第4話「柱一本は脆い」

 2007年12月29日 殲滅機関日本支部


 日本支部の下士官食堂に、敬介は入ってきた。

 午後七時。自主トレーニングを終えて、飯でも食おうかと思っているのだ。

 地下ゆえの圧迫感を感じさせない、天井の高い食堂を歩いていく。

 食堂のテーブルは「勤務服」と呼ばれるノーブルグレイの開襟ジャケットを着た隊員で七割がた埋まっている。夕食だけでなく、コーヒーカップを前に談笑する人々も多い。ここは談話室や喫茶店の役目も兼ねているのだ。

 だが、みんな敬介が前を通ると黙ってしまう。冷たい目線を敬介に浴びせる。

 大ベテランで知られる初老の軍曹など、あからさまに蔑みの目で睨んできた。

「なんですか?」と問う気はしない。エルメセリオン=凛々子と出会ってから一週間、さんざん同僚に言われて、もう理由を理解している。

 ……敵を招き入れやがって……!

 ……たらしこまれたか、こいつ!?

 そんな目だ。敬介はたった数時間の取調べを受け、その中でエルメセリオンの必要性を述べただけなのだが、いつのまにか話に尾鰭が付いて「涙ながらにあの女を弁護した」ことにされている。

 そうではない、と最初は反論したが、敬介はほとんど同僚とコミュニケーションをとらない。自分の考えや気持ちを言葉で伝えることに慣れていない。どう言えばわかってもらえるのか困り、もう反論を諦めてしまっていた。

 セルフサービスのカウンターに行って、ビーフシチューとパンと牛乳とサラダを取る。「今週の新メニュー」と2ヶ国語で書かれている張り紙に一瞬目をやるが、すぐに目をそらして、機械的な動作で席を探す。はっきり言って料理には興味がない。栄養のバランスが取れていればいい。訓練をより効果的にしてくれれば尚いい。味を楽しむなど、自分には関係ない世界の出来事だ。

 座って食べ始めると、「ここ、いいか?」と声。

 顔を上げると、身長百七十以上ある大柄な身体を訓練で鍛え上げた、黒髪でベリーショートカットの女性。

 「隊長」だ。あの五年前の運命の日、家に突入してきた隊長、影山サキ。いまは曹長になっている。

 反射的に身体が動いた。立ち上がり、踵を揃えて敬礼。

「どうぞ、曹長」

 単に上官だから、という理由ではない。敬介にとってこの隊長だけは別格だった。姉を救ってくれた恩人でもあり、殲滅機関へと招いてくれた人物でもある。この人なくして自分はない、と身体が覚えている。

「ありがとう」

 サキはそう言って、コーヒーだけを持って敬介の前に座る。そのあとようやく敬介が「失礼します」と着席した。

「相変わらず堅苦しいな」

「上官ですから」

「他の隊員を見てみろ、もっとずっとフランクだ。メシ食ってるときは階級など気にしてないぞ」

「他の隊員は他の隊員、私は私です」

「何も一人称まで変えなくても。いつになく不機嫌そうだな? あの噂が嫌なのか?」

「当たり前です。俺はただ、軍事的合理性を。フェイズ5を手駒として使えたら戦術の幅が広がるという、それだけの考えです。私情などありません」

「私もそう思うよ、君が美少女のウインクで考えを変えるとも思えない。自分のやったことに自信があるなら胸を張っていればいいさ」

 そこで隊長はコーヒーカップを置き、切れ長の目で敬介をじっと見つめた。口元にいたずらっぽい笑みが浮かんでいる。

「それとも図星なのか? ああいう娘がタイプ?」

 動揺で、むせ返った。鼻から牛乳が出てしまった。

「ゲフッグフッ……あ、あ、ありえません!」

「そこまで取り乱すか。面白いヤツだな。でも、実際、そのくらいの人間味があってくれたらと思う」

 腕組みして、眉間にしわを寄せる。

「どの隊員にきいても、君の評価は一つだ。『訓練バカ』。若いのに、酒に誘われても女遊びに誘われても全部断って、同僚と口もきかずに訓練訓練……」

「他の隊員がどうかしているのです。雑誌の女の裸をおれに見せたがるんです。子供じゃあるまいし。そんなことやってる暇があったら、一本でも走り込みを、一発でも射撃訓練を。それを実践してきたから、おれは良い成績を出せました。実戦部隊配属から一年で、スコア二十。悪くない成績だと思っています。おれの誇りです」

「一年で二十体撃破は、驚異的な好成績だ。だが脆いよ。そういうのは」

「脆い?」

「ああ。私が殲滅機関に入った経緯は知っているな?」

「はい。おれと同じだと。蒼血に襲われているときに助けられて、入れてくれと懇願したと」

「そうなんだ。その時、私の無茶なお願いを聞いてくれた男が……首藤剛曹長。知っているよな」

「撃墜王……というか、蒼血撃破記録を残している人ですよね」

「そうだ。通算撃破記録305体は、日本支部のナンバーワンだ。彼と、彼の率いる第7小隊は伝説だ。彼はまさしく蒼血を倒すためだけに生きてきた。趣味も持たず、女とも触れ合わず、ただ人生の全てで己を磨き上げて、蒼血を狩った。信じられるか? 十年前、まだシルバーメイルが未開発の時代に、生身で十九体のフェイズ3に囲まれて、全部倒して帰ってきたんだぞ? 彼の口癖は、『俺は機械でいい』だった。人間であることをやめるくらい訓練に打ち込まないと、奴らには勝てないんだと。

 彼が偉大な隊員であることは疑いない。今でも彼を尊敬している。彼にめぐり合ったこと、彼の部下として戦えたことを幸福に思う。

 だが彼は脆かった。知っているな、彼の最期を」

「いいえ」

「知らないのか! そりゃ教本には載ってないが、隊員同士で話題にのぼるだろう?」

「おれは無駄話をしませんので」

 サキは呆れた表情で、大げさに肩をすくめた。

「首藤曹長が士官になれなかったのはコミュニケーション能力を疑われたからだが……君は彼以上だな! まあいい。彼は自殺したんだよ。あの無敵の首藤が、ある日突然。それも任務中に、大勢の部下の目の前で、銃で自分の頭を……異様な自殺だった。原因などわからない。彼には親しい友はいなかった。日記も遺書も残されていない。彼がいなくなって初めて、彼の心の中のことを、誰も知らないと気づいた」

 そこで言葉を切り、敬介と目を合わせる。

「それが、『俺は機械でいい』という人間の末路だ。何かの拍子に、心がポキリと折れる」

 尊敬する隊長の言葉とはいえ、聞き捨てならない。敬介は座ったまま背筋を伸ばし、強い口調で言う。

「おれは自殺などしません。絶対にしてはならない理由があります」

「姉を悲しませたくないから、だろう? だが首藤の自殺だって、まさかと言われたさ。

 純粋な人間はな、脆いんだ。心棒が一本しかないから。首藤曹長だけじゃない。優秀だったのに突然不調になる、戦えなくなる、自殺してしまう、そんな隊員を何人も見てきた。我々も結局、人間なんだ。だから、隊員は酒を食らい、女を抱くんだ。趣味を持ったっていい。私はこれだ」

 胸のポケットから掌に収まるほど小さなハーモニカを出して、神妙な表情で吹き始める。澄んだ細い音色があたりに広がってゆく。悲しげな曲だと思った。談笑のざわめきが少しずつ小さくなっていく。周囲の人々が耳を傾けているのだ。

「どうだ?」

「え……その。綺麗な曲だと思いました」

 音楽鑑賞の趣味は全くない。だから曖昧なことしか言えなかった。

 サキは苦笑した。

「興味がない人間の典型的な答えだな。だが、ありがとう」

 その時サキの背後から黄色い声が叩きつけられた。

「すごいすごい! かっこいい! 今のもう一回やって!」

 敬介が目を丸くする。いつの間にか、サキのすぐ後ろに、食事のトレイを持った凛々子が立っていた。

 サイズが大きすぎるグレイの開襟ジャケットを羽織り、その下にはワイシャツとネクタイ。殲滅機関の隊員が非戦闘時に着用する、勤務服と呼ばれるものだ。身長百五十センチの凛々子は一般的な軍隊には入隊できない体格のため、サイズの合う服が用意されていないのだろう。トレイを持つ手が袖に半分隠れてしまっている。そのおかげか、やけに子供っぽく見える。

「構わないが……」

「ここ、いいよね?」

 凛々子も同じテーブルについた。敬介のはす向かいだ。

「訊いてから座れよ……」

 無礼な奴だと、胸の中に不快感が広がる。

「それより、お前なんでここにいるんだ。拘束具は? 檻は?」

 敬介の聞いた話だと、エルメセリオン=凛々子は、出撃命令が下っていないときは厳重に拘束されているはずだ。

 疑問をぶつけられて、凛々子は明るい笑顔を作った。手をぱんと叩いて、

「それがね、もう拘束具いらないって! ちゃっちゃっと六体倒したら、実績が認められたんだよー! この基地の中に部屋まで貰っちゃった! 意外と物分りいいよね、殲滅機関の人。キミのおかげもあると思うよ。ありがと。ホントだよ」

 身を乗り出して、敬介に向かって深々と頭を下げる。

 胸の中の不快感が数倍になり、背中にも悪寒が広がる。まわりの連中からどんな目で見られるか。

「ば、バカ、よせ。誤解されるだろうが。お前と仲がいい、とか思われたら迷惑だ!」

「それにしても……」

 サキが顎に手を当てて首をかしげる。

「拘束なしとは、よく信用したものだな」

 凛々子はサキに向かって頭を下げる。

「あっ、影山曹長ですね。はじめまして、えーと……エルメセリオンの人間のほうですっ。氷上(ひかみ)凛々子と申しますっ。うーん……信用……信用は、たぶん、されてないです」

 そういって頭をめぐらせ、サキに後頭部を見せる。

 首の少し上、延髄の辺りが大きく盛り上がっていた。

「……手術か?」

 サキが眉をいよいよひそめて問う。

「そうなんです。これ爆弾なんですよ」

「なっ……」

 敬介は呻いた。だがサキは驚きもしない。凛々子はほっそりとした白い手で延髄の膨らみを摩りながら、

「拘束具のかわりなんです。ボクが上官の命令に背いたり、殲滅機関を裏切ったら。即座に遠隔操作でドーン」

 握った手を、パッと開いてみせる。

「TNT爆薬二百グラムだそうです」

 米軍の一般的な手榴弾・M26と同じ程度だ。「蒼血」の寄生体はガスコンロで炙っただけで死んでしまう脆弱な生き物だ。間違いなく粉砕されるだろう。

「逃げることもできないんです。これタイマーがついてて、二十四時間ごとに特別な設備でリセットしないと、やっぱりドーン」

「寄生体だけ脱出するのは?」

「それもダメらしいです。電極が寄生体にくっついてて、寄生体が頭蓋骨の中から移動したら爆発」

「それは……」

 敬介は顔をしかめて凛々子を見つめた。

 凛々子は言葉の深刻さとは裏腹に明るい表情だ。

「どうしたの? あ、いただきます」

 手を合わせて食事を始めた。せわしなく箸を動かして、鮭と味噌汁の定食を平らげていく。「おいしい!」という喜びが伝わってくる食べっぷりだ。爆弾より美味しいご飯の方がずっと重大とでもいうかのようだ。

 その無邪気な振る舞いを見ていると、胸に苦々しい気持ちが広がる。哀れみと似ているが、違うような気もする。この気持ちの理由が分からない。こいつは蒼血だ、敵性生物だと分かっているのに。

 敬介はパンの塊を食いちぎり、ミルクで飲み下すが、味がわからない。

「あ、もしかして同情してくれるの? やさしい! ボクの思ってた通りの人だ」

「誰が同情するか。お前なんか信用されないのは当然だ」

 口ではそう答えたが、凛々子と目をあわせることができない。

「まあね。これくらいのことは覚悟してたよ。ところでさ、デートしよ」

「ゲホゥッ!」

 敬介はまたむせかえった。スプーンをトレイに叩きつけて、

「お、お前は何の話をしてるんだよっ! 脈絡が、ぜんぜんわからん!」

「敬介くんって非番はいつ? ボク明日」

「おれも明日だが……なんでお前なんかと。絶対に嫌だ、冗談じゃない、お前と喋ってるだけでおれがどんな目で……」

 そういって周囲に目を走らせる。

 あからさまに敵意の目でにらんでいる屈強な黒人がいる。口の端を卑しく歪めて冷ややかに眺める日本人がいる。サキだけは蔑みではなく、興味深そうな笑みを浮かべてテーブルに頬杖をついている。

「曹長、なんとか言ってやってください……」

「オフの男女交際までは干渉できないなあ。ごちそうさま」

 コーヒーを飲み終え、カップを持って立ち上がる。

「いや、待ってくださいって」

「私の意見は先ほど言ったとおりだ。軍務一辺倒の人生は危険だ、女の子とデートくらいしてみるのもいいだろう。健闘を祈る。では」

「あ……」

「ねえねえ、どこ行こうか? このへん本屋あるよね? まずガイドブックとか買ってきて二人で検討……」

 身を乗り出してくる凛々子。敬介は無言で立ち上がって、食べかけのビーフシチューが載ったままのトレイを持って歩き出す。足早に歩いて返却口に勢いよく叩きつけ、一瞬も止まらず、そのまま食堂を出る。

「あれもう食べないの? もったいないよー。体の具合でも悪いのかな?」

「お前のせいで胃袋に大穴が開きそうだよ。って言うか、付いて来るなっ!」

 振り向いて、大げさなに「しっしっ」という仕草をする。

「ねえ、なんでダメなのかな?」

「お前、自分の立場わかってないだろ!?」

「裏切りの可能性? でも、ボクいま爆弾つけてるよ。絶対裏切れっこない」

 更衣室に飛び込んだ。

 勤務服のまま外には出られないことになっているので、ここで着替える必要がある。あいつもそうだろう。女は俺より時間がかかるはず。ここで引き離せる。上下の勤務服を脱いで私服を身に付ける。私服はジーンズにポロシャツ、安物のセーターに、千円で叩き売られていた薄手のジャンパーだ。焦げ茶色で、土木作業員が着ているようなあか抜けないデザインだが、ファッションには興味がないので、問題を感じない。あとはマフラーを無造作に巻いて、鏡も見ずに更衣室を出た。

 と、廊下には、着替え終わった凛々子が待っていた。

「なっ」

「遅かったね」

 我が目を疑って、凛々子の服装を見る。

 空から降ってきたときと同じ、薄手のパーカーとショートパンツ。パーカーの下はセーター一枚なく、とても冬の服装とは思えない。あの夜と違うのは、ニーソックスと運動靴を履いていることか。

「そうだよな……お前は普通の人間じゃないよな……」

 銃弾を手で払いのける超人が、なぜ着替えるスピードだけは人間並みなどと思ってしまったのだろう。

 ため息をついた敬介は早足で歩き出した。

 地上に出るための大型エレベーターにたどり着いた。エレベーターのドアの側にあるセンサーに掌を押し当てる。

 エレベーターには普段着に着替えた隊員たちが十人は乗っていた。肩がぶつかりあうほどに混んでいる。

「ついてくるなって」

「ボクとデートするの嫌? なんで? 理由を教えてよ?」

 デートという言葉に反応したのか、まわりの隊員が好奇の目を向ける。

「バカ、おまえっ、変なこと言うんじゃないっ!」 

「えー?」

 目を見開いて小首をかしげる凛々子。すぐに納得の表情になって両手をパンと叩く。

「あ、わかった。デートはじめてなんでしょ? オンナノコと付き合ったことないんだよね?」

「どうだっていいだろうが、そんなこと」

 敬介の両手をとり、小さな手で包み込むように握って、ぴったりと寄り添った。

「大丈夫、凛々子さんがぜんぶ教えてあげまーす」

「だから、ひとの話をきけっ」

 エレベーターが停止した。他の隊員とともにエレベーターから出る。

 そこは大きな薄暗い倉庫の中だ。鉄骨がむき出しになった天井は、一軒家が入るほど高い。

 外に出た。もう真っ暗で、周囲二、三百メートルは街灯すらない。同じような三角屋根の巨大倉庫が薄闇に溶け込むように並んでいる。倉庫の窓からも明かりは漏れておらず、とにかく暗い。だが敬介にとっては何百回も歩いた道だ。芝生を踏みしめて、迷いなく歩いていく。向かっているのは、この基地のゲートだ。

「ねえねえ、どんなとこに行くのが好き?」

「うるさいなあっ……」

 なんでこの女は自分なんかに付きまとうのか、さっぱり分からない。

 思い切って聞いてみることにした。

「なあ、なんで俺なんだ? 会ったのは一週間前で、ほとんど喋ったこともないよな?」

 そう言われた凛々子は小さな顎に手を当てて目をしばたたかせる。

「うーん……理由はいろいろあるけど。たとえば、若い隊員は敬介くん以外ほとんどいない。おじさんばっかり」

「そりゃまあな、普通はある程度経験のある軍人がスカウトされるわけだし。っていうか、お前、敬介くんって何だよ、もう友達気分か」

「ダメなの? ボクのことも凛々子でいいよ。リリコって、発音すると口の中で転がるみたいで、すごく良い名前だと思うんだよねー。あ、それから他の理由だけど、もちろんキミに助けてもらったってことが大きい。ホントだよ? すっごく助かったんだから! もう敬介くんに保証してもらえなかったら入れなかったよー」

「関係ないだろう、一兵卒の保証なんて。だいたい、俺は女なんかといちゃついてる場合じゃないんだ」

「あ! もしかして他の誰か好きな人がいるとか! それなら仕方ないよね、でもどんな人?」

「人の話を聞けっ。好きな人というか……家族だ。姉さんの話、しただろ?

 俺には姉がいるんだ。親代わりに俺を育ててくれた人なんだけど、自分の好きなことも、夢も、趣味も、友達も……何もかも捨てて働いて……一生懸命だったんだ。でも五年前、蒼血に寄生された」

 喋っているうち、自らの言葉の熱量に浮かされて喋りのペースが速くなってくる。声も大きくなっていく。

「その時の蒼血は倒したけど、姉さんはひどく傷ついた。脳の中で蒼血が暴れたから障害が残ったんだと。いまでも杖を突いているよ。だから俺は殲滅機関に入った。姉さんが大切だから。姉さんを傷つけた蒼血を、叩き潰すためだ。だから他のことなんてしちゃいけないんだ。それは姉さんを裏切ったことになる。休みの日だって、ずっと姉さんの面倒を見るために使う。俺は姉さんのために生きる」

 知り合いですらない凛々子に、ここまで喋ってしまっていいのか、と恥ずかしくなった。

 だが、ここまではっきり言えばわかってもらえるだろう。

「うーん?」

 凛々子は眉間にしわを寄せて首をかしげる。

「姉さんが大切だから……? 蒼血を叩き潰す? なんだそれ……? やっぱり敬介君、ボクとデートしないとダメだよ!」

「なんでそうなる! 俺の話聞いてたのかよ!」

 などと喋りながら、補給廠の出入り口にたどり着く。

 コンクリート製の小さな検問所があり、検問所の屋根には回店灯が毒々しいまでの赤い光を放っている。銃を持った兵士が歩哨に立っている。

 検問の向こうには踏切と病院があって、その踏切の向こうはもう相模原駅の駅前だ。居酒屋やファーストフードのネオン看板が見える。

 迷彩服の兵士を載せたままのジープが検問所前で停まり、カードを見せて通過した。あとに続いて軍人達が出て行く。

 敬介たちも検問所に並んだ。

「パスを」

 サングラスをかけた無表情な検問係が要求する。敬介は財布の中から無言でパスカードを取り出して渡した。もちろん、パスカードに殲滅機関云々は書かれていない。表向き、敬介は運送業者の人間ということになっている。

「はいっ」

 あくまで明るい声で凛々子がパスを出し、検問所を通り抜けた。

 検問を出たとたん、一人の若い女性が踏切を渡って近づいてきた。

 敬介は目を見張った。

 杖を突いている。不健康なまでに痩せて、肌は夜の暗がりの中でもわかるほど青ざめている。「病人」という強烈な印象が、整った顔立ちを台無しにしている。黒髪を柔らかそうな三つ編みにしてメガネをかけている。

 愛美だ。

「け い す け。」

 甲高い、途切れ途切れの声が愛美の喉から漏れた。抑揚などなにもない、昔の合成音声のようだった。いまや愛美はこんな風にしか喋ることが出来ない。

「あ……ねえさん、なぜここに?」

「夢 を み た の。け い す け が。ころされて しまう おそろしい夢。だから。 嫌な予感が して。 いても たっても、いられなくて。ずっと まって いたの」

 そう言って、敬介の手を握る。冷たい手だ。

「そうか……」

 夢を見た、と言われてしまうと敬介としては何もいえない。姉がもっとも深く傷ついているのは精神だ。記憶消去しても拭いきれない恐怖の残滓が、悪夢となって姉を襲っているのだ。

 だから。姉はこんなに苦しんでいるのだから。俺が守らないといけないんだから。

 女と遊びほうけるなど持っての外。わずかでも多くの訓練を、一匹でも多くの敵を倒す。

「ところで、そのかたは どなた?」

 凛々子の存在に気付いた姉が尋ねる。

 敬介は凛々子を睨んだ。「おい、ふざけて答えるなよ」とメッセージを答えたつもりだった。 

 ところが敬介の視線など全く気にもかけず、凛々子は薄い胸を張って答えた。

「ボクですか、ボクは氷上凛々子といいます。敬介くんのカノジョ候補ですっ。はじめましてっ」

 驚愕する敬介。あわてて訂正を試みる。

「ち、違うって姉さん。こいつはただの……」

 上ずった調子で釈明する敬介の口を、凛々子が掌でサッとふさいだ。明るい調子で喋りだす。

「一緒の職場で働いてるんです。さっきも二人でご飯を食べてきたんです。でも、彼が煮えきらなくて。ボクのほうからデートに誘っても、なんだか渋って。ひどいよ敬介くん、キスまでしたじゃないか! あの日の熱い口づけを忘れないよ!」

 敬介は今度こそ絶句した。凛々子の手を払いのけて、睨み付ける。ご丁寧にも凛々子は瞳を潤ませていた。フェイズ5なら涙くらい自在に流せるのだろう。

「違うだろう、アレはキスじゃない! キスじゃなくて……」

 そこで口ごもってしまう。唇の柔らかい感触を克明に蘇ったのだ。その瞬間に自分が覚えた当惑。痺れるような快感。そういえば確かに、女性と唇を重ねるなど初めてのことだ。アレはやはりキスの一種だったのだろうか。たとえその目的が骨折の治療だとしても。キスのあとに滑り込んできた脈打つ物体が少女の舌ではなく『蒼血』だったとしても。

「その時、敬介くんは言ったじゃないか、『君が必要なんだ、一緒にいよう』って。それなのにデートが嫌だなんて! ひどいよ、あれは嘘だったの? ボクとっても感動したのに! キミがいなければ、ボクはここにはいなかったのに!」

「いや、お前、それはだな……」

 自分の顔が赤くなり、冷や汗が吹き出していることを感じる。恥ずかしさと怒りで、身体が震えてきた。メチャクチャもいいところだ。『君が必要だ』は殲滅機関の戦闘員として必要なだけだ。断じて口説き文句ではない。

 言葉に詰まり、凛々子を睨んだ。

 だが、怒りを込めて睨み付けても凛々子はまるで臆した様子もなく、くりくりと大きな吊り目に喜びの光を浮かべ、頬と口許にいたずらっぽい笑みを浮かべている。からかって楽しんでいるのだ。抗弁すればするほどエスカレートして敬介を翻弄するだろう。

 だから、敬介はため息をついて、

「わかった。付き合うよ。明日でいいんだな。細かいことは任せる」

「やったー! 敬介くん大好き!」

 内心、苦々しく思っていた。

 せっかくの非番、俺は姉さんの面倒をみたいのに。姉さんを一人にしておくのは心配だし。うわついて女とイチャついてるところなんて見られたくない。姉さんだって俺のことを軽蔑するだろう。

 胃袋に、鉛を飲み込んだような冷たく重い感触が広がってゆく。

 ところが敬介の耳に、鈴の転がるような可愛らしいクスクス笑いが飛び込んできた。

 え? と当惑して横を見ると、愛美が笑っていた。折れそうに細い手を口許に当てて笑っていた。笑い声はしだいに大きくなって、もはやクスクス笑いとは言えない。華奢な肩を震わせている。

 目と耳を同時に疑った。姉さんが笑っている。声をあげて!

 こんなの何年ぶりだろう。そう、蒼血に襲われたあの日以来だ! あれから五年も姉は塞ぎこんで、テレビのコメディドラマを見せてもうっすらと笑みを浮かべるだけだったのに。貧しくとも明るかった姉に戻って欲しくて様々な努力を重ね、しかし姉の表情から憂いは消えなかったのに。

「姉さん?」

 戸惑って尋ねると、愛美は口元から手を離した。

「よかった けいすけ が そんな ふつうの おとこのこ みたいに なって」

「え……意味がよく……わからない」

 そのとき、足の甲に痛みが走った。靴を凛々子に踏まれたのだ。

「なんだよっ」

 凛々子のほうに振り向くと、彼女は敬介を引きずって姉から数メートル離れ、電信柱の後ろに隠れて、耳元に口を寄せて囁いた。

「あのさ、敬介くん。キミさ、すっごい勘違いしてるよ。付きっきりで手取り足とりするのが本当にいいことだと思う? 本当に嬉しいと思う?」

 横目で見ると、凛々子の眉は持ち上がり、口調は強い。先程の冗談めかした態度とは打って変わった、真剣な怒りの表情だ。

 なぜ怒られるんだ?

 とまどいながらも敬介は反論を試みる。

「いや、でもよ、姉さんは見ての通りの体だから、一人で家に置いておくのは危険だし、俺はたった一人の家族で……」

「二十四時間の介護が必要なの? そんな重い障害には見えないよ? お医者さんはなんて言ってる?」

「いや、介護しろとはいってないが。でもやっぱり不安だし……」

 そこで敬介は言葉を切った。自分の気持ちを一言で表すような言葉が見つかったのだ。

「つまり。裏切ったような気がするんだよ。姉さんのそばから離れると。俺は姉さんを一生守らなければいけないんだ」

「ふうん。つまり自己満足かあ」

「お前、何いって……!」

 敬介は声を荒げる。

「んとさ。立場を逆にして考えてみて。敬介くんが怪我とか病気で車椅子に乗ることになって、お姉さんが介護してくれて。なんでも代わりにやってくれて。最初は嬉しいと思う。でも一生、人生を君の介護のために犠牲にしたら。どう思う?」

「あ……」

 言葉に詰まった。心臓が激しく跳ねて、額を冷や汗が流れる。

 それは確かに、辛い。

 俺のことなんかいい。姉さんは自分のやりたいことをやってくれ。きっとそんな気持ちで胸が張り裂けそうだろう。姉を大切だと思えば思うほど。だが相手の好意がわかっているだけに「やめてくれ」と言うこともできず、ひとりで悶々と苦しむだろう。

 敬介の表情を見た凛々子は小さくうなずいた。笑顔に戻っている。

「だよね、それが当たり前だと思うよ。自分の大切な人が、自分のために頑張って、頑張りすぎて……それは嬉しいけど、辛いんだ。この人を縛っている自分が恥ずかしくて、負担になっているようで。だから、もっと好き勝手に遊ぶのがいいよ。それが結局、一番喜んでもらえるよ」

「そうなんだろうか」

 人生での前提が覆された。衝撃的で、認めたくない。

 だが、姉が笑ったという事実は揺らがない。

 敬介は凛々子から一歩離れた。そして頭を下げる。

「言うとおりにするよ。明日はお前と……どこかに遊びに行こう。明日、明日だけは、姉さんのことは忘れる。お前を信じる」

 デートという言葉を口にするのは気がひけた。言葉を変えても、まだ恥ずかしい。

「けいすけ なにを はなしてるの?」

 愛美に声をかけられ、慌てて向き直る。

「いや、何でもないよ、明日のデートの詳しい打ち合わせ!」

「そう たのしんで きてね。ひかみ、さん。けいすけを よろしく おねがいします」

 凛々子は自信満々、敬介と腕を組んで、

「ええ、まかせて下さい。彼、なんか女の子とか慣れてないみたいですけど、もう周りの人が嫉妬しちゃうくらいイチャイチャして、人生観変えますから!」

「いや、それは勘弁してくれ! もっと初心者向けなのでいいから!」

 その言い回しがおかしかったのか、また愛美が口を押さえて笑う。

 と、野太い男の笑い声が聞こえてきて、そちらを見て敬介は絶句した。

 基地の入り口の検問所にいる軍服姿の男が、笑っていた。

 そうだ、姉に気を取られてすっかり失念していたが、自分が今いるのは、毎日通う基地のゲート前。

 あたりを見回すと、基地を出て行く軍人、基地に入る軍人、通行人、その半分がニヤニヤ笑いを浮かべている。残りの半分は、目を反らすようにして足早に去っていく。

「あ……」

 こんなに大勢に人に見られた。笑っているということは会話の内容も聞かれたのだろう。ニヤニヤ笑いながら基地に入ってゆく男達の中に知った顔を見つけて絶望した。細い吊り目で東洋系の男は戦闘局のリー軍曹。サキ隊長の部下で、敬介のことをよくからかう。兵士達は噂好きだ。休み明けにはすっかり広まっているだろう。訓練一筋のイメージは、微塵も残らないだろう。

 どうすればいいのやら。またも冷や汗をかきながら凛々子を睨む。

 やはり凛々子は明るく笑って、

「いいじゃん。堂々とやろうよ、隠すことじゃないよ。明るいダンジョコーサイ、嫌い?」

 まったく悪びれない笑顔を見ていると、怒る気が失せた。無責任に見えるこの態度が、結局は姉を一番楽にするというなら。

「そうだな……」

 敬介も笑うことにした。むりやり笑顔をつくった。

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