第22話「ボクは君に、どうしろとも言えない」
3月6日夜 『繭の会』本部
あれから数日、考え続けた。
それでもどうしても答が出せない。
だから敬介は仕事を終えた後、凛々子の部屋を訪れた。
ノックして室内に入る。
と、入った途端、驚く。
室内の様子がまるで変わっていたからだ。
絨毯もガラステーブルもなく、純和風。
二十枚ほどはあるだろうか、畳が一面に敷き詰められ、窓には障子がはめられ、先日はシャンデリア風だった照明も和紙で覆われて柔らかい光を放っている。畳の上には大きな行李と箪笥が並び、いちばん奥にちっぽけな文机が置かれていた。
和服を着た女性が文机に向かっていた。よく見ると広報部長本人だ。長い茶髪をまとめて、豊満な体型を和服で隠しているから別人のように見えただけだ。
どういうことだ? と目を見張っていると、
彼女はゆったりとした動作で立ち上がり、微笑みかけてきた。
「こんばんわ、信徒天野。っていうか、もう敬介くんのこと、バレちゃったんだよね。じゃあ演技いらないね、こんばんわ敬介くん」
「え……あ……」
どう切り出していいものやら言葉を失っていると、
凛々子は室内を見渡して、子供のようにくるりと軽やかに回ってみせて、
「あ、この部屋? 模様替えしたんだ。たまには和風の部屋にしたくて。いいでしょ。ずっと演技してて、教団の教義がどうとか説教するのって疲れるんだよ。だから気分転換」
なにも敵地のど真ん中で、命の危険があるときに気分転換しなくとも……と想ったが、「だからこそ遊びを入れる」のが凛々子らしい気もする。
「顔を元に戻すね。そっちのほうが話しやすいでしょ」
両手で顔を覆った。ほんの一瞬で手を離す。
「ばあっ」
外側に跳ねた、短い黒髪。幼さを感じさせる、丸みを帯びた頬。鮮烈な輝きを宿した、くりくりと大きな瞳。
もとの凛々子の顔に戻っていた。
「……なんか暗いね、敬介くん」
元気付けようとしておどけてくれたのだろうが、とても笑える心境ではなかった。
「凛々子……相談があるんだ」
自分でも驚くほど、どんより濁った暗い声が出た。
凛々子もその暗さに驚いたのか、眉をひそめて、
「いいけど……立ったままっていうのもなんだよ、そこに座布団あるから座りなよ。いまお茶入れるね」
「お茶なんて、いい……」
物の味が分かるとは思えない。靴を脱いで、座布団を無造作に敷いてその上に腰を下ろす。凛々子とは二メートルほどの距離を置いて向かい合う形になる。
敬介の暗さが感染したのか、凛々子もかしこまった姿勢で正座して、膝のあたりに拳を置いている。
「相談てのは?」
促されて、敬介は喋りだした。
……姉の姿を見て、教団こそが姉の幸福だと気付いたこと。
……教団を倒すという意志が揺らいだこと。
……ヤークフィースに勧誘されてますます迷ったこと。
敬介の話を聴きながら、凛々子は目まぐるしく表情を変えた。
両眉を大げさに下げて八の字にしたり、ほっぺたを幼児のように膨らませたり、細い顎に手を当てて小首を傾げたり。ただ背筋だけは過剰なほどにきっちりと伸ばしたままだった。
「それで……俺は。……いろいろ考えた。でも、どうしても分からないんだ、どちらの道を選ぶべきか」
凛々子は顎に手を当てたまま、小さい声で呟いた。
「……ヤークフィースの、いつもの手だね」
「そうなのか?」
「うん。あいつはね、他人の脳を改造することもできるし、弱みを握って脅すこともできるけど、『あくまで自分の意志で、服従を選択させる』のがいちばん好きなんだ。まったく強制しないでも従うのが一番の勝利なんだって。ほんとは選択肢、ほとんど残ってないのにさ、嫌な奴だよ。
……でも、ごめん。ボクは敬介くんに、どうしろとも言ってあげられない」
「なんでだ? お前はずっとヤークフィースたちと戦ってきた。敵だろう。俺があいつら側につくなんて、許せないはずだ」
焦りを含んだ声で敬介は言った。言っているうちにわかった。自分は凛々子に叱り飛ばして欲しかったのだ。
蒼血なんかに屈服するな、戦え! と、闘志を注入して欲しかった。
「敬介くんの気持ちもわかるから。自分にとって一番大切な人の幸せがかかってる、そういう状況なら誰だってオドオドするよ、迷うよ。そこであっさり『自分は軍人だ、戦士だ』って割り切れる人、滅多にいないよ。……特に敬介くんは、あんまりお姉さんのこと、深く考えてこなかったし」
そう言われると返す言葉がない。牢に入っている間など、暇な時間はいくらでもあったはずなのに、なぜ『教団を潰せば姉の幸せも失われる』ということにすら思い至らなかったのか。これほどの馬鹿はいないだろうと思う。思わずうつむいて畳を見つめてしまう。
だが凛々子に責める様子はなかった。むしろ声のトーンを下げて、柔らかく、いたわるように言った。
「いまさら過去を責めても仕方ないよ。敬介くんは『戦場に適応した』だけなんだ。だって戦争の真っ最中の兵士が『この戦争は本当に正しいのか』って考え出したら生きていけない。味方の足を引っ張るだけだよ。
それで……ボクは、どうしろとも言えない。
ボクはどうにかしてヤークフィースたちの計画を挫くつもりだよ。でも、協力しろとは頼めない。きっとその道は敬介くんと、敬介くんのお姉さんをすごく苦しめるから。
でもお姉さんのために殲滅機関を捨てても、きっと苦しむよ。たくさんの仲間を裏切ることになる。あの隊長も。戦友たちも……死なせることになるかも」
「俺だって、そこまでは考えた。でも、どっちも重くて、譲れなかったんだ……」
「そうだよね。どっちの道を選んだって後悔すると思う。でも選ぶしかないよ。ボクだって、誰かを見殺しにしたことはある。戦闘の最中は最善を尽くしたつもりでも、安全になったときは『もっとこうすれば』って思った。特にボク、紛争地域に行くことが多かったから。蒼血から助けたつもりの子供が、ゲリラになって死んでしまったり、旱魃で全員ミイラになってしまったり、村ごと紛争で焼かれたりすることもあって。蒼血に寄生されたほうがまだ長生きできたかもしれないって……
でも、自分で決めたことだから。後悔したって、やり抜こうと思ってる。敬介くんもそうするといいよ」
最後の一言に深刻さが全くなく、『ごはんまだ?』くらいの調子だったので驚いて顔を上げた。
凛々子は澄んだ大きな瞳を敬介に向けていた。口元には穏やかな笑みが浮かんでいた。頬も緩んでいた。だが瞳だけはまったく笑っていない。純粋で透明な光を湛えている。
『覚悟』の目だと思った。
「八十年、だっけ? そのくらい戦ってきたのか。ひとりで」
「エルメセリオンと二人だよ?」
「なんで、できるんだ。俺なんて、命令を下してくれる組織からちょっと離れただけで、このザマだ」
「ボク的に当たり前のことを当たり前にやってるだけだよ。ボクは逆に組織に入って、ルールに従うのって大変だなあって思った。だから『なんでできる』って訊かれても……」
眉根を寄せて考えこむ凛々子。
そのとき渋い男性の声が会話に割って入った。
「ふむ、凛々子。きみの過去を話すべきじゃないか?」
声の主は、凛々子の首筋……に現れた、パクパクと開閉する小さな口だ。エルメセリオンだろう。
「きみが戦いを決意した理由、きっかけを知れば、彼にとって指針となるだろう」
「えー!? やだよう。恥ずかしい。あんなの他人に見せるもんじゃないよ」
凛々子は露骨に嫌がるが、エルメセリオンは笑う。
「はは。きみが嫌がるなら私が見せよう、天野敬介、手を」
エルメセリオンがそう言うなり、凛々子の身体が膝立ちになって敬介のほうに手を伸ばす。
「え、あ、はい」
敬介が凛々子の手を取った。細い、脆そうな手だ。絹のような肌は、とても歴戦の戦士のものとは思えない。凛々子が握り返してきた。
また手の平にちくりと針の刺さった感触。極寒の触手が腕の中を伸びてくる。首筋に侵入して上がってくる。脳に達した。
「では、行くぞ。情報量が多いから少し負担があるかもしれない」
エルメセリオンが言った瞬間、敬介の脳の中に、記憶が流れ込んできた。
膨大な量の音が。映像が。一挙に再生される。
いままでの人生で味わったことのない感覚だった。
夢から覚めたときとも違う。何かを思い出したときとも違う。
いま生きている現実が上書きされるほどの実在感を持って、時系列を無視して何千もの映像が、台詞が頭の中で弾ける。
「……っ!」
あえいだ。言葉を発することができない。全身が痙攣するのがわかった。視界がぐにゃりと歪みだす。まっすぐ座っていられない。
かたく繋がれた手の感触だけが確かで、あとはもう何も分からない。
自分は誰だ? 天野敬介か……? そうだよな……?
だが大正時代の東京を覚えている。横浜に汽船で来たことを覚えている。もっと昔、人々が城塞にこもり、巨大な火縄銃で撃ちあい、剣で斬りあっていた時代を覚えている。もっと前、もっと前……
「力を抜くんだ。自分の意識を無にして記憶を自然に受け止めろ」
「そんな……こと……いわれ……ても……」
意識が途切れた。
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