第26話「ふたりは楽しく」

 二〇〇八年三月六日 夜

 「繭の会」本部

 

 目を開いた。

 体中の力が抜けて、敬介は畳の上に膝をついて、そのまま倒れ込んだ。なんとか手を突いて、顔面から落ちることだけは防ぐ。

 心臓が凄まじい勢いで跳ねている。額から背中まで、体中にびっしりと冷や汗をかいていた。息も、数百メートルを全力疾走したように荒かった。

「ハアッ……ハアッ……これは……」

 凛々子を見上げる。凛々子は八十年前と変わらない顔で、変わらない真摯な瞳で敬介を見つめていた。言葉がうまく出せない。

 圧倒されていた。いま心の中に展開された記憶の密度に。

「おまえっ……げほっ……げほっ……」

 凛々子は背中を叩いて、抱き起こしてくれた。壁によりかかって休んだ。

「はい、お茶。一気に喋ろうとしないほうがいいよ。エルメセリオンも乱暴だよね、少しずつにすればいいのに」

 渡された湯飲みを一気にあおる。火傷するほどの熱い日本茶が口の中を蹂躙し、喉を灼きながら滑り降りていった。

「うぐっ……ぐうっ……」

 むせ返る。体中の汗が倍加する。

 だが、数秒間ごほごほと苦しんでいると、精神的な苦しさはだいぶ薄れた。

 いまが二〇〇八年で、自分が天野敬介で、なんのためにここにいるのかも、現実感を持って認識できた。

「ありがとう……それにしても……お前……」

 自然と背筋を伸ばしてしまう。

「すごいな……」

 きっと表情にも、隠しようのない驚嘆が浮かんでいるだろう。

「やだなあ、たいしたことないって。だから見せないでっていったのにー。泣いたところとか、いろいろ見ちゃったでしょ? 蒼血と戦い始めたあたり、失敗も多かったんだよ。相手が子供の体に入ってて、攻撃できなくて絶体絶命、とかも……」 

「それでも、めげなかったんだろう?」

「まあね、ボクは頭よくないから、あの軍人みたいに、理屈をこねられないんだ。悪いものは悪いよ! 約束破ったら、ずるっこだよ! って思っちゃう。だから破らなかった。子供っぽいよねー」

 そう言って笑う凛々子。だが敬介は笑えなかった。その「子供っぽい青臭い考え」を、どんな苦しみの中でも妥協せずに貫くことがどんなに難しいことか。

「でもね、キミはキミだから。ボクのマネをしろとは言えないよ。ボクはひとりだったから。大切な人を作らなかったから。だからワガママできた。ワガママの結果はボクが受け止めて、ぐっと我慢すれば済むから。家族がいたら……そうはいかないよね」

 凛々子の戦いぶりを見て、ますます分からなくなった。どうすれば彼女のように、断固たる意志を貫ける?

 もういちど訊ねようとしたが、凛々子が先に喋りだした。

「ホントはね、敬介くんとは友達になったのも、少し悩んでるよ。これでボクの判断も曇るかもしれないって……いざって時に冷静な判断ができなかったらどうしようって……だから怖くて……

 でも、一度くらいしてみたかったんだ」

「何を?」

「何をって……デートだよ!」

 大げさに頬を膨らませて怒る。

 なんだそりゃ、とあっけに取られて、全身の緊張が緩む。

「ずーっと戦いながらね、遠くから街の中の男の人と女の人たちを見ながらね、あー、ボクも普通だったらああいうことしてたのかなーって……でも、蒼血の世界に巻き込むわけにはいかないからね、敬介くんなら、もともと殲滅機関の人だし、ある程度は大丈夫かなって……ドキドキしてたんだよ?」

「だってお前、いろいろな男を手玉に取ってきたって言っただろう?」

「それは言葉の綾だよ! わかんないかなあ……あそこで『ボクもはじめてです』とか言えるわけないよ。どっちかがリードしないと、雰囲気めちゃくちゃになるでしょ? まったく……敬介くんは! 女心がわかんなすぎ! 

 ほんとにさ、心配しちゃうよ。電車の中でも、しどろもどろになっちゃってさ」

 何のことだ? と思い返して、ああコンドームが見つかったときのことかと気付く。

「お前だって相当慌ててたぞ? お前もデート経験なかったんなら仕方ないかもな」

「むっ。なんだその勝ち誇った表情。いっとくけどボクが誘ったんだからね。ボクが誘わなかったら、敬介くんはずっと戦いだけの人生だったもん。最初の一回すらなかったもん。

 でもね、誘ってよかったとは思ってる。

 一人きりでぶらぶらしても、世界のどこに行っても、あの楽しさは味わえないと思う。

 ただ少し、気持ちの通じ合う人が隣にいるってだけなのにね。

 蛸がツボにはまってるのを見て笑いあっただけなのにね。

 敬介くんは……?」

 握った拳を胸に当て、少し考え込んだ。

「うん……まあ、俺も悪くはなかった」

 確かに最後は、電車の中で口論になり、惨めな気持ちで任務に向かった。

 だが、「全体として、楽しくなかったか?」「行って後悔したか?」と言えばそんなことはない。

 二人でいる間、心の中のチューニングが、空気そのものが変わった。

 訓練で己を鍛え上げる。蒼血を倒す……そんなふうにピリピリと張り詰めていなくても、のんびりと二人で過ごしているだけで、下らない会話をしているだけでも幸せはあるのだと、知ることができた。

 凛々子はほがらかな笑顔を作った。

「だよねっ。敬介くんが一番楽しかったのは、どれ? クラゲ? 魂吸われちゃってたよね?」

「クラゲも良かったけどな……一番面白かったのはお前かな」

「えっ? ボク?」

「蛸がツボにはまってるとか、エイが戦闘機みたいだとか、くだらないことで大喜びしてるお前が、面白かった。なんだか子供みたいで」

「ひっどいなあ! 遊びで童心に還って何が悪いのさ!」

 また眉を吊り上げて怒る凛々子。もちろん本気で怒ってはいない。

 そうやって、しばらく軽口を叩き合った。

 特に凛々子がハイテンションになって、デート中の楽しかったこと、滑稽だったことを語った。敬介もだんだんとその場の空気に乗せられて、笑いながら話すようになった。

 不意に凛々子が壁際の時計を指差す。

「あ、もうこんな時間だよ? ボクも仕事あるから」

「ああ、わかった」

 簡単な挨拶を交わして、敬介は部屋から出た。

 ドアを背にして、呟いた。

「俺の気持ちを明るくするためかな……」

 唐突にデートの話を持ち出して方向転換して、そのあとずっと明るい会話だけを続けた。

 このままでは俺がずっと、ドロドロと暗い気持ちで悩んだままだと思って、少しでも楽にしようと考えたのか。

 その可能性は高い、と思った。

 なんていいやつなんだろう。

 いつだって強く気高く優しく、という約束を凛々子が守り続けているなら、それも有り得る話だ。

 あいつ自身、辛いのに。体の中に監視役が入っていて、戦おうにも戦えない、突破口のない状況なのに。

 俺は一体どうすればいいんだろう……

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