の中に通った神経が伸びて、巨獣の脊髄を走る神経束に結びついた。

「小娘ッ!」

 巨獣が怒りの声を上げるのと、凛々子が足の神経に全力で信号を送り込むのは同時だった。

 力を抜け! そう命令した。

 巨獣の手足が脱力する。凛々子の胸を圧迫していた足の重圧も和らぐ。

 とっさに手をついて体を滑らせ、前肢の下から抜け出した。

 頭の上には巨獣の腹。足の剣は相変わらず腹に刺さって、凛々子は逆立ちの体勢だ。

 足の先に溶岩を押し付けられたような激痛が走った。爪を剥がされる痛みを果てしなく増幅したような。剣の神経を逆に乗っ取られたとわかった。やはり蒼血が多い分だけ、体の取り合いでは向こうが上なのだ。痛みが足先から太腿に上がってくる。筋肉が自分の意思に反して痙攣する。神経細胞の支配権をどんどん奪われていく。あとコンマ一秒で頭まで痛みが来て、体ごと奪われる。

 その前に、いま突き刺しているほうの足、その全細胞に命令した。

『ごめんね! 死んじゃって!』

 太腿の細胞が一気にアポトーシスして柔らかく崩れ落ちる。これで片足は丸ごと死体だ。フェイズ5といえど支配することはできない。腐ったバナナのように柔らかくなったので腹に刺さっていることも出来ず、凛々子は体ごと落っこちた。

 すぐさま片手を伸ばして床を探る。あった。太刀。

 まだ残っているほうの膝を床に突いて、

「たあああっ!」

 裂帛の気合とともに刀を突き上げる。

 ごずん! 

 腹の皮膚と毛を突き破り、内臓を貫通する。腕力に加えて背筋力も動員して、刺さった刀を手前に引いた。腹が横一文字に切り裂かれた。人間がすっぽり入れるほどに大きく裂ける。内臓が切断される感触が連続して伝わってきた。ほとばしる熱い血が洗面器一杯分ほども、凛々子の顔面にふりかかった。裂け目から腸がこぼれだす。

 もっと、もっと深く、もっと広く斬るんだ。胴体をまっぷたつにする勢いで!

 刃が背骨に食い込んで止まった。ブラッドフォース「ハウリングブレード」を発動。全身の筋肉を極限まで緊張させて高速振動させ、その振動波を刃だけに集中、伝導させる。超音波メスの原理で切断抵抗が減少し、刃が背骨にめり込んで、斬った。胴体を刃が完全に輪切りにした。

「ぐおおっ!」

 至近距離で巨獣が体を悶えさせ絶叫する。

 やった、と思ったところで凛々子は咳き込んだ。銀の微粒子が肺を焼いていく。咳き込んでしまったことでますます大量の銀が体に入った。体に急速にしびれが回ってくる。頭痛と吐き気と、体の震えがまとめて襲ってくる。

 刀の柄をちゃんと手が握っているかどうかすら、もう分からない。

 両目からあふれ出す涙がますますひどくなった。痛みと涙でよく目が見えない。

 だけど、ダメージはあいつのほうが何倍もあるはず!

 いまなら止めを刺して……

 どこだ、「蒼血」の本体はどこにいるんだ? 全部で七体も八体も、どこに隠れている? 目を撃たれても平気だった。きっと脳じゃないんだ。神経の密集した場所に寄生するのがセオリーだ。脳でなければ脊髄だろう。

 よし、この脊髄をまるごと引きずり出して……

 そこまで考えたとき、腹を思い切り蹴られた。杭を打たれたように足が胴体深くめり込んだ。

 体をくの字に折って吹き飛び、床の上を転がる。

 激痛が腹ではじける。もう体を丸めていることしかできない。

 痛む目をなんとか見開いて周囲を確認する。白い煙の中にぼんやりと四足の獣が見える。十メートル以上吹き飛ばされたようだ。だがおかしい。獣の姿が……

 赤外線視覚に切り替えて、驚きに目を見開いた。

「えっ……!?」

 驚きのうめきすら発した。

 ちょうど凛々子が斬った断面から、何百本とも知れない熱く輝く触手があふれ出した。

 触手が蠢きながら、切断された前半分と後ろ半分を繋げていく。

 もう胴体は完全につながったようだ。触手が縮んで体に吸収されていく。

 その間、わずか数秒。たちどころに元の姿に戻った。血を失ったせいだろうか、一回り身体が縮んで見える。凛々子をはるかに超えた「ファンタズマ」能力だ。

 なんで銀の影響を受けない? 頭の中が疑問符で一杯だ。

 銀コーティングの太刀で刺したのに。腹を切り裂いて、たっぷり外気を送り込んでやったのに! なんで能力が低下しない?

 奴は……銀を克服してる!? 完全に!

 ならばこの状況は自分に圧倒的に不利だ。

 まだ支援部隊が獣を撃ち続けている。銃声は四方から聞こえてくる。支援部隊が包囲したようだ。浴びせられる銃弾が獣のあちこちに当たって弾き返される。血が噴き出さない。効いていないようだ。だが獣は苦しげに唸り、姿勢を極端に低くして、あたりを見回す。這うような姿勢は、弱点である腹を守るためだろう。

 重火器使用の許可が出されたのか、銃弾だけでなくグレネードも飛んでくる。獣の肩から突き出した突起が水の弾丸を発射し、ことごとく空中で撃墜した。宙にオレンジの炎の花が咲いた。

 注意がそれている。幸い、蹴られた腹の痛みも和らいできた。さきほど壊した足を治す力はもうないが、片足だけでも逃げられるかもしれない。

 だが、ここで撤退して本当にいいのか。

 サキ隊長の言葉が脳裏に蘇る。

 そう、いまの機会を逃がしたら、会場に集まった一万五千人が散り散りになってしまう。蒼血の断片を植え付けられているかもしれない一万五千人が。

 もう少し粘ろう。過去八十年間で、この程度のピンチは何度もあった。

 だがどうやって打開しよう? と思った瞬間、頭の上に小さなコンクリートの欠片が降ってきた。流れ弾が柱にでも当たったのだろうか?

 そうだ、上に!

 最後に残った力を振り絞って、片足だけで跳躍した。

 煙の上に飛び出した。そこには澄んだ空気があった。

 やっぱり!

 銀粒子は空気より重い。沈殿していたのだ。

 天井まで跳んで、太刀を天井に突き刺して体を固定する。喜びの叫びをあげた。思いきり空気を吸い込んだ。何度も何度も。

 肺の中の銀まみれの空気が排出されていく。血液に溶け込んでしまった分があるので体の痺れはまだ残っているが、頭蓋骨が軋むほどの頭痛と吐き気は消えた。

 おいしい。空気がこんなに美味しいなんて。 嬉しさで涙が溢れてくる。

 眼下の煙の海を貫いて水の弾丸が飛んできた。手近な柱に跳び移って隠れる。

 能力が少し回復したので、柱に隠れながら負傷部位を再生する。なくなった片足を生やし、えぐられた頬を元に戻す。背中に翼を形成して、飛行能力を確保した。

 ズタボロだった顔も修復した。みずみずしい皮膚を撫でる。

『うーん、餅肌、餅肌』

『やっとる場合か。どうする気だ』

『それなんだけど……』

 赤外線視力で眼下を見渡す。

 はじめて会場の全容が見えた。

 もはや巨獣は凛々子のことを脅威と認めないのか、頭上の凛々子には目もくれず、姿勢を低くしたまま走り出していた。自分を包囲する戦闘局員に向かって、両肩のマッスルガンを乱射しつつ突っ込んでいった。

 隊員たちは散らばって柱の影に隠れながら銃を連射している。赤外線映像の中で灼熱の弾丸が巨獣に殺到する。だが巨獣の体の表面でことごとく弾かれていた。巨獣の突進は止まらない。

 柱に飛びついて、隊員を前肢で張り倒した。動かなくなった隙を狙って銃弾が、グレネードが浴びせられる。無反動砲すら水平射撃された。白熱の砲弾が超高速で襲い掛かる。だが銃弾はやはり弾かれる。グレネードと無反動砲弾は両肩のマッスルガンが撃ち落した。軌道を逸らされた無反動砲弾が巨獣から一、二メートル離れた床に突き刺さって炎の噴水を上げる。

 石ころを投げつけられほどにも動じず、巨獣は体ごと隊員にのしかかって、ヘルメットを爪で粉砕する。勢いあまって顔面を潰し、血が吹き上がった。巨獣の体の下から覗いた隊員の手足が、最後の力で空中を掻く。動かなくなった隊員の体に尻を向け、次の隊員に向かって走り出す。

『リー軍曹! 支援! 支援を!』

『バカ、距離を取れ! お前は後ろからやれ!』

『第2、第3小隊で一斉にやれ! 飽和攻撃だ!』

 通信回線を悲鳴と指示が飛び交った。

 だが無駄だった。時速百キロを超える速度で走り回る巨獣は、隊員が後ろに回りこむより早く距離を詰めてきた。

 数人の隊員が一斉にカール・グスタフ無反動砲の鋼の砲身を担ぎ、四方八方から浴びせた。それでもすべての砲弾が迎撃された。マッスルガンの水鉄砲で軌道を逸らされて外れた。

 何人もの隊員がヘルメットのバイザーを破壊され顔を真っ赤に染めて転がっていく。頭ごと噛み砕かれたのか、首のない屍もあった。

 そんな光景を凛々子は、胸を締め付けられる思いで見おろしていた。

 いますぐにでも助けに行きたいが、下界は銀の充満する世界。有効な作戦を考えもせず降りるのは無謀だ。

 ……一体どうすれば倒せる。

 必ず手はあるはずだ。

 と、会場の真ん中、およさ三分の一を埋め尽くして倒れている人々のことが目に入った。

 ガスで眠っているのだろう、倒れたまま動かない人々。彼らに被害は出ていない。

 巨獣と戦闘局員が戦っているのは会場の端のほうで、昏睡する一万五千人からは遠く離れている。

 隊員の放ったグレネードが一発だけ目標をはずれ、そちらに向かって飛んでいったが、すかさず巨獣のマッスルガンが唸り、空中で爆発させた。

 ……なんだ今の?

 気になって、指を唇に当てて、エルメセリオンに尋ねた。

『ねえ、もしかしてさ、エルメセリオン?』

『なんだ、凛々子』

『ゾルダルートたちも、会場の人達を死なせたくないのかな?』

『それはそうだろう。神を名乗って、自分が皆を救うと言い切ったのだからな。いま死なせてはまずかろう』

『そっか。そうだよね!』

『まさか、凛々子?』

『あは。ボクの考えてること、わかった?』

『分かるとも。八十年も一緒に戦ってきたではないか。君の思考は大体読めている。だが危険な作戦だぞ、二重三重の希望的観測の上に成り立っている』

『反対する?』

 一瞬の沈黙があって、温かい声が返ってきた。

『いいや。最終的に決めるのは君だ。八十年前のあの約束を、君が守り続けている限り、私は君を敬う』

「じゃあ、行くよ!」

 胸元の無線機の送信ボタンを押し込み、大声で叫ぶ。

『氷上です! みなさん聞いてください! いまみなさんが戦ってる化け物、ボクがあの化け物の動きを遅くします。だからみんなで組み付いて、あいつをひっくり返してください。ひっくり返してさえくれれば、あとはボクが倒します!』

 すぐに困惑と怒りの声が返ってきた。

『できるわけねえだろう! 状況を考えろ! まるで歯が立たねえよ!』

『ひっくり返せだあ!』

『相手は亀じゃねえんだ!』

 だが一人、冷静な声もあった。リー軍曹の声だ。

『できるかもしれん。俺がやる。少し待ってくれ、俺の部下だけでは……』

 リー伍長の言葉をきっかけに、肯定的な反応が集まってきた。

『俺もやる。使える部下が七、八人いる』

『影山だ。部下五人を連れて向かう。信じていいんだな?』

 いける。十人集まれば、きっとできる。

『はい! お願いします!』

 明るく答えた。すぐに柱の影から飛び出した。すぐに巨獣に気付かれた。マッスルガンを撃ってくる。体のあちこちを水の弾丸が掠める。足に直撃を食らった。翼をぶち抜かれた。衝撃で身体が回転し、高度が落ちる。激痛をこらえて、それでもバランスを立て直して再び上昇した。

 飛びながら息を思い切り吸い込む。下では呼吸できないから、わずかでも多くの空気を肺に詰め込んでおくのだ。常人の数十倍の筋力を振り絞り、ボンベのように圧縮して詰めた。

 一万五千人が折れ重なって倒れる、その上にやってきた。一万五千人の真ん中には、トラックが入るほどの大きさの空間が空いている。その空間に向かって着地した。

 再びあたりは白い煙に包まれた。

 巨獣に向かって大声で叫ぶ。息を決して吸わないように、一息で叫んだ。

「来てよ!! 戦いがしたいんでしょ! 弱いものいじめはやめてさ!」

 隊員を押し倒している途中の巨獣が振り向いて、こちらに向いて走ってきた。

 やはり。楽勝の相手よりこちらを選ぶに決まっているのだ。

 だが倒れている一万五千人に近づいて、その突進がはたと停まった。

 ……そうだよね、やっぱり。

 一万五千人は身体が重なるほど密集して倒れている。そこにいつもどおりの高速突進をかければ、違いなく人間達を踏み潰してしまう。

 ぐるる、と不機嫌そうに唸り、巨獣は倒れている人々を一人ずつ前足で持ち上げて横にどけ、道を切り開きながら進み始めた。その歩みは人間が歩く程度でしかない。ゆっくり進みながらも凛々子に向かってマッスルガンを連射するが、凛々子は水の弾丸すべてを太刀で切り払う。水しぶきがいくつも爆発して凛々子の顔を濡らした。

 賭けだった。信者達を踏みつけてでも走ってくるかもしれなかった。

 翼を生やして信者達を飛び越えてしまうかもしれなかった。

 だが賭けに勝った。身体が大きすぎて、空中での機動性に自信がないのだろうか。

 巨獣が鈍い足取りで進んでいる間に、戦闘局員たちが動いていた。

 十数人の隊員が、もはや柱に隠れることもなく走ってくる。シルバーメイルの筋力強化機構のおかげで、彼らの足は速い。巨獣が振り向いてマッスルガンを放ち、隊員達に命中する。体に命中弾を受けた隊員はよろめきながらも倒れない。顔面に食らった隊員だけが倒れる。しかしその数はわずか二人。残った隊員はひるまずに駆けてくる。

 巨獣が凛々子を見た。ついで背後の隊員たちを見た。どちらを優先するべきか迷っているのだ。

 答えはすぐに出た。隊員たちを無視して、凛々子に向かって前進する。ペースを速めた。こちらのほうが難敵だと思ったのだろう。

 巨獣はついに凛々子の近くまでやってきた。もう赤外線視覚なしでも巨獣の姿をはっきりと見ることができる。凛々子の周辺には人間が倒れていない空白地帯になっている。ここなら思う存分暴れられる。体中の筋肉をしならせて凛々子に飛び掛ろうとした、その時。

 隊員たちが、巨獣の四本の脚に組み付いた。

「きさまら!」

 脚を振り上げ、床に叩きつけて振り落とす。だが一人振り落とされても二人が、二人落とされても三人がとりつく。

「ぐるるっ……おおおんっ!」

 巨獣の体に生える紫の針が、突風に吹かれた草原のようにざわめいた。紫の針が伸び、硬質な触手となって隊員達の手足に絡まる。何百、何千本……手足を縛りつける。

『くっ!』

 リー軍曹がとっさにベストからナイフを出して触手の切断を試みるが、切れない。

 体毛の変形した触手が、いま巨獣にしがみついている十人ばかりの隊員全てを縛った。ある者は上半身をがんじがらめにされ、ある者は肢だけを縛られて歩けなくなる。動けなくなった隊員たちの顔面に向かって、巨獣が前足の爪を振り下ろす。

 だがその中の一人が、拘束されていないほうの腕を動かして、振り上げられた巨獣の前足の、その爪の裏辺りに拳を突き立てた。絶妙のタイミングだ。

 凛々子は気付いた。ゴーグルで顔を隠しているが、敬介だ。

『インパクトォ!』

 開きっぱなしの通信回線を、敬介の雄叫びが駆け抜ける。

杭が射出。ちょうど爪と指の間の柔らかい領域を貫通して、電撃を放つ。

 巨体が痙攣した。体中から伸びていた硬質の触手が、制御を失ってデタラメに暴れた。束縛の力が弱くなったのか、隊員達が触手から脱する。

「いまだよ! ひっくり返してッ!」

 祈りを込めて叫んだ。凛々子の叫びに答えて、巨獣の体にとりついた十数人が一斉に巨獣の手足を持ち上げ……身体が浮いた。

 そうだ。無防備な腹をさらせ。ボクが飛びこんで、今度こそ斬る。蒼血の一匹も残さず、脳を切り刻み脊髄を寸断し、体を賽の目にする勢いで斬る!

 そのつもりだった。

 だが、巨獣が横向きにひっくり返る、その瞬間。

 前足を持ち上げていた敬介が、素っ頓狂な叫びを上げた。

『ね……ねえさん!? なんで姉さんが!? 姉さん! 姉さぁんッ!?』

 叫んで、前足から手を離して、足元を見ている。

 凛々子も驚愕した。目は、敬介の足元に倒れている女性に釘付けだ。

 昏睡の程度が軽く、銃撃戦の音などで目を覚ましてしまったのだろう。その女性は……黒髪で、根が暗そうだが整った顔立ちで痩せぎすの女性は……眼鏡こそかけていないが、どう見ても敬介の姉だ。姉は敬介の足元にしがみついて涙声で訴えていた。

「やめてえ……やめてえ……かみさまなの……わたしのかみさまなのっ……やっとみつかった……わたしのかみさま……」

『姉さん!? 姉さんだよな? 一体何があったんだ! なんでこんなところに! 神様って……こいつは神様なんかじゃ……』

「かみさまを……いじめないでええ!」

 敬介の足にしがみつき、顔を上げて泣き叫ぶ愛美。

 その視線と表情には明確な敵意があった。

『なっ……あっ……?』

 まったく言葉にならない声を上げ、ふらついて尻餅をつく敬介。きっと彼にとって姉は世界の中心。姉に嫌悪や敵意を向けられるなどまったく耐えられない、世界が崩壊するようなできごとなのだろう。

 凛々子にも、その気持ちはよく分かる。

 だがそんなことを言っている場合ではない。

「作戦中だよッ!」

 凛々子の叱咤に、ようやく我にかえる敬介。

 遅かった。

 巨獣は、全員の力を振り絞ってようやく押さえつけられていた。敬介が手を離していたおかげで力の均衡は崩壊し、巨獣は隊員たちを振りほどき、吹き飛ばして、凛々子に向けて突進した。

「くっ!」

 凛々子は少しでも衝撃を減らそうと、横に飛びながら太刀を振るう。だが巨獣の突進は速い。まだ銀の影響が抜けきっていない凛々子が対応できないほどに。太刀は空しく空を切り、凛々子は巨獣に押し倒された。前回逃げられたことから学習したのか、四本の脚で凛々子の手足を完全に押さえ込んでいる。

「うわっ……」

 凛々子は体をよじって逃れようとする。駄目だ、床に押し付ける力が凄まじい。全く動かせない。

 こうなったら手足を全部なくして逃げてやる!

 間に合わなかった。

 もう巨獣が顔を傾けて、親指より巨大な牙が並ぶ口を開いて、凛々子の首に噛み付いていた。

 牙が筋肉繊維を食い破って、頚骨を木っ端微塵に噛み砕いた。

 ばきん。ごりゅっ。

 骨の砕ける音が生々しく頭の中に響いた。首から下の感覚がまとめて消失した。

 とたんに気が遠くなった。いかにフェイズ5の蒼血といえど、首を切断されては酸素が脳に届かず、数秒で失神する。酸素不足で再生能力も発動できない。脳を仮死状態にするのが関の山だ。

 声を発することもできず、視界がぼやけて暗くなる。冷たく、どろりとしたものに自分が沈み込んで、包まれていく感覚。

『エルメセリオン! エルメセリオン!』

 薄れゆく意識の中で、相棒の名、友の名を呼んだ。

『キミだけでも逃げて!』

『それは出来ない。爆弾がある。脳内から移動したら爆発する』

『そうか……ごめんね……ボクが気付くべきだったんだ。敬介くんのメンタル面の弱さは分かっていたのに、何も出来なかった……』

『いいや。われらは神ではない。想定できないアクシデントもある。謝るようなことではない。凛々子、最期まで君とともにいられて幸せだった。約束を一度も破らなかった君のことを尊敬する。限りない敬意を持って別れを告げよう。さようなら、凛々子』

『待って。ボクはまだ諦めてないよ。きっと彼らは……人間は。この状況を打開すると思ってる。ボクたちのことも救い出してくれるよ。信じてる』

『はは……そうだったな。君はそういう人間なのだったな。果てしない楽観と覚悟を持っているのだったな。ならば私も信じるとしよう。人間を、その可能性を』

 声はそれきり聞こえなくなった。

 凛々子の意識は闇に呑まれた。

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