第7話「車内で喧嘩」
13時10分 小田急線車内
食事が終わって駅へと向かった。
帰りには特急ではなく普通の電車を使った。
ホームに停車してドアが開くや否や凛々子は駆け込み、身体がバウンドするほどの勢いでシートに飛び乗って、「早く早く!」
「小学生というか……幼稚園?」
と苦笑しながら敬介が隣に腰を下ろす。
電車はゆっくりと街中を進んでいく。帰宅には早い時間のため車内は空いている。
二人は水筒を出して、紙コップでハーブティーを飲み始めた。
「これ、美味いな」
「うん……」
凛々子はなぜか生返事だ。
「楽しかったな……」
まだ帰るのは早いんじゃないか? 町田でもう少し遊ぼう。そんなことすら考えていた。どうやって言い出そうか……
「うん」
凛々子はまた、敬介の顔も見ないで生返事。不審に思って顔を見ると、憂いの表情を浮かべている。いきなり別人のようになった。
「どうしたんだ?」
「あのさ。ちょっと考えてたんだけど……うーん、これ言っていいのかな……怒られそうだなあ。うん、今だから言うね。今なら聞いてもらえる」
よほど大事なことなのか、神妙な顔つきになって、深呼吸を一つ。
「昨日さ、ボクが誘ったら、敬介くんは言ったじゃない。『俺には姉さんがいるから遊べない』って。『姉さんが大切だから、蒼血殲滅に全てを捧げる』って」
「言ったけど……」
せっかくの楽しい気分だったのに、急に気持ちが醒めてくる。日常である「蒼血」の話題を浴びせられたからだ。
「あれってね。変だと思うんだ。落ち着いて聞いてね」
そんな話を今するなよ、という不快感が込み上げてきたが、間近で見る凛々子の表情があまりに厳粛なものだったので言葉を失った。今日はじめて浮かべる表情だ。むしろ蒼血と戦っていた時の表情に近い。
「だって、キミのお姉さんを酷い目にあわせた蒼血は、その場で殲滅されたんでしょ。つまり犯人は死刑になったんだ。それなのに、関係無い別の蒼血を、蒼血という生き物自体を、仇として憎んでいる。例えば中国人犯罪者の被害を受けたからって、中国人をぜんぶ憎むのって変じゃないかな?」
「お前……」
不快感に加え、不信感までもが急激に膨れ上がった。
「弁護するつもりか? 蒼血がたくさんの人間を殺しているのは事実だろうが。悪を憎んで何が悪い」
「『悪だから憎んでいる』なら、そう言えばいい。でもそれはお姉さんとは関係無いよね。『姉を大切に思っているから蒼血を滅ぼす』というのは理屈が通らない。敬介くんが蒼血を倒したからって、お姉さんの幸せにどう繋がるの?」
「なっ……」
敬介はあえいだ。
今日一日かけて育まれた凛々子への好意も、友好的な気分も吹き飛んだ。胸の内の聖域に土足で踏み込れたからだ。
睨みつけ、唸るような低い声を叩きつけた。
「何が言いたいんだ、はっきり言ってみろ」
凛々子は動じない。大きな瞳でまっすぐに敬介を見詰めたまま、小さな顎に手を当てて喋りだす。
「あのね、ボクは何十年も昔、作家志望の男の人と知り合ったの。その人はね、子供のころ学校でひどくイジメられていたんだって。だから復讐のために小説を書いているんだって。
『ベストセラー作家になって相手より偉くなってやる、みたいな感じ?』ってボクが訊くと、その人は自分に酔っている感じで微笑んで、『そんな単純なものじゃない』って。
『自分が本当に憎んでいるのはイジメを容認している空気そのもので、その空気を一掃しなければ勝ったことにはならない』んだって。『だから僕は小説を書いて世の中に広めて、イジメを容認する空気をなくして世の中を優しくするんだ』って。『それが僕の戦いなんだ』って。どう思う」?
「どう思うって、そりゃお前。訳が分からない。ツッコミどころだらけで」
「うん。ボクもさっぱりわからなかった。イジメた奴に直接仕返しする訳じゃない。世の中を変えたいなら政治家になればいいのにそんなことは目指さない。言ってる事とやってる事が矛盾しすぎて。でもボク変わった考えって好きだから、『それどういうことですか?』っていろいろ訊いたの。でも彼は何一つまともに答えられなかったよ。しまいには涙目で怒り出しちゃった」
そこで言葉を切って、
「たぶん自分を騙してる。ほんとの気持ちを隠してるんだと思うよ。とっくの昔に仕返しをすることなんて諦めているのに、諦めてるって認めるのが嫌だから、『自分は今でも戦っている』って思い込もうとしてる……自分に言い聞かせてるんだと思う。でもそれは本当にやりたいことじゃないから、彼はきっとずっと、満たされない気持ちを抱えたまま生きていくことになると思う。その後会ってないから、わからないけど」
「そんなの、そいつが甘ったれっていうだけの話だろ? さっさとやり返すことも、潔く諦めることもできないからだ。なんでそんな話を?」
そこで敬介は気付き、語気荒く詰め寄る。
「俺に似てるって言うのか、その甘ったれが!?」
「似てるよ。敬介君の心理は、彼ほど屈折してないと思うけど……理屈が通ってないという点では一緒。たぶん敬介君の場合は、『吊り橋効果』の一種じゃないかな。吊り橋効果って知ってるよね。吊り橋みたいに危険な場所に男女がいると危険のドキドキを恋のドキドキと勘違いして好きになっちゃうんだって。たぶん敬介君は、蒼血に襲われた時の恐怖のドキドキと、お姉さんを大事だと思う気持ちがごっちゃになっちゃったんだよ」
「何が言いたい? 蒼血を憎むなっていうのか!? 戦いをやめろって言うのか!?」
唾がかかるほどの至近距離で、乱暴に言葉を叩きつける。
車内の他の乗客たちが驚いて敬介を見る。非難の目を向けるものもいた。
だが知ったことじゃない。
「そうは言わないけど。考えて。自分は本当は何がやりたいのか。お姉さんにとって本当に幸せなのは何か。ちゃんと考えておかないと、破綻しちゃうよ」
「余計なお世話だ! まさか、今日のことはこれが目的だったのか。俺に説教するのが目的で。そうなんだな!?」
「ん、それは……」
唇を噛み締めて目を背ける凛々子。
敬介は確信した。やはりそうなのだと。
顔が上気するのがわかった。胃袋がストレスでぎゅっと縮んだ。紙コップを持った手が震えた。
……傷ついた。あんなに楽しかったのに。日常を忘れるほどに。この新しい世界に踏み出してもいいと思っていたのに。
こいつにとっては、ただの作戦だったのだ。俺を懐柔するための計略!
「……ごめん、ね。半分は、ほんとにデートしたかったんだよ。楽しかったのは、ほんとだよ?」
「ふざけるなよ!」
胸のうちで膨れ上がる怒りが、敬介を動かした。ハーブティーの紙コップを握りしめたまま勢いよく立ち上がる。
コップの中のハーブティーが空中に舞って、凛々子に頭からぶちまけられた。
「あっ……」
敬介と凛々子が同時に声を上げる。液体が凛々子のつややかな髪を濡らし、小さく尖った鼻を、柔らかそうな白い頬を伝っていく。彼女は大きな目をますます大きく見開き、頬は震えて、泣き出す寸前の子供のようだった。
さすがに敬介は罪悪感を覚えた。凛々子の潤んだ瞳が胸をかきむしる。
もちろん事故だ。だが凛々子は、「わざと引っ掛けた」「それほど怒っていた」と受け取っただろう。
謝ろうと思った。だが口を開けて凛々子を見おろしたものの、たった一言の謝罪が口から出てこない。かわりに、いがらっぽい喉からざらついた声で、一つの言葉が吐き出された。
「あ……謝らないからな」
言った瞬間に後悔が胸を衝いた。
訂正するより早く、顔を伏せたままの凛々子が消え入りそうな声で答えた。
「……うん。わかってる。ごめんね」
ふたつの感情が敬介の中で荒れ狂った。
……なんでお前が謝るんだ、俺を責めてくれ。
……そうだ、お前は俺を傷つけたから当然だ。
二つの感情の衝突には決着がつかず、敬介はいかなる言葉も発することができなかった。胸の中に鉛が詰まったような苦しみを抱えたまま、敬介はゆっくりと腰を下ろした。
二人は喋らない。列車の揺れる音がやけに大きく聞こえる。
何かを言わなければ、と思って凛々子の横顔をのぞき見る。凛々子はハンカチで顔を拭ったものの、泣きそうな表情のままだ。
こんな凛々子は見たことがなかった。明るくおどける凛々子、敵と戦う勇ましい凛々子、あわてふためく凛々子……いつだって凛々子の中にはある種の強さがあったのに。こんなにも脆い一面があったとは。
どれほど長く横顔を見つめ続けていただろう。ぎりぎりと胸を締めつける罪悪感が、凛々子への怒りを上回った。
謝ろう。少なくとも、ハーブティー掛けたことについては俺が悪い。
手の中でクシャクシャになっている紙コップをさらに強く握りしめ、息をひとつ吸い込んで、
「……凛々子」
「え?」
凛々子が顔を上げる。暗い顔のままだ。
だが、その瞬間。凛々子の抱えるリュックから電話のベルが鳴り響く。敬介のポケットの中でも携帯電話が着信メロディを発する。敬介は音楽にこだわりがないので、買ったときのままだ。
ふたりに同時に電話がかかってくるなど、用件は一つしか考えられない。
敬介は携帯を耳に当てる。
「はい、天野です」
「……殲滅機関です。作戦局員・天野敬介に緊急招集指令を発します。都内にて第一種蒼血事件が発生しました。ただちに日本支部へと集合してください。所要時間は?」
「了解。所要時間は……」
そこで言葉に詰まった。敬介はそもそも遊びにいくこと自体がないので、いま電車がどのあたりを走っているのか分からず、時間など予測できない。
目の前の凛々子を見ると、彼女も電話を取って、張り詰めた表情で会話している。
「現在、藤沢市内を町田方面に移動中。列車乗り換え時間含め、相模補給廠到着まで四十分。はい。はい。ヘリ送迎は必要ありません」
そのまま真似して言うことにした。
「到着まで四十分程度です」
電話を切ってポケットに戻した。
凛々子と目が合う。彼女は爽やかな微笑を浮かべていた。先ほどまでの、涙をこらえる表情は消えていた。口元は引き締まり、目には決意と誇りの光があった。
「指令、入っちゃったね? 残念。でも、行かなかったからボーンとやられちゃうし」
ボーン、のところで掌をパッと開いた。
デートの最初のような、明るくおどけた仕草。
「……ああ」
「第一種ってことは、戦闘局員が大量投入されるね。ボクの足、引っ張らないでよ?」
そうだ、彼女は強いんだ。その心も。
八十年間、蒼血と殲滅機関の両方を敵に回して戦い抜いてきた戦士。「反逆の騎士」エルメセリオンだ。
敬介を苛んでいた「謝らなければ」という気持ちが急速にしぼんでいった。
……謝るタイミングは完全に逸してしまったけど……
いいよな……
自分に納得させる。
窓の外を流れていくアパートや一軒家の連なりが、やけに遅く感じられた。四十分? もっと早く着かないものか。
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