第33話「彼の選択は」

 数分後

 教団本部ビル内

 

 敬介は、あのあと泣き喚いて逃げた。

 普通の人間ならば一寸先も見えない真っ暗な、トイレの個室にいた。

 惨めな素っ裸で便座に腰掛けて、目をつぶり、耳を覆い、恐怖と不安に震えていた。

 かつて子供時代、小学生の頃に何度もやったように。

 両親を失い、姉一人の稼ぎで学校に通っていた彼は、見るからに貧しい子供だった。

 着てくる服のバリエーションが極端に少なかった。

 大きすぎる靴を、ボロボロになっても履き続けた。

 クラスメートで携帯ゲーム機が流行ったが、そんな高いものはとても買ってもらえなかった。

 とどめは、弁当箱が一人だけ新聞紙で包んであったことだ。ほかの子たちはみんな色とりどりのナプキンなのに。

 哀れみと蔑みの入り混じった目で見られるようになった。悪ガキにからかわれるようになった。

 怒って反撃することはできなかった。もし相手に怪我でもさせたら姉が学校に呼び出されるから。

 黙って耐えることもできなかった。嫌がらせがエスカレートしたらどうする。教科書を水びたしにされたり体操服を切り裂かれたり、そんなことを姉に知られたら姉が自分を責める。

 だから敬介は当時、ひたすら逃げた。うつむいて給食をかきこんで、その後の休み時間は被害にあわないようにずっと逃げ続けた。保健室、図書室……一番のお気に入りは校舎の端にある、ほとんど利用者のいないトイレだった。やり返したい悔しさをぐっと堪えて、ずっと座っていた。こうやって我慢していれば、姉の笑顔は壊れない。それだけが心の救いだった。

 だが姉はもういない。人生を捧げたはずの組織、殲滅機関に殺された。

 姉と同じように気遣ってくれた女性もいた。だが凛々子もいない。この手で殺してしまった。

 だから……どちらも、あまりに取り返しがつかなくて。

 このままじゃいけない、やったことの責任を取らねば、そう思っても何をすればいいのか分からなくて。

 敬介を苦しめるのは自責の念だけではなかった。思い切り耳をふさいでも声が聞こえるのだ。

 壁を通して、低く嘲笑う、ヤークフィースの声が。

『私はヤークフィース。神なき国の、神』

『すべて計算どおりだったのですよ』

『日本から撤退しないならば、この動画を世界に公開します』

『回答までの期限は十分』

『もう実験は終わったのです。私としては、公開しても、それはそれでよし』

 ヤークフィースはサキ達と喋っているだけではない。この本部ビルの至るところで顔を出し、突然の戦闘停止命令に戸惑う隊員達に、挑発的な言葉を投げつけていた。

 フェイズ5の強化聴覚は、四方八方から殺到するヤークフィースの声を全て捉えていた。

 だから分かる。いま殲滅機関は、いや人類社会は大変な危機に陥っていると。

 ……だが……俺にどうしろっていうんだ。

 ……俺はもうできない。なにもできない。

 ……姉さんはいない。凛々子も殺してしまった。

 ……なんで、やらなくちゃいけないのか。これ以上頑張らなくちゃいけないのか。

 ……わかってる。わかってるよ。何かやらなくちゃいけないってことは。

 ……でも、できない。何かやらなくちゃ、って考えるたびに……

 姉の仇を討たねば。

 凛々子を殺した償いをせねば。

 どちらもやりたい。いや、絶対にやらなければいけない。だが両立できない。

 姉のため、殲滅機関に復讐すれば凛々子の気持ちを踏みにじることになる。

 絶対の重さを持った、絶対に両立できないもの。

 だから胸の中が、鉛のように重く冷たいもので溢れかえっていた。苦しさで張り裂けそうだった。

 震えていた敬介の唇から言葉が漏れた。

「なんで……だよ……なんで何にも、言ってくれないんだよ……」

 頭の中で、場違いなほどに落ち着いたエルメセリオンの声が響いた。

『ふむ? 何のことかね?』

「なんで……俺を憎まないんだよ……お前は屑だって……死ねって言ってくれれば……せめて……」

 そうだ。誰かに罵ってもらえば、ずっと楽になれただろう。いっそ今すぐ俺の心臓を止めて欲しい。できないはずがない。

『憎まない理由は、すでに説明した』

「俺は……俺は。凛々子の気持ちを。まるで分からなくて……最悪に裏切ったんだぞ。殺せよ……こんな奴、憎んで、殺して、当然だろう?」

 喘ぎながら吐き出した言葉に、やはりエルメセリオンは冷静に答えた。

『私たちは八十年以上も戦いを続けてきた。

 人間に裏切られるなど、まったく珍しいことではないよ。

 私たちの旅の始まりは、関東大震災だ。その時私と凛々子は、虐殺される朝鮮人を大勢助けた。

 しかし二十年ばかり後、戦争で破壊しつくされた東京に戻ってきた私たちは、驚くべき光景を見た。

 朝鮮や中国の人々が、進駐軍と結託して日本人に暴虐の限りを尽くしていた。

 日本人の商売を潰し、土地を奪い、女を襲い、人まで殺して、もみ消した。

 ふんぞり返ってギャングを気取る彼らの中に、二十年前に助けた、見知った顔がいくつもあった』

 一瞬の間を置いて、さらに続ける。

『凛々子はさすがにショックを受けていた。自分のやったことは正しかったのかと悩みもした。

 だが結局は揺らがなかったよ。全員がこうなるわけじゃないし、改心してくれる人だっている、次はきっとこんなことにはならないと……それでも人を信じて……

 世界の各地で、同じような出来事に出くわした。

 それでも最期まで凛々子は、あの日の誓いを捨て去らなかった。

 だから私も力を貸したのだ』

 ああ、そうだろう。凛々子なら、そうするだろう。

 絶対の純真を持つ彼女なら。

 だが敬介はかぶりを振って叫んだ。

「迷惑だっ……おれはそんなんじゃない……信じられたって、何もできやしない……凛々子のようにはなれはしないんだ。……分かるだろう!? おれがどんな奴なのか知ってるだろう? おれはもう、壊れそうなんだ。姉さんを殺した奴らをブッ殺してやりたい……でも凛々子の気持ちにもこたえたい……できねえよ、こんなの! 両立なんて……おれは凛々子じゃない! あんな凄い奴じゃない!」

 初めて、エルメセリオンの声が怒りを帯びた。

『天野敬介よ。君は勘違いをしている。

 凛々子は、君が言っているような意味で『凄く』などない。

 凛々子と言えど両立などできなかった。ギリギリまで努力して、それでも誰かを犠牲にせざるを得なかったことがある。本人も語っていたはずだ。

 凛々子は奇跡を可能にするヒーローではない。君の延長線上にある、ただの人間に過ぎない。

 ただ凛々子は、両立できない選択肢、救いたいが救いきれない誰かに出くわしたとき、君のように喚かない。逃げ出して震えることはない。ただ、決断し、救える人間を救い、救えなかった人間から目を逸らさない。そして救いきれなかったことを誰にも言い訳しない。ずっと一人で背負い続ける。

 凛々子が凄いと、君が言うのなら、『凄さ』はその違いしかない」

 胸を突かれた。ずっとつぶっていた目を見開き、顔を上げた。闇の中に沈む、クリーム色の個室の内壁。狭い空間。

『だから凛々子は楽になれない。力不足で全員を助けられなかった、ということを永遠に背負い続ける。

 君もだ。両立する道がないのなら、どちらかを選んで、選べなかったことを受け止めればいい。

 その結果、罪の意識が永遠に続くことになろうと、自分で選んだのだから仕方ない。

 人間にはそれができると、凛々子は教えてくれた』

「どちらが……どちらが正しい道なんだ。姉さんの復讐と、凛々子の……」

『正しい道などない。君の選んだ道があるだけだ。

 言っておくが、仮に君が復讐を選んだとしても。

 凛々子の想いを犠牲にして、それでも姉の死が許せないというのなら。

 止めるつもりはない。

 復讐のために力を貸してくれ、というなら考慮しよう』

 今度こそ息を呑んだ。反射的に便座から立ち上がって、叫んだ。

「なぜだ!? 凛々子はあんたの……」

『私の目的は、人間を知ることだからだ。

 私はもっと知りたい。

 人間はどんな生き物なのか。

 凛々子はたくさんのことを教えてくれた。だが君はそれ以上に凄いものを見せてくれるかもしれない。凛々子を覆せるほどのものを。

 たとえば、殲滅機関員を皆殺しにしても、まだ渇きが収まらないような絶対的な復讐心を。

 どうだ、見せてくれるか? 復讐のためだけに全てを捧げられるか?

 それならば協力しよう。ただ一言、『捧げる』と言いさえすれば」

 敬介は絶句した。

 薄闇の中を、立ち上がったまま、震えながら見回した。

 クリーム色の壁に、すうっと姉の幻が浮かんだ。

 長い三つ編みを心細そうに握りしめて。

 野暮ったい古着のセーターを着て。

 大きな古めかしい眼鏡をかけた愛美が、儚げに微笑んでいた。

『わたしのことなんて気にしなくていいよ』

 表情で、目で語っていた。

 逃げるように反対の壁を見る。

 そちらでは凛々子が、眉間に可愛らしい皺をつくり、眉をきりりと上げて怒っていた。

『まったくもう、敬介くんは!』

 怒っていても大きな瞳には、敬介の事を気遣う優しさが溢れている。

「ああ……ああ……っ!」

 選べない。できるわけがない。

 だが、このまま選べずにいるのが最低の行為だということはわかっていた。

 確かに聞いた。あと十分ですべてが決する……

 何度も、何度も、敬介は首を左右に振った。視線が、左右の二人の間をさまよった。

 さまよううち、少しずつ凛々子のほうに吸い寄せられていく。

 そこで止まった。

 だが言葉を出せない……

『そうだ。公平な判断のため、ひとつ教えておくことがある。凛々子が殲滅機関に入りたがった理由は、第一に君のためだ』

 驚きに硬直した。

『当然ではないか。『殲滅機関の情報力が欲しい、共闘したい』だけが目的なら、もっと早くやっていればよかったではないか。凛々子はな、出合ったときの君を一目見て、わかったのだ。この人はとても無理をしている。無理矢理に自分の心を狭めて、戦いの機械にしている。もうすぐ壊れてしまうと。助けたかったのだ』

「じゃあ……俺にやたら話しかけて……デートに誘ったりしたのも……?」

『そうだ。凛々子の個人的な興味も皆無ではなかったが』

「なんで? なんで見ず知らずのおれのために?」

『人を助けることに理由など要らない、凛々子は。目に映る全てを、助けられるだけ助けたかったのだ』

 ドクンと、胸の奥で心臓が跳ねて。

 それが最後の一押しになった。

「そんな……こと……言われたら……俺……俺は……」

 まだ乾ききっていない頬を、また熱い涙が濡らした。

「やらなきゃ……俺……やらなきゃ……」

『何をやるのだね』

 息を吸い込み、背筋を伸ばして宣言した。

「……俺は、凛々子を殺したことを償う。方法は。……凛々子のやってきたことを継ぐ。人を信じて、救うために戦う。ずっと。どんなに苦しくても。そうでなかったら。それをやらなかったら。俺は。

 だから力が欲しい。凛々子と同じ、人を救うための力を」

『その結果、君は姉の仇を討てなくなる。姉を切り捨てて生きる。永遠に後悔する。いいのだな?』

 間髪いれずに答えた。

「構わない」

 答えた瞬間、胸の中で「力」が爆発した。姉を殺されたときとは違う、熱くない、ひたすらに冷たいエネルギーの奔流。それは手足の隅々まで満ちて、肉体を変貌させる。

 みりっ……みちっ……めりっ……

 また真紅の棘が全身から突き出した。筋肉が膨張し、骨格が変形する。指が伸びて、まがまがしい長い爪が生え揃った。

『わかった。ならば君が贖罪を続けている限り、私は力を貸す。

 私は人間が、自らの罪から眼を背けるさまをずっと見てきた。見せてくれ。『それは嘘だ』と。『人は罪を償える』と』

 無言でうなずいて、敬介は首をめぐらせた。

 姉のほうは見ない。

 凛々子の幻に、眼を合わせた。

 凛々子はハッと眼を丸くして、唇をかみ締め敬介を見つめ返した。ぎこちなく微笑を作って頭を下げて。

 消えた。

  

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