第29話「残酷」

 同時刻 本部ビル近く 植え込みの中

 

 伏せて隠れながら、敬介は焦りに焦っていた。

 あたりが銃声で充満していても分かるほど、激しい鼓動が頭の中にまで伝わってくる。

 ……ダメだ……これ以上、近づけない……

 あの中華料理店を脱出してから、隊員達のわずかな隙をついて、木の陰や茂みの中、ベンチの裏などを伝って、ここまで近づいてきた。

 だがこれ以上はダメだ。目の前に隊員が複数、陣取ってしまった。今は無反動砲をひっきりなしに撃ちまくっているから爆音のせいで俺に気付かない。だが戦闘の経験でわかる。背後の植え込みにもこの隊員が注意を向けていることを。俺が身動きした瞬間、撃ってくるだろう。

 どうすればいい。

 俺は馬鹿だ。姉さんと一瞬でも離れちゃいけなかったんだ。

 一体どうすれば。

 喰いしばった歯がギリリと異音を発したその時、何かが目の前に降ってきた。

 枝に引っかかって減速したせいだろう、バウンドすることもなく転がる。

 転がって、頬にぶつかった。

 息が止まった。生首だ。

 短い髪の毛は茶色く焼け焦げて、ふっくらと丸かった頬は火ぶくれだらけで……

 凛々子だ、と気付いた。

 一瞬のうちに考えがまとまった。

 高フェイズの蒼血は首をはねられても即死はしない。これもまだ仮死状態だ。

 ……こいつを俺の体に繋げれば。

 首の切断面を自分の首筋に押し当てた。だがダメだ、何も起こらない。冷たい生肉の柔らかい感触が伝わってくるだけだ。

 きっと酸素不足で仮死状態になっているのだ。何らかの方法で、こいつの中に酸素を送り込んでやらないと……

 隊員が振り向いて、こちらに向かって発砲したのはその瞬間だった。

 全身のあちこちを銃弾がぶち抜いた。体中の筋肉が痙攣した。その瞬間、痛みはなかった。電流を流されたように、身体が制御を失って暴れるだけ。一瞬後、肩、腕、脚で激痛と灼熱の感覚。手足の骨がナイフのようなバラバラの砕片になって、内側から筋肉を食い破り腱を引き裂いているような痛みだ。とても耐えられない。全身の汗腺から一気に冷や汗があふれ出す。必死に引き結んでいた唇からも声があふれ出す。

「うううっ……」

 また銃撃。今度は膝を正確に撃ち抜かれたのがわかった。もう手足は何の役にも立たない。ただの激痛の塊だ。

 ただ一本、凛々子の生首を抱え込んでいる右腕を除いては。

 痙攣する右腕を渾身の意志力で押さえつけて、凛々子の髪の毛を掴んで生首を動かす。大出血を続ける肩の傷跡に、力のかぎり押し付ける。

 ……入れ!

 ……入れ!

 ……俺の血! こいつの中に! 凛々子の中に!

 ごぼり。

 泡の音がした。

 肩の傷口に、温かい感覚が生まれた。たちまち全身に広がっていく。凍えるような日、ぬるめの風呂に全身を浸したときのような、肉体がそのまま溶けていきそうな心地よさだ。そんな心地よさが、銃創の激痛を跡形もなく押し流した。

「凛々子!」

 声を上げて凛々子の顔を見る。彼女の火ぶくれだらけだった顔の皮膚が剥がれ落ち、下から真新しい、傷一つない白い肌がのぞく。焼けて短くなっていた髪が伸びる。

 そして、目を開けて微笑んだ。

「敬介くん……ありがとう」

「すまん凛々子。俺の体を貸してやる。だから頼みが……」

「お姉さんを助けるんだよね? それ以外ないもんね。じゃあ、もう決めたんだ。お姉さんのためなら殲滅機関を裏切ると? でも、それならボクとは目的が違う、敵対することに……」

「そんな細かい話はどうでもいい、頼む、今はお前の力が必要なんだ!」

「どうでもいい?」

 凛々子の声が一瞬だけ当惑の色を帯びた。

「まあ、いいけど。その話は後で。体の制御はボクがやるね。お姉さんを助けたあとは、ボクの好きにさせてもらう」

 宣言とともに、体が勝手に起き上がった。

 すぐさま、凄まじい銃撃が浴びせられるが、小刻みなステップで全ての銃弾を軽々と回避して、敬介=凛々子は走り出した。

 ぐん、と、すさまじい加速が首にかかった。

 最初の一歩で時速百キロを越える。次の一歩で二百キロ。

 だが見える。あたりに布陣する隊員たちの顔が、これだけの速度にもかかわらずはっきりと、唇の隣のホクロまで見える。自分に向かって殺到する銃弾の動きも見える。銃弾は虹色に光る衝撃波の螺旋を引っ張っていた。空気の揺らぎさえもすべて認識できるのだ。

 ……すげえ……

 これが、フェイズ5の見ている世界。

 隊員達の間をすり抜けて、敬介=凛々子は走る。

 その瞬間、左右からの銃撃が彼を挟み込んだ。

 かわしきれない弾丸が数初、肩や背中をかすめた。

 痛みはない。服が抉られるのを感じたが、下の皮膚がたやすくライフル弾を弾き返していた。

 フェイズ5は大したものだ。鱗でも外骨格でもなく、人間の姿を保ったままで装甲化を実現している。強度はフェイズ4の外骨格と同じ程度はありそうだ。

 ……これなら、いける!

 ビルに駆け寄り、大きく跳躍して窓から飛び込んだ。この階はもう制圧されていた。たった数人の隊員がシルバーメイル姿で見張りについていただけだ。

 敬介の姿を認めるや銃撃してくるが、また素早く跳躍して彼らの頭の上を通り過ぎる。

 ……それでいい。闘っている時間が惜しいからな。

 階段で上の階に、そのまた上の階に昇った。

 何階か昇ると、蒼血と殲滅機関が激闘を繰り広げるまっただ中に飛び出した。

 殲滅機関局員が行く手を遮った。顔面が鱗で覆われた蒼血の大群が一斉に飛びかかってきた。

 無言で彼らの弾丸をかわし、彼らの間をすり抜ける。どうしてもよけ切れない場合だけ、彼らを蹴り飛ばして道を開いた。

いちいち倒していくよりこの方が早いのだ、と敬介には分かった。胸の奥が息苦しくなりつつある。さきほどからまったく呼吸せず、肺の中の酸素だけで行動しているから苦しいのは当然だ。

 この調子で体を動かせば酸素切れは近い。時間がないのだ。

 階段を時速百キロ以上で駆け上がりながら、敬介は踊り場の階数表示を見た。

 十二階。

 姉がいるのは十五階。もう少しだ。

 と、そのとき、上の階から自分以上の速度で駈け降りてくる者がいた。

 手足のひょろ長い、首のない、黒い影が。

 相手をしている時間はない。とっさに飛び跳ねて頭上を抜けようとしたが、黒い影もまったくタイミングをあわせて跳躍した。……速い!

 空中で衝突する寸前、視界を銀色の閃光が一閃した。顔面に向かって、超高速の突きが飛んでくる。

 体を空中で捻って回避を試みた。かわし切れない。肩を鋭い何かが深く抉った。皮膚が突き破られて肉と骨が飛び散った。

 階段の上に叩き落とされた。とっさに受け身を取って頭からの落下を防ぎ、立ち上がって身構える。

 五段ばかり上に立つ、影。

 異様な姿だった。服はまったく身につけていない。そのかわり、黒い外骨格が全身を覆っている。手足は普通の人間の二倍も長く、節くれだっていた。両腕の先には螺旋状の刃があって、凄まじい速度で回転していた。

 フェイズ4の昆虫形態だ。

 ただし、過去に見たものと違って首から上がない。そのかわり、乳房のあたりに、巨大な複眼を持つ頭が二つ、くっついていた。

「こんなところにいましたか」

 昆虫の顎が動き、金属的で聞き取りづらい声を発する。

 ……なんだ、この化け物は?

 頭の中で発した呻きに、凛々子が思念で答える。

『こいつが監視役だよ! リッケルとライネル。ヤークフィースの側近。かなり強いよ』

「醜い姿になりましたね、エルメセリオン、そうまでして我等に楯突くのですか」

「いくらでも、楯突かせてもらうよ!」

 そう言って凛々子は両腕を交差させた。肘から先に熱い感覚が広がって、腕が剣に変形した。

「やっ」

 気合を入れて、異形の昆虫……リッケルとライネルに斬りかかった。 

 だが異形の昆虫は長い脚を素早く動かし、凛々子の腕を蹴り上げようとする。脚の先端もドリルのような刃が高速回転していた。凛々子はなんとか脚をかわして距離を詰めたが、かわし方を予期していたのか、体を傾けてよけた方角に、腕のドリルが待ち構えていた。

『……うっわ!』

 凛々子はとっさに腕の剣を振りかざし、敵のドリル腕と衝突させた。不快な金属音がまき散らされて、衝撃がこちらの腕に伝わってくる。剣はドリルの破壊力に耐えた。だが体が吹き飛ばされてよろけた。思い切り階段を蹴り、跳んだ。長い敵の腕が空中を伸びて追いかけてくる。額を、肩をかすめた。なんとか避けきって、階段に着地した。

 敵との距離は六段。先程より間合いが伸びている。

「こちらから行きますよ!」

 異形の昆虫が体重を感じさせない高速移動で駆け下りてきた。左右のドリル腕で連続した突きを繰り出してくる。凛々子は剣でドリルを捌き、あるいは避ける。数発にひとつ、敵は蹴りまで混ぜてくる。ステップを踏んで避けると、着地の瞬間を狙って腕のドリルが襲ってくる。体をのけぞらせ、あるいは後ろに飛びのいてギリギリで回避する。

 足の裏に、広い平面の感覚。階段を降りきって踊り場まで来てしまった。一気に数歩分の距離を飛んで後ろに逃げる。だが敵は一瞬も遅れずについてきた。

『どういうことだよ! こいつお前より強いのか!?』

『そんなことないよ。本来なら勝てるよ。でも……』

 そこで凛々子は意を決したのか、強い調子で問いかけてくる。

『よけいなことを考えてるでしょ、敬介くん?』

『おれが!?』

『うん。人間はどうしても、攻撃がきたら後ろに跳んだり、転びそうになったらバランスをとろうとしたり、そういう行動をとっちゃうよね。敬介くんも無意識のうちに、そういう信号を出してるの。でもそれはボクがやりたい行動とは、ほんの少しだけ違うの。違う信号がノイズになって、体の反応が悪くなってるんだ。絶対に何も考えないで、ボクだけに任せて』

『そんなこと言われたってよ……』

 反射的に思ってしまうことをやめろ、と言われてもやめ方が分からない。

 そんな問答をしているうちに、背後に壁が迫る。追い詰められた。

『だよね、じゃあ交代する。ボクは黙ってるから、敬介くんが動かして』

 すうっ、と、体の中を熱い何かが移動するのがわかった。胸を通って頭の中に上がってくる。

 エルメセリオンだ、と分かった。

 頭の中に渋い老人の声が響いた。

『任せたぞ』

 そのとたん体から力が抜けた。凛々子が出していた『体を動かす信号』が急に消滅したのだ。弛緩した体は後ろに倒れこもうとする。

 その隙を逃さず、敵は両腕のドリルを連続して打ち込んできた。敬介は両腕の剣で片方を払いのけるが、もう片方は無理だった。あまりにも勢い良く剣を動かしてしまって空を切ったのだ。

 左腕の肘部分をドリルが貫き、肉も骨も一瞬で滅茶苦茶に引き裂かれた。すべての神経と腱も断ち切られた。血液が真っ赤な煙となって吹き上がる。

 肘から先の、剣に変化した腕が吹っ飛んで、壁に突き刺さる。

「うっ……がああ!」

 悲鳴をあげた。

 どうする。激痛の中で必死に思考をめぐらした。

 すぐ前に敵。後ろは壁。ジャンプしようにも長い脚で迎撃される。左右に逃げるのが合理的だが、そのくらいは相手も読んでいるだろう。俺はまだ、この体に……フェイズ5の超絶的な運動能力に慣れていない。力を使いきれない。

 だったら……!

 敵がドリル腕でさらなる突きのラッシュをかけてくる。

 敬介は、まっしぐらに突進した。右腕はダラリと体の横に下げたままだ。

 敵の腕が右の胸板に直撃し、肉をえぐり骨を木っ端微塵にして、さらに深く深く突き刺さる。

 ドリルの回転の感触がなくなった。先端部は完全に胴体を貫通してしまったのだ。それでも突進の勢いは止まらない。長く細い腕が、根元まで胸の穴に埋まった。

 敵は、目の前。長い脚のおかげで敵は背が高く、敵の胸が敬介の顔あたりだ。

 肺に大穴を開けられて、空気中の銀粒子が流れ込む苦痛は壮絶なものだ。だが敬介は苦痛を無視、ありったけの意志力で胸の筋肉に大号令を発する。

 締めろ、ただ締めろ。

 大胸筋と背筋の強烈な収縮が、敵の腕を締め上げ、くわえ込んだ。

「なっ!?」

 敵が敬介の狙いに気付いたのか、悔しげな声を上げる。

 だがもう遅い。もがいても腕は抜けない。

 敵の素早さは封じた。リーチの長さも封じた。

「オラアッ!」

 敬介は目の前の敵の、大きく胸から突き出した昆虫の頭に向かって、渾身の頭突きをぶちかました。頭蓋骨と外骨格が激突する。

「オラアア! オラアアア! オラアアアアアア!」

 蛮声を張り上げて何度も繰り返した。何か柔らかい物が潰れる感触があった。粘液が飛び散って、目にまで滴り落ちてくる。

 見ると、敵の頭の複眼が潰れていた。まるで極小の鱗のような眼がたくさん剥がれ、内部が露わになっている。複眼の内側が白い無数の糸と粘液で構成されていることを初めて知った。糸は神経線維だろう。

 潰れた複眼の内側に、右手を突き入れる。剣の形じゃやりづらい、と思った瞬間、手が元の形を取り戻した。五本の指で握りこぶしを作って、神経線維の奥深くにねじ込んだ。複眼の奥には、糸ではなく豆腐のように柔らかい塊が、長く伸びている。なんだろう。力ずくで破壊して、さらに奥へ。

 敵はもう腕を抜くことを諦めたのか、もう片方の腕を大きく曲げ、敬介の背中に回した。後ろから突き刺すつもりだ。

 避けない。避けようがない。

 敵のドリルが背中に突き刺さった。すでに空いている大穴のせいか、もう痛みも感じない。痛みを感じる力さえ、使いきってしまったかのようだった。

 ああ、この場所は心臓だな。奴は的確に心臓を狙ってるな。そう分かった。

 ガチガチに緊張し収縮した筋肉さえもドリルは回転で引き裂き、心臓めがけて突き進む。

 おれの手と、ドリル。どちらが早いか。

 ドリルの先端が心臓に接触し、心臓が痙攣して跳ねる。今まで感じていたのとは違う種類の、冷たい激痛が敬介の体の中心で炸裂する。暴れる心臓にドリルの先端がめり込んだ。

 同時に敬介の手が、敵の体の中で激しく脈動する物体に触れた。

 ……向こうの心臓だ!

 掴んで、握りつぶす。熱い血が手の中で弾けた。頭上高く引きずり出す。

 ずるり、ぬるりと、いろいろな物が一緒に引きずり出された。

 突き上げた敬介の手は真っ赤に染まっていた。昆虫の姿をしていても血の色は赤い。手のひらの中には潰れて赤いボロ切れになった心臓と、白い、柔らかい紐が何十本も絡まったようなもの。

 脊髄だ。

 脊髄の中に、ふたつの蒼いアメーバが潜り込んでいた。

 引きずり出した脊髄を床に叩きつけ、踏みにじる。特にアメーバの部分を念入りに。

 銀も充満していることだし、まず復活はあるまい、と判断できるまで十回以上も踏んだ。

 ようやく体から力を抜く。まだ自分に腕を刺したままの敵を振りほどいた。力なく崩れ落ちる。

「ううっ……」

 ようやく痛みにうめく余裕が生まれた。

 声を発すると、胸に開いた大穴から空気がヒュウと漏れ出し、かわりに銀が入ってきて、ますます肉体組織が灼かれる。

 胸の大穴に手を当てる。治れ、傷が治れと念じる。

 じれったいほどにゆっくりと傷口が塞がりはじめる。

『ば、ばいおれんす~。男の子って野蛮だよ……』

『バカなこと言ってないで。傷はもっと早く治らないのか?』

『難しいよ。銀が体に入りすぎた。あらゆる能力が落ちてる。どこかでじっくりと銀を抜かないと』

「そんなことやってる場合か!」

 思わず叫んだ。叫んだ拍子に空気を吸い込んでしまい、喉が銀に焼かれる。

「ううっ……」

『あ、そうだ! こいつの胸を開いてみて!』

 凛々子に言われたとおり胸を開いてみたら、大きな黒いボンベが出てきた。「O2」と書かれている。

 敵は二本目のボンベを補充していたのだ。

「酸素!」

 飛びついた。どこからどうやって吸うのか考えるのももどかしい。とにかく銀に汚染されていない空気が恋しかった。指を突き刺してボンベに穴を開け、吸う。ただ一心に吸う。

「ああっ……」

 酸素が体に染み渡る。銀が少しずつ排出されていくのがわかる。頭の中に腐った泥が詰まっているような不快感が、筋肉の痙攣が、粘膜の焼けるような痛みが薄らいでいく。胸の大穴が塞がって、切断された腕が生えた。

 ボンベは空に近かった。最後の一息を肺の中に深く吸い込んで、味わいつくした。

 また息を止める。

 あと少しだ。

 次の階は凄まじい火災の跡があった。階段を覆う絨毯はすっかり黒焦げで、階全体に肉や脂の燃えた悪臭が満ち溢れている。そして、階段といい廊下といい、殲滅機関と蒼血が激しい戦闘を続けていた。

「どけっ!」

 回復した運動能力で、戦闘の頭上を飛び越え、あるいは隙間を走り抜ける。弾丸もいまの敬介をとらえることはできない。

 ついに、姉さんのいる十五階にたどりついた。

 ドアを開け放ち、暗い廊下に飛び出す。

 銃声はなかった。誰もいない。

 今までの廊下とは違って狭く、絨毯ではなく光沢を持つリノリウムが敷かれている。左右の壁には掲示板があって何かのグラフが貼り付けられている。

 もともと客室ではなく事務所として使われていた階だ。

 空気には硝煙の臭いがほとんど混ざっていなかった。つまり大規模な戦闘がなかったのだ。血の臭いも薄い。かわりに強いのは昏睡性ガスの、消毒薬に似た鼻を突く臭いだ。

 廊下は照明が消えて真っ暗だが、それだけで、死体が転がっていることはない。

 胸が期待で高鳴る。知らず知らずのうちに拳を固く握りしめてしまう。

 ……いける、これはいける。

 ……これなら、姉さんはきっと生きてる!

 廊下の曲がり角から、二人組の隊員が現れた。驚いた表情で敬介に銃を向ける。

「撃たないでください! 天野敬介です!」

 叫んだが無視して撃ってきた。発射された弾丸を軽く片手で払いのけて、一瞬で間合いを詰める。隊員の肩をつかんだ。シルバーメイルの装甲に指がめり込む。

 隊員がさらなる驚愕にこわばる。敬介はできるだけ優しい声で尋ねた。

「俺です! この階で戦闘はなかったんですね?」

「あ、ああ……この階ではほとんど闘わずに、蒼血は退却した。現在は教団員の治療に当たっている」

 ……大丈夫だ! 姉さんは無事だ!

 姉のいる部屋を目指した。

 第一広報部というプレートのある部屋にたどり着く。その部屋の前にも隊員がいて、担架で人間を部屋から運び出していた。

「どいてくれ!」

 怒鳴りつけて部屋の中に入る。

 部屋の中にはスチール机が整然と置かれていた。十数人の人々が崩れ落ちている。女性が多い。姉の言っていた漫画家たちなのだろう。 隊員達が、倒れている人々の顔に吸入マスクを当てている。

 隊員の姿などろくに眼に入らない。期待と興奮で肩を震わせながら室内を見渡した。姉さんはどこだ。

 愛美はいた。窓際の席で、スーツ姿で、座ったまま机に突っ伏している。机の上にはノートパソコンが広げられている。

「姉さん!」

 ……やっと来たよ。無事でよかった。姉さん。

 ……いま助けてあげるからね。俺がいるから。蒼血の力で治療できるから。だから姉さん。

 駆け寄って、手首を取った。


 ――つめたい。


「え」

 敬介の唇から怯えの声がこぼれた。体が硬直した。

「ねえ……さん?」

 肩に手をかけて起こした。上半身が起き上がった。頭は前方に垂れたままだった。

 べちゃり、ごぶりと、泥を踏みつけたような汚らしい音。

 なんだと思って見ると、机の上、ちょうど愛美の顔のあったところに灰色の粘液がぶちまけられていた。コップで二、三杯ぶんはあるだろうか。粘液の中に、崩れた豆腐のような固形物がいくつか混ざっている。

「ねえさんっ!?」

 ぐちゃぐちゃに濡れている姉の髪を掴んで、顔を起こして横から見た。

 愛美には額がなかった。

 眉から髪の生え際にいたるまでの頭蓋骨が砕かれて、まるごと穴になっていた。大きな穴の中は薄暗く、灰色で、ぐちゃぐちゃに攪拌された脳髄が見えた。ウエハースのような骨片もある。

 青ざめて、恐怖にこわばった表情で。


 ――絶命していた。


 即座に金切り声でわめいた。

「エルメセリオン! エルメセリオン! 姉さんを! 姉さんを早く!」

『……治療は無理だ。前頭葉が完全に破壊されている』

「だ、だ、だって! そんな!」

 敬介の口からこぼれたのは、甲高く震えた、泣き出す寸前の子供の声だった。

「なんで、なんで……ここにはいないのに! 蒼血もいない、戦闘もなかった、なのになんでっ!」

 敬介は震えながら視線を泳がせる。

 見つけてしまった。「なんで」の理由を。

 愛美の机に面した窓ガラスに、拳ほどの穴が開いている。破口は真円に近い。高速で何かが、ガラスを突き破って飛び込んできたのだ。 、

 気づきたくはなかった。だが気づいてしまった。

 グレネードだと。

 殲滅機関が大量に撃ち込んだ、昏睡ガスと銀粒子満載のグレネード。

 それが最悪の偶然で、姉の頭蓋骨を叩き潰した。

 炸薬を内蔵していない金属の塊でも、直撃すれば人間を死に至らしめることはある。

 だから。

 心臓の鼓動がさらに速まった。

 だから、これは。

「せんめつ、きかんが」

 蒼血ではなく、間違いなく殲滅機関がやったこと。

「せんめつ、きかんが……」

 まったく同じ言葉をもう一度繰り返した。自分の声なのにどこか遠くのほうから聞こえるようだった。

「おい!」

 誰かに声をかけられた。

 敬介はゆっくりと振り向く。目の前には殲滅機関隊員が立っていた。

「あ……」

 隊員がなにか喋ろうとした。彼の言葉をかき消して敬介は絶叫した。


「おまえかぁぁぁっ!!」


絶叫とともに、胸の奥、心臓のあたりで、とほうもなく熱いものが爆ぜた。

『熱さ』は瞬時に手足の隅々にまで広がり、皮膚を突き破って飛び出した。

 突起だ。いや、針だ。鮮やかな紅色の、何千本という鋭い結晶の針が体をよろったのだ。

 ビッグサイトで戦った、あの巨獣のように。

 全身の服が針に裂かれて四散する。

 『熱さ』はまだ消えない。手足の中を荒れ狂った。手足の指が伸びる。筋肉が膨張し、骨が変形しながら肥大する。五本の指は、細身の包丁を並べたような巨大な鉤爪になった。肉食恐竜のような爪でもあり、神話の怪物のようでもある。足も同じだ。

 変貌を遂げた敬介は、目の前の隊員に向かって絶叫をあげて襲い掛かる。

「あああああっ!」

 巨大な足の爪で床を抉る駆動力、両脚の筋力、背筋力に腕の力。すべての力を束ねて、右手の鉤爪に乗せる。五本の長い爪が超音速で、隊員の顔面めがけて突き込まれる。

 命中の直前、冷たい痺れの感覚が右腕の筋肉に絡みついた。

 筋肉に別の命令が割り込んでくる。

 骨格と腱がきしんだ。強引に軌道修正された。

 鉤爪は隊員の顔のすぐ脇をかすめた。フェイスシールドにヒビが入る。肩口からタックルする形になって、吹き飛ばされた隊員は机の上を転がっていった。

だが殺せなかった。

「きさまっ」

室内の隊員たちが敬介に銃を向けた。

「お前でもいいっ!」

 敬介は再び叫んで飛びかかる。発砲されたが、銃弾は敬介の胸や肩に命中してあっけなく弾き返される。

 敬介の視界の中で隊員の顔がアップになる。ゴーグルで覆われていない口元が恐怖に引き攣っている。

……そうだ、死ね!

 必殺の憎しみを込めて、今度は引き裂く形で爪を振るう。

 だがまたしても隊員の顔から外れて、肩の装甲を裂いただけだ。蹴りを放つ。同じだった。命中の直前で誰かが邪魔をする。頭を木っ端微塵にするつもりの蹴りが、胸に突き刺さって装甲を変形させた。衝撃が中の肋骨を砕いた、と確信があった。隊員は転がって椅子を薙ぎ倒し、うめきを発する。

 しかし殺せなかった。

 そればかりか、手足に冷たい痺れが満ちていく。鎖で縛られたように重い。動かせない。敬介は棒立ちになった。

「邪魔するなあっ!」

 敬介が吼えると、頭の中に、凛々子の焦った声が響く。

『だめだよ敬介くん。殺しちゃダメだ。きっと後悔する。だって一緒に戦った仲間だよ? 隊員の中で誰が撃ったかも分からないのに、無差別に……』

「うるせえッ!」

『それに敬介くんだって、機関が教団を攻撃することはわかってたよね? 当然こんなリスクだって……』

「うるせえって、いってんだよ!」

 わかっている。凛々子の言っていることはわかっている。頭では姉を喪う危険性などわかっていた。隊員たちが当然の職務を遂行したこともわかっている。敬介の怒りには一片の道理もない。

 だが、どんなにわかっていても。心が、血が、この現実を許さないのだ。

 俺が常にそばにいれば。俺がもっと早く、殴り倒してでも教団をやめさせていれば。俺があの時、ビッグサイト会場で錯乱しなければ。

 俺が、俺が、俺が……

「ああああっ!」

 またしても叫び、金縛りにあっている手足に、ありったけの意志の力を送り込む。

 隊員達は、敬介を完全に敵と認識したらしい。しゃがんで机を盾にしながら撃ってくる。グレネードを撃ってくる奴もいる。

 何百という銃弾が肩、腹、胸を叩いた。

 だが痛くない。こんなもの針状の装甲が弾く。

 グレネードが胸を直撃して爆圧を解放したが、それでも装甲は耐えた。

 そんなことよりも、何もできなかったことが痛い。

 裁判も、記憶操作も全て意味がなかった。

 全て失われた。すべて終わりだ。

 いま自分の中を荒れ狂っている激情がなんなのかわからない。

 怒りか虚しさか悲しみか。無形の感情で頭と体が内部から弾けそうだった。

 だから、だから。

「うるせえって……どけよお前らぁっ!」

 吼えて、懸命に手足を動かそうとする。殺す。殺す。こいつらを全て殺すんだ。何の意味もない愚かな逆恨みだということは分かっている。だがそれ以外、なにも考えられない。どうにかして手足の自由を。奴らの頭蓋を握り潰し、奴らの胸板を蹴り破る自由を。

「ぬあああっ……!」

 体中の筋肉という筋肉が痙攣する。わずかに、右腕の痺れが薄らいだ。指を動かしてみる。骨がきしみながらもわずかに手が開いた。

『うそっ!?』

『信じられん! フェイズ5の支配力を、人間が打ち破っただと』

 凛々子とエルメセリオンが驚きの念を発する。敬介は口元を笑みの形に歪めて、なおも手足の筋肉に意志を、激情を送りこんだ。

 もう一度右手を動かす。閉じて開いて、腕を前後に振って……動く。

 この腕は、自由を取り戻した。

『やめて!』

 凛々子の声が切なさを帯びた。

『お願いだからやめて。きっと後悔する。そんな、ぜったい、誰のためにもならない! お姉さんも喜ばない、敬介くんの気持ちも晴れない。絶対に。ボクはそれを知ってる。たくさんの戦場で、たくさんの復讐者を見たよ! でも、みんな! 誰一人幸せになんて! だからお願いだよ!』

「だまれっ……!」

 こいつを、少し黙らせれば。

 それだけのつもりだった。わずかに傷つけて集中力を奪えばいい、そうすれば他の腕も動く、としか思っていなかった。

 しかし敬介の自由な右腕は、ギリギリまで撓んだバネが復元するように、凄まじい勢いで動いた。

 胸の前の空間を薙ぎ、肩に生えている凛々子の首へと襲い掛かった。

 鋭い五連の刃が両の眼に突き刺さり、眼球も鼻もまとめて粉微塵にして深く深く突き進む。ちょうど目の高さで脳髄が上下に両断される。衝撃波で脳組織が沸騰し爆裂する。

 頭蓋骨の奥に爪が当たってようやく止まる。

 「生ぬるい泥に手首を突っ込んだ感触」を覚えたときには、もう全て終わっていた。

 体を支配する力が消えた。だが敬介はそれどころではなかった。荒れ狂っていた「熱さ」が一滴残らず消えていた。机と机の間に、そのまま尻餅をついてしまう。

 脳を完全破壊されればフェイズ5の力でも治せない。つい先ほど思い知らされたことだ。

 もう頭の中に凛々子の声は響かない。あれほどやかましかったものが全く。

 そうだ。凛々子は死んだのだ。

 殺したのは、自分だ。

 なんで? なんでこんな……?

 混乱し、震える体。思考をまとめようとした。

 でも、でも俺は姉さんを……姉さんのほうが大切で……姉さんの仇をとりたくて……こいつが邪魔したから。

 だから俺じゃない俺は悪くない。そう思考をまとめようとする。

 その時、これまで聞いた事があるなかでもっとも重苦しいエルメセリオンの声が響いた。

『……私は。私は。お前を』

 地獄の底から響く声だ。

 心臓が縮み上がり、冷水をかけられたように思考のぼやけがまとまった。

 そうだ。俺はこいつの長年の相棒を殺してしまった。俺を憎むだろう。俺に復讐するだろう。

 だが一瞬の沈黙の後、エルメセリオンは低く、小さく、こんな言葉を搾り出してきた。

『……お前を。憎まない……』

「なぜ!?」

あえぐような敬介の声に、エルメセリオンは答えた。

『凛々子が、最後まで貫いたからだ。

 彼女は約束した。けっして人間を蔑まず、苦しむ人々を救い続けると。

 そして私は言った。ならば私は力を貸すと。

 だからできないのだ、君を憎むことは。

 凛々子が最後まで救おうとしていたのは君だからだ。ここで君を憎んだら……凛々子がやろうとしたことを踏みにじることになる。できない。絶対に。彼女が約束を守ったように、私も、だから私は、彼女が救おうとした人を憎めない。みてくれ、この顔を。これを踏みにじれるわけがない』

そう言われて、敬介は凛々子の顔を覗き込んだ。

息が止まった。

「あ……」

 そこにあったのは、ただ祈りだった。

 顔面はむごたらしく破壊されていた。両眼と鼻は跡形もなく、郵便ポストの投函口ほどもある横長の穴に変わっていた。眼球と脳が砕かれて混じりあって、薄桃色の粥になって頬に流れ落ちていた。

 それでも。顔の下半分だけで十分だった。

 原型をとどめている唇、頬には真剣な祈りがあった。

 普通の人間には判別できないだろう。だが敬介にはわかった。

 その顔を、その表情を、かつて姉は浮かべていたのだから。数え切れないほど見てきたのだから。

 ただ、目の前にいる相手に幸せであって欲しい、という気持ち。

 それ以外、わずかな怒りも、恐怖も、媚びもない表情。

 蒼血に襲われる前の姉が、よく浮かべていた表情……

 痛くなかったはずがない。怖くなかったはずがない。

 だが一片の恐怖も浮かべずに、ただ凛々子は……

 首だけでも動かせば回避できたかもしれないのに。すべての力を「俺への呼びかけ」に使った。

 ここにいるのはもう一人の姉だった。

 刹那、敬介の脳裏に無数の記憶が展開された。

 凛々子と過ごし、凛々子とかわしてきた言葉の全て。

 くるくると変わる表情の全て。かわいらしく怒った顔も、ひどく傷ついて敬介を見つめる顔も……過去の記憶で見た、震災の地獄の中でも気高く戦う凛々子……凛々子の過去を知ったときの、胸の奥で痛みがうずくような羨望と感動……すべての気持ちがいっぺんに。

 そうだ、凛々子だって大切な人だったじゃないか。

 自分は何をやったのだ。もう一人の姉さんを、もう一人の大切な人を。

 おのが手で殺した。

「俺は、おれは……あああっ!」

 心の中で決定的に何かが折れた。

 敬介の全身がわななき、口から身も世もない悲鳴がほとばしる。両の眼から涙が溢れた。体を守っていた棘状装甲も強度を失い、ポテトチップを踏み砕いたように脆く崩れていく。

「あああ……ああああっ!」

 瞬時に素っ裸になって、敬介は頭を抱えてその場にうずくまった。

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