第5話「ハーブティーとゴム」

 2007年12月30日 JR町田駅


 翌日の午前十時過ぎ。敬介はJR横浜線の町田駅改札を出たところで待っていた。

 町田駅は一日に何万人もの人々が利用する、この沿線では二番めに客数の多い駅だ。

 年末ということもあってか、リュックやカバンを手にしたラフな格好の人々が、ずらりと十八台も並んだ自動改札をひっきりなしに抜けていく。改札の向こう、階段の下でブレーキ音がして電車が停まると、そのたびに数百人もの人間がまとめて改札から吐き出されてくる。

 敬介はもう三十分以上もここで待ち続けていた。

 姉が言ったのだ。『女の子を待たせたら失礼だから早く出なさい』。

 五分前に到着するくらいでいいんじゃないか? と思った敬介だが、姉は楽しげに指を一本立てて、『氷上さんが早く来るかもしれないでしょう。だからもっと早く』と言うのだ。他にも髪型や服のシワにチェックを入れられ、どこかで聞きかじった『初デートのノウハウ』とやらを語ってくれた。挙げ句の果てにはネット上で見つけた『恋が実る御守り』までプリントアウトして渡してくれたのだ。

 困惑したが、普段とは逆の立場になって敬介の世話を焼く姉は、とても楽しそうで。だから結局敬介は、笑顔で御守りを受け取ったのだ。

 ……それにしても遅いな。

 腕時計を見た。すでに待ち合わせの時刻を十分過ぎている。

 どうしたものか。

 凛々子は普通の携帯電話と衛星携帯電話を持っていて、その番号も聞いている。普通の常識からすると連絡するべきなのだ。殲滅機関戦闘局員としての敬介は、ポケットに手を突っ込んで自分の携帯を引っ張り出した。

 だが、電話をかけることができずに、液晶画面を見つめるだけだ。

 つい昨日まで眠っていた『普通の男としての部分』が抵抗するのだ。

 今電話かけたら、急かしているみたいで悪いなあと。

 しかし、かけた方がいいんじゃないかという気もする。もしかするとアイツが待ち合わせの時刻を間違えているのかもしれないし。俺が間違えているのかも、いやまさか、携帯のメモで記録してあるし……

 どうしたものかと悩んで、ちらりちらりとあたりを見る。

 頭上には大型モニター。列車の遅延情報が表示されている。だが映っているのは、遠く離れた路線のことばかり。凛々子が来ない理由とは関係なさそうだ。

 時計を見て、十五分たっていることに気付いた。

 よし、と決意を固めて、生唾を呑み込み、携帯のボタンを押して凛々子の番号を出す。

 さあ、かけるぞ、かけるぞ、と自分に言い聞かせる。

 突然、凛々子の声が浴びせられた。

「電話するだけでそんな顔にならなくても。結婚でも申し込むの?」

「あ……」

 いつの間にか、凛々子が目の前に立っている。

「お前なあ! 遅いよ! あと遅れるんなら電話を一本入れろよ!」

 思わず大声を出してしまった。これは照れ隠しで怒っているんだと自分でも分かっていた。

「ごめんごめん。これを選んでいたんだ」

 自分の足を指さす。

 今日の凛々子は服を一新していた。上半身はピーコートに、かわいらしいデザインの小さなリュック、下半身はやはりショートパンツだが、比べてみると、昨日のショートパンツが運動着のようだったのに対して、今日のものは裾がふわりと広がり、フリルまでついて、ミニスカートに近い形だ。すらりと伸びた一片の贅肉もない足を、縞々のロングソックスが覆っていた。

「昨日の服とあんまり変わらないように見えるが。半ズボンで寒くないのか、という感じで」

「ひっどいなあ。これはキュロットスカートって言うんだよ。あと、このソックスのキュートさがわからないんだあ。女の子が『どーお?』と言ったらお世辞でも誉めておくもんだよ?」

「そうか?」

 敬介はごくりと唾を呑み込んで、凛々子のほっそりとした腿を凝視する。

 ……正直に言うと、とても綺麗な足だ。

 こんなに細く引き締まった足、きめ細かで白い肌を敬介は見たことがなかった。数え切れないほどの戦いを乗り越えてきたとは信じられない肢体だ。フェイズ5の持つ完璧な再生能力の賜物だろう。だが白く細くても、「弱々しい」という印象は全くない。皮膚の下に隠された筋肉と、凝縮された生命力を感じる。

 見ているうち、抜けるような白い肌の中に、一筋の青を見つけた。太腿の側面に細い静脈が通って、膝の裏側に回りこみながらロングソックスの中に消えていた。その僅かな青が、ますます肌の白さを際立たせていた。

「あ、足がスラリと見えて、いいと思う……」

 凛々子は噴き出した。

「それじゃただのセクハラだよっ。ヘンタイさんだよ。真剣な顔がなおさら怖いよ。なんか違うんだよねー」

 そこでバンドの細い繊細なデザインの腕時計に目をやる。

「うわ。もう時間がないよ。来ちゃうよ。早くいこ!」

 敬介の手を強引につかんで、早足で歩き出す。

 JR町田駅から数百メートル歩いた場所に、小田急線町田駅がある。新宿にも箱根方面にも通じる巨大なターミナル駅だ。

 手を引いたまま、敬介と凛々子がホームに上がってきたその時、列車がやってきた。

 美しい列車だった。他の線に並んでいる、クリーム色の箱に青線を引いただけの通勤列車とは違う。

 柔らかな曲面を帯びた、高貴さすら感じさせる真珠色のボディ。ボディ横に並ぶ窓はとてつもなく長く大きい。窓の下には鮮やかな朱色のラインが引かれ、冷たい印象に暖かさを添えている。車両の先頭は西洋騎士の兜とも猛禽類の頭部ともつかない独特の流線型を描き、巨大な曲面の展望窓があって、その中には座席が並んでいた。フルフェイスヘルメットを思わせるほどに巨大な展望窓だ。運転席は展望窓の上、二階部分にある。

 電車の種類になど興味のない敬介ですら、思わず目を見張った。

「間に合ったー! はい、これ特急券」

 凛々子が一枚の切符を渡してくる。

「んー、6号車だからもっと後ろのほうだね。ごめんね、もう展望席は売り切れだったんだよ」

 また敬介の手を比いて歩き出す凛々子。

「この電車に乗りたかったのか? わざわざ予約までして? なんでまた?」

 そう言われると凛々子は不満げに頬を膨らませた。

「だってこれVSEだよ? 小田急ロマンスカーの頂点と言われた夢の列車だよ? しかも普段VSEは小田原行き列車にしか使われないんだよ? 江ノ島方面でVSEに乗れる機会はほとんどなくて……」

 列車のドアが開いて、待っていた乗客が乗り込み始める。凛々子は走って、近くのドアから車内に飛び込む。

「あ、待ってくださーい!」 

 まだまだ発車する気配はないのに何を慌ててるんだ? と思いながら敬介が後を追う。

いち早く座席に座った凛々子が手を振って、

「早く早く。窓際だよ!」

 敬介が隣に座ると、凛々子は満面の笑みを浮かべて天井を刺す。

「すごいよね、この天井!」

 なるほど、アーチ状の緩やかな曲面を描いてぼんやりと内部から発光している。普通の電車より高級感があると言えるかもしれない、と敬介は思った。

「まあな」

「カトリックの大聖堂みたいに荘厳だよね、非日常的空間だよね! トランペットの妙なる調べが天空から降り注ぐよ!」

「大げさすぎる! ……というか」

 そこで敬介は立ち上がり、荷物のリュックを荷棚に置いて、ため息をついて凛々子を見下ろす。

「お前、鉄道マニアなの?」

 なんで凛々子が電車の種類に興奮しているのか、さっぱり共感できない。女でもマニアはいる、と聞きかじってはいたが。

「えー? マニアはこの程度じゃないよ。ただ、鉄道に憧れがあることは確かだよ」

「はあ? なんで?」

「だってボク、ふだん鉄道に乗れないし。日本に来てから半年間、一度も乗ってない。外国を転々としてる時も、よっぽどの急用じゃないと乗らなかった」

「だから、なんでだよ?」

「決まってるじゃない。電車に乗ってるとき戦いになったら、たくさんの人を巻き込む。満員電車とか最悪」

「なんていうか、お前……」

 敬介はまだ言葉に詰まった。こいつはとんでもない世界で生きてきたのだな、と改めて思う。自分にとって電車は毎日乗るもの、自分の足の次に身近な移動手段だった。それに乗ることもできない生活など。こいつも蒼血なのだから当然だと頭で分かっていても、どうしても胸の奥にモヤモヤが広がる。凛々子のあどけない姿を見ていると。

「どしたの? 座りなよ」

 言われた通り座ると、列車が動き出す。音もなく衝撃もなく、高級リムジンのように滑らかな発車だ。

「凄い凄い、動いた動いた!」

「窓際のほうがいいよな。席変わろうか?」

「それ子供でしょ。子供扱いしないでよ!」

 そわそわと腰を浮かしながら言われても説得力がなかった。

 話題を変えようと思った敬介は、

「ところでさ、どこに行くの? 江ノ島方面ってことは海なんだと思うけど……真冬になんで海?」

 すると偉そうに腕を組んでふんぞり返り、

「よくぞ聞いてくださいました! 今日のメインは新江ノ島水族館です。デート初心者の敬介くんにはうってつけです」

「はあ……?」

 水族館ときいてもまったく興味がわかない。小学校の頃に遠足で訪れたが、楽しい場所ではなかった。サメを見ては怖いと泣き出し、イルカやペンギンを見て可愛いとはしゃぐ女子達がうざったかった、という記憶しかない。

「あ、その目、疑ってるなー。でもホント、初心者にはお勧めのスポットだよ。映画はつまんなくても二時間ずっと座ってなきゃいけないから気まずくなるし、ショッピングはどっちかがボーッと待ってることになりがちだし……動物園だとけっこう長距離を歩き回るからうんざりする人もいるんだよ。獣の臭いを嫌がる人、多いし。そのてん水族館は屋内だし、決まった展示ルートどおりに歩くだけだし」

「遊園地じゃダメなのか? よく学生とかのカップルが行くじゃないか」

「遊園地はボクがいやなのっ」

 なんで? と尋ねるまでもなく、指を一本立てて理由を言った。

「だってさ、ジェットコースターとかは恐怖を楽しむものだよ?」

 そこから先は言わなくともわかった。敬介の頭の中に、凛々子と出会ったあの夜のことが鮮明に蘇る。蒼血を薙ぎ倒し、銃弾を片手で払いのけた、あの超絶的な運動能力。あんな立ち回りに慣れていれば、遊園地の絶叫マシンにいくら乗ったところで恐怖はないだろう。

 なるほど、と思ったが、凛々子の言う事に少しだけ疑問を憶えた。

「初心者向けをやけに強調するけど、お前もこういうの初心者だったりするの?」

 凛々子の反応は思いもかけないものだった。その言葉をぶつけられたとたんに笑顔が凍りつき、たっぷり二、三秒は沈黙した後に、

「え……あ……う……?」 

 意味不明な声を発して、大きく瞬き。

 胸の前で片手を振って、大声で否定した。

「や、や、やだなあそんなこと! あるわけないでしょ? ボクが何年生きてると思ってるのさ! 大ベテランだよ! 男をさんざん手玉にとっときたさ! とくに戦前とか戦後すぐの時代は簡単だったよ、男尊女卑の時代で男はみんな女をナメてたから。でもキミが初心者だから、あんまり大人向けの渋いコースじゃついてこれないと思ってさ! ほ、本当だからね!? ボク大ベテランだよ! 女の子を疑うのはよくないよッ!」

 凛々子の声がうるさすぎたらしく、前列の座席から中年女性が顔を出した。

 肥満して、厚化粧した顔面は巨大で、髪の毛を短くしてパーマをかけた、いかにも押しの強そうな女性だ。

「うるさいわねあんたたち!うちの子が迷惑するじゃない!」

 敬介と凛々子は顔を見合わせ、すぐに謝った。

「ごめんなさい」「すいません……」

 しかし中年女性の怒りはおさまらず、椅子の背もたれから身を乗り出して敬介と凛々子を眺め回し、嫌味な口調で毒づく。

「まったくねえ、あんたたちねえ。高校生くらい? 初心者とか言ってたけど、初デート? そうでしょ?」

「ボク……」

 何か言おうとする凛々子を片手で制して、敬介が答える。

「え、あ。まあ、そのようなもので」

 中年女性は大きくうなずいて、早口でまくしたてはじめた。

「気持ちは分かんないでもないわけよ、そういう年頃だしねー。ドキドキしちゃうわよね。あたしだってそういう年頃はあったわけよ? でもね、そういう時だからこそ踏み外して欲しくない、人間としてしっかりしないとダメなわけよ。ほら、電車の中って公共の場所でしょ? そういうところで一時の情欲にかられてイチャイチャするようなカップルはね、どうなると思う?」

 敬介たちが答える暇もなく続きを喋り始めた。

「子供よ、子供を作っちゃうのよ! あとのことなんて何も考えずにね! 犬や猫と同じで、ポコポコ作っちゃうの! うちの近所にもそういう若い子がいてね、まだハタチそこそこなのに同棲しててね、あたしは最初からダメだと思ってたんだけどね、ほらやっぱりって感じで子供作っちゃって。彼氏なんて男だか女だかわかんないカッコして、働いてるって言ったってねバイトでね、まあヒキコモリになるよりマシかもしれないけどね、うちの子の教育が……とにかく若いうちは礼節をわきまえた男女交際をしないとね……」

 喋るうちに声は甲高く大きくなり、わめき声になっていく。凛々子よりも明らかに迷惑だ。

「すいません、わかりましたから、気をつけますっ」

 凛々子が手を合わせて頭を下げると、中年女性は言葉を切って、さも満足そうな笑顔を作る。

「あらそう、わかればいいのよ、わかればね」

 頭を引っ込めた。

 敬介と凛々子は顔を見合わせる。

 肩がごつんとぶつかってしまって、慌てて飛びのいて座りなおす凛々子。表情は羞恥にこわばっていた。たぶん自分も同じ表情だと敬介は思った。

 当然じゃないか、大声で「赤ちゃんできる」とか「情欲」とか、そんなことを言われたら……

 意識しざるを得なくなる。こいつが女だということを。今までは何も考えずに軽口を叩けたのに。

 大きな凛々子の瞳が、優美な曲線を描く頬が、緊張に引き結ばれた小さな口が、その美しさが敬介の目を惹きつけて、視線を反らすことができない。初めて出会った、あの夜のように。

 何を言えばいいのか分からない。だが何かを言わなければいけないと思った。ただ焦りだけが膨らんでくる。頭の中がグルグル、というのはまさにこういう心境だろう。口の中が乾いて、汗が額を伝った。

 凛々子が言った。

「のど乾いた。もってない?」

「ああ! それならある。水筒が……」

 ありがたい。この気まずい空気を変えるために助け舟を出してくれたと思った。

 敬介は立ち上がって、荷物棚からリュックを下ろした。この中の水筒にはハーブティーが入っている。ハーブティーを選んだのは姉のアドバイスの結果だ。

 ……「太るのを気にする子もいるから、お砂糖が入ってるのは駄目」

 ……「おトイレが近くなるから、カフェインが入っているのも駄目」

 姉は本当に気を配ってくれた。

「この水筒が……」

 そう言いながらリュックを開けたが、慌てていたためか取り落としてしまった。

 勢いよく床に落ちたリュックから、掌に載るほど小さな紙袋が飛び出した。袋の口を止めてあるテープが破れて、もっと小さな箱が滑り出す。

「やば……」「あっ……」

 敬介と凛々子の視線が箱に集中した。

 うっとりと目を細める女性のイラスト。女性の周囲を乱舞する蝶。箱に書かれている文字は、『女性にやさしい たっぷりジェル』『一段コケシ型で脱落防止』『うすうすコンドーム』。

 とても冷たい声で凛々子が言う。

「……ねえ敬介君、これなあに?」

「え、衛生器具、であります、サー」

 なぜ兵隊言葉になってしまったのか自分でも分からない。

「嫌がってたのに。一日つきあうだけだって言ってたのに。こんなのを用意して……? じゃあ、さっきのおばさんの言葉じゃないけどさ、ほんとうにそういうつもりで……?」

「違う違う違う!」

 凛々子の声を遮って敬介は叫び、コンドームの箱を引っつかんでリュック深くに押し込んで、凛々子の顔を真正面から見つめる。

「違うって。誤解だって。俺は別に……こんなものを必要だなんて……ただ遊びに行くだけで……」

 すると凛々子はすぐさま視線を外して、

「いや、ボクべつに責めてるわけじゃないんだよ。うん、そうだよね、エチケットだよね」

「勝手に納得しないで俺の話を聞いてくれ! 俺はな、ただの友達だからこんなの絶対必要ないって言ったんだよ。でもな、姉さんがな、万が一のこともあるし女の子の方からは言い出せないって、訳の分からないことを……その、ほら、姉さんに切々と訴えられて、嫌だって言えるわけないだろ? ……他意はない、他意はないんだっ……」

「そうだよね、うんうん、そういうことをオープンに話し合える家族っていいよね」

 目を反らして、相変わらず冷たい声の凛々子。

「だから、そういうんじゃないってー! 俺は決して、いやらしい意味で!」

 大声をロマンスカー車内に轟かせてしまった。

 前席から先ほどの中年女性。後席から白髪の老人。二人いっぺんに顔を出して、怒りの声を降らせた。

「うるさいって言ってるでしょっ!」

「やかましいわい!」

 敬介と凛々子は身体を縮こまらせて、かぼそい声で、

「すいません……」「ごめんなさい……」 

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