第6話「水族館デート」

 午前10時40分 新江ノ島水族館


 水族館入り口。窓口に並んでいるのは家族連ればかりで、落ち着きなく周囲を見回している子供が特に目立つ。

「はい、大人二人」

 敬介が窓口でチケットを買った。チケットとパンフレットを凛々子に渡すときに手と手が触れてしまい、電流でも流されたかのように身体を震わせた。

 自意識過剰すぎるだろ、と自分を恥ずかしく思う。

 だが気になるものは気になるのだ。

 なぜだろう。こいつが彼女だというのは姉さんの誤解だ、そのはずなのだ。俺はこいつのことなんて何とも思ってない。ただの同じ組織の戦闘局員だ。会ったのは一週間前、こいつのことなんて何も知らない。友達ですらないはずだ。

 そのはずなのに……こいつに誤解されてるのが恥ずかしいとか、どういう態度を取ればいいんだろうとか、そんなことばかり考えている。考えているときの、息がつまるような、それでいて身体にエネルギーが有り余ってくるような不思議な感覚は一体なんだというのだ。

「ん。早く行こうよ?」

 いっぽう凛々子はもう混乱から立ち直っていた。敬介の心の迷走に気付いていないかのように朗らかな笑顔で、チケットを持ったままの手を差し伸べる。

「あ。ああ……」

 早く終わらせよう。そして、ちゃっちゃっと早く帰るんだ。姉さんと過ごす「いつもの休日」に、早く戻ろう。映画じゃないんだ、つまんなかったら早いペースで回れる。時間なんてかかりはしない。


 だが、館内に入ったとたん、敬介は圧倒的な光景に立ちすくんだ。

 水族館入り口は二階で、入ってからほんの三十秒も歩かないところに大きな吹き抜けがあった。

 一階と二階をぶち抜いて、映画館のスクリーンほどもある巨大な水槽があって青く輝き、その中では無数の魚が思い思いの軌跡で泳いでいた。

 二階も一階も、水槽の前に多くの客が立ち止まって眺めている。

 小さな、銀色にきらめく魚が数百も数千も集まり、軍隊のように一糸乱れぬ隊列をつくって水槽の端から端まで泳いでいた。その下には黒い菱形の身体をはためかせ、巨大なエイが悠々と進む。そのエイに貼り付いている小さな尖った魚は、もしかすると子供のころに図鑑で見たコバンザメか。黄色やオレンジの派手な色彩の魚もゆったりと泳いでいた。そればかりか、水槽の中に積み上げられた岩石から、黒く太い蛇のようなもの……ウツボが鎌首をもたげた。

「なんだ……これ……」

「おおーう。すっごーい」

 隣の凛々子も感嘆の声を発して、先ほど受け取ったパンフレットを開く。

「あ、これだよ、『相模湾大水槽』。江ノ島近辺の海を再現してるみたいだよ?」

「へえ。エイなんてこのへんにいるのか」

 大海原の真ん中まで出かけないと巡りあえない生き物だと思っていた。

「あの銀色の大群はイワシだって! すっごいねえ。ボク焼いたイワシしか知らないよ。あんな綺麗に泳ぐものなんだ。壮観だね! 銀河系! とかそういう感じ。あとねー。エイもいいよ。みて、あれ。身体をぐわんぐわんって羽ばたかせて、すうっと上がっていって……宇宙船みたいだよ。ぎゅーん! かっこいいなあ」

 ぷっ、と敬介は噴いてしまった。

「子供だな。それも男子小学生の好みだ。ほら、あの子とか」

 そういって敬介が指さすのは、一階で大水槽の前に張り付くようにして見ている小学生低学年ほどの少年だ。とくにエイがお気に入りのようで、目の前を通過するたびにガラスを叩いたり手を振ったり大はしゃぎだ。

「好みが男っぽくてもいいじゃない。じゃあ敬介くんは何が好きなの?」

「いや、ここには特に……みんなすごいとは思うが……」

 敬介が感嘆したのは特定の魚ではなく、これほどたくさんの魚が入り乱れて生命力たっぷりに活動している、「豊穣な生態系」そのものだ。

「そっか。じゃあ次いこっか? 入り口からこれだもん、期待しちゃうよ」

 凛々子に引きずられるようにして館内を巡った。

 不気味な深海生物の展示があった。

 長い足をもつ、一抱えもある蟹の展示があった。

 川魚が模造の河を跳ねていく展示があった。

 蛸壺にはまっている蛸までいて、凛々子が指を指して笑った。

「これっ、おかしいよねっ」

「なにが面白いんだ? ぐにゃぐにゃして薄気味悪いだろ」

「壷にはまってるのを見たら、ボクの笑いのツボにはまったんだよ!」

「くだらない! やっぱり子供だよ」

「いちいち人のシュミに文句つけてさ―。コドモっていうほうがコドモなんだもーん」

 その次の部屋は一味違った。円柱型の水槽が室内にいくつも立ち、ライトの淡い光で照らされていた。わずかに青みがかった光を放っていた。

 そして円柱水槽の中には、水に溶け込こんでしまいそうに透明性の高い小さな生き物が何十となく、その傘型の身体を躍動させて泳いでいた。

「これ……」

 クラゲだ。頭ではわかっていた。だが動いている現物を見たのは初めてだ。これほど幻想的で、ガラス細工のように繊細な美しさをもつ生き物だとは想像だにしていなかった。

 ……これは。この世の、いきものでは、ない。

「あ、けっこう綺麗だね。……どうしたの?」

 立ちすくむ敬介に、凛々子が首をかしげる。敬介の肩を小突いて、からかう口調で、

「あー。もしかしてクラゲ好き? 癒されちゃった? こういう綺麗でフワフワしてるのが好きなの? そっちこそ女の子みたいだね? ウププッ」

 凛々子の声は聞こえていなかった。フラフラ歩き出して室内を見て回った。

 見れば見るほど綺麗だ。ガラスのように透明で、まるで身体構造が感じられないものが泳ぐ姿は、新鮮だった。とても清浄なものだと思った。よく見ると水槽ごとに違う種類のクラゲがいるではないか。指先より小さなもの、逆さになっているもの。子供の顔面ほどもあるもの。

 見ていると、心が落ち着く。ここは地上の汚れが排除された異界だ。そうとすら思った。

「あのー。敬介くん?」

 肩を叩かれて、ようやく我にかえった。

「ん?」

「そんなに好きだったら写真とか撮る? 使い捨てカメラ売ってたよ? びっくりしちゃったよー。魂とられちゃった? みたいな」

「いや、いいんだ……それより。さっきは悪かったな。男っぽいとかいって。男も女もない、いいものはいいんだ」

 凛々子は一瞬きょとんとした顔になって、すぐに微笑んだ。

「そう。いいものはいい」

 それから館内をめぐるうち、二人の好みの差は明確になっていった。

 凛々子は動きの激しい、怪獣のような外見の生き物を見て大喜びする。

 いっぽう敬介は綺麗なもの、可愛らしいものがゆったり動くのを見て、ぼんやりと癒されるのが好き。

 もうお互い何の文句も言わず、好きなものを見た。

 凛々子が目を輝かせてアザラシのエネルギッシュな泳ぎを見つめていると、なぜだか敬介もあたたかい気持ちになった。

「このへんはイルカだから、男の子的には興味ないだろ」

「そんなことないもん。イルカとかも好きだもん。とくにシロイルカとか凄いよ。オデコのところに超音波を集中させるレンズがあって、超音波で敵を攻撃するんだよ? かっこよくない?」

「それが男の子だって言ってるんだ」

 ふたりで笑った。


 最後は土産物屋に出た。水族館の生き物をかたどった置物が、キーホルダーが、お菓子類が、所せましと置かれている。

「商売うまいねー。必ずここを通るようになってるんだね」

 子供に頼まれて、ついつい買ってしまう親が多いようだ。いまもレジでは、ペンギンの形をしたヌイグルミを小さな女の子が買ってもらっていた。

「欲しいでしょ? 買ってあげようか?」

「いくらなんだってそこまで女の子っぽくはないぞ!」

「見たかったなあ、ヌイグルミ買って、電車の中で急に恥ずかしくなる敬介くん」

 水族館から出たところは海辺だ。すぐ右手が砂浜になっていて激しい波が押し寄せ、沖合いにはサーファーたちが数十人も波風と格闘していた。見上げれば雲一つない澄んだ青空に、トンビがくるくると旋回していた。

 空を見てぼうっとしていると凛々子がぽんと肩を叩いた。

「どうしたの?」

「いや……なんていうかさ。すごく景色が綺麗に見えてさ。おかしいよな、こんなの水族館に入る前にも見たのにな。ぜんぜん違って見えるんだ」

「ん、それは当然だよ。受けとる側の心が変わったんだ。入る前はとても景色を楽しむような気分じゃなかったでしょ?いまはとってもリラックスしてるから、綺麗な世界を素直に受け取れるんだよ」

「リラックスか」

 そう言って敬介はまた天を仰ぎ、ため息をついた。

 リラックスは、だらけているだけだと思っていた。己を磨くことに全てを捧げられない怠け者の、単なる言い訳だと思っていた。

 でも違った。余計なものを脱ぎ捨てたような軽やかな気分だ。

「ところでさ、お腹すかない? どっかでご飯食べない?」

「え、今か?」

 時計を見たら、十二時半だ。

「混んでるだろ、今は。観光地の昼飯時だぞ? 駅前にコンビニあったからそこで弁当買って」

「それじゃ楽しくないでしょ、もうっ。もっと楽しもうよ」

「ああ、そうだな。任せるよ」


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