第35話「贖いの獣」
教団本部 地下駐車場
敬介は重い鉄扉を開けて、地下駐車場へと足を踏み入れた。
すべての照明が消えているため、墨を流したような絶対の闇が満ちている。
だが敬介は暗所戦闘に備えて自分の五感をすでに変化させていた。
視界が左右に分かれている。
右半分は、闇の中に白いぼんやりとしたシルエットが見える。四足の何か。熱源映像で敵の体温を見ているのだ。たくさんあるはずの自動車や柱は熱を発さないため、まったく見えない。
左半分は、大昔のコンピュータゲームのようにワイヤーフレームで立体が表現されている。四角い柱と、箱型の自動車がずらりと並んでいる。超音波の反響で障害物を感知しているのだ。
どちらも得られる情報はわずかなものだ。
「……よく来たな、小僧」
敵のシルエットが……ゾルダルートが、重低音を発した。
「……そういえば、お前には名乗っていなかったな。儂はゾルダルート。『魔軍の統率者』……」
相手の名乗りが終わらないうちに、敬介は走り出した。
あまりの高速に、視界右側の超音波画像が歪んだ。ドップラー効果で音波の波長に狂いが生じたのだ。
同時にゾルダルートも巨体を唸らせて突進を開始。
敬介は距離を詰めながら身を屈め、振り回されるゾルダルートの前腕をかいくぐった。コンクリートの床を滑って、腹の下を通り抜ける。
装甲のない、腹の下を。
「馬鹿がっ!」
間近でゾルダルートが嘲りの声を上げる。
嘲りの理由は分かった。右目の熱源視覚に、白くまばゆい光の突起が並んでいる。極限まで張り詰めた、筋肉の砲列。腹の下に多数のマッスルガンがあったのだ。
ゾルダルートは前回の戦いに学び、腹部の防備を固めていたのだ。
敬介に向けてマッスルガンが一斉に咆哮。岩塊を両断する超音速水流が頭上から降り注ぐ。
だが敬介はひるまない。こんな攻撃など予測していたから。手の鉤爪で床を引っ掻いてさらに加速、ウォータージェットが放たれた瞬間には通り過ぎていた。背後で水流がコンクリートを粉砕して飛沫を撒き散らす。
股下をくぐり抜けた敬介は高速滑走を続けながら立ち上がり、体を捻ってゾルダルートの方を向く。
相対速度数百キロで遠ざかる敵の体に、あらんかぎりの瞬発力で腕を伸ばした。
正確には、敵の体の一点。
太い両脚のあいだで無防備な粘膜を晒す、肛門に。
狙いは最初から、腹ではない。
敬介の長い腕が肛門に突き刺さり、直腸を押しひろげて侵入。肘まで入ったところで敬介は指を広げ、腕の刺を逆立てる。何百の刺が臓物に食い込んだ。
敬介の体に急激な減速がかかる。関節が悲鳴をあげ、筋肉と腱が弾ける寸前までミチミチと伸びて、かろうじて体が止まった。腕は抜けない。
「グオオオッ!」
ゾルダルートが苦悶の叫びを上げる。尻を振ってコンクリートの床に叩きつける。
敬介は避けることもできず尻の下敷きになった。棘の密生した巨大な獣の尻が顔面を潰し、頭の上にのしかかる。
それでも敬介は耐えた。ゾルダルートは転げまわった。連なる車を片端から踏み潰して、巨体が転がる。敬介は風車のように振り回される。腕が捩れてへし折れそうだ。クルマのフロントガラスに、ボンネットに顔面を打ちつけた。ガラスが爆散して散弾銃の弾丸のように飛んでくる。
耐えた。左腕を巨獣の背中に伸ばして爪を突き立て、引っ張る。右腕を腸の奥深くに押し込む。腕の付け根まで入った。
ゾルダルートは後ろ脚を器用に旋回させて敬介を蹴り飛ばした。顔面を爪が抉り、腹に丸太ほどもある脚が突き刺さる。
それでも耐える。腕の骨を変形させて、伸ばしながら振り回した。ミキサーの中で旋回する刃のように。爪が臓物を切り刻んでいく。大腸と小腸を何十もの断片に変え、生ぬるい血の海の中を、さらに奥へと伸びる。目指すは脊髄と心臓だ。
「オオオオッ!」
またゾルダルートが咆哮。作戦を変えてきた。腹の中が激しく蠢く。筋肉を移動させている。腹筋の全てが、肛門に……敬介の腕の周りに集まってくる。太いゴムタイヤの感触が敬介の腕を取り巻き、しっかりと押さえ込んだ。極限まで強化された肛門括約筋が全力収縮を開始する。
万力のような力が肘の前後を締め付けた。腕を抜こうとするがまったく動かせない。筋肉が乾いた音を立てて幾度も断裂。骨がミゾレ状にすり潰される。激痛の塊となった腕が痙攣した。
「ガァッ……!」
今度は敬介が苦痛に呻く番だった。腕の細胞に死滅を命じ、腕をまるごと引きちぎって、力の限り飛びのく。
背中がコンクリートの柱にぶつかって跳ね返る。受身を取る余裕などない。無様に床を滑って転がった。
「ハアッ……」
右腕は肩より下がほとんどなくなっている。切り株のような丸い筋肉の塊しか残っていない。傷口には骨が露出し、細胞が壊死して柔らかいペースト状になっている。動脈は閉じたはずだが止血しきれなかったらしく、屠殺場に鼻面を突っ込んだような濃厚な血の臭いがする。なにより激痛がひどく、敬介は転がったまま傷口を押さえて震えた。
しかし巨獣も攻撃してこなかった。
右目の熱源映像の中で、巨獣の口から白く輝くものが溢れだす。血を吐いているのだ。内臓の大部分を破壊した。いかにフェイズ5の再生能力といえど、回復には時間を要するのだろう。
最初の一撃は、こっちの勝ち。
「グフッ、……ゲホッ……やるではないか、小僧!」
苦悶の声の中にも喜びが混じっている。
「手段を選ばぬ、醜く浅ましい戦いぶり……餓狼のようだ。かつてのエルメセリオンでは考えられぬ」
すっと頭の中が冷え、敬介の震えが止まった。
激痛? それがなんだと言うのだ?
「……当然だ」
氷上凛々子は死んだ。軽やかに舞って全ての攻撃をかわし、剣光の一閃で敵を屠ってきた『反逆の騎士』エルメセリオンは、もういないのだ。
ここにいるのは、一匹のケダモノだ。
尻の穴だろうが何だろうが食らいついてやる。
「俺も名乗ってなかったな。
天野敬介。……『贖いの獣』エルメセリオンだ!」
叫ぶと同時に、立ち上がって飛びかかった。
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