第24話「大震災の夜に」

 一九二三年九月一日 夜

 東京市神田区


 大気は生臭く、濃密で。ひどく暑かった。

 大地震の発生から八時間。破壊されつくした東京を、エルメセリオンは歩いていた。

 日本人の、青年貿易商の体を借りている。世界各地を飛び回っても不思議に思われないので便利な身分だ。三十代で、人のよさそうな丸顔にロイド眼鏡をかけて、スーツに山高帽、ステッキを突いた典型的な洋装だ。

 もう夜の八時、とうに太陽は没している筈なのに、空が明るく橙色に輝いて周囲を照らしていた。街灯は見渡す限り一本も無いのに、普通の人間でも新聞を読めるほどの明るさだった。

 太陽の沈んだ方角とは逆の、東の空が輝いているのだった。

 エルメセリオンの人類を超越した視力が、膨大な量の赤外線と大気の揺らぎを捉えていた。きっと向こうでは火災旋風が起こっているのだろう。無数の火災が一つにまとまって竜巻状になり、人間という脂の塊を喰って成長を続けているのだ。

「ん……あれは人間、か?」

 東の空を、小さなカスが舞っている。目を凝らすと、確かに手足があった。

 上昇気流で人間が飛ぶほどの火災なのだ。数世紀を生きた彼も、これはあまり見たことがない。

「すごいですね……」

 思わず感嘆の声が漏れる。笑顔を作ってしまう。

 この大異変の中でなら、今までに無かったものを見ることができるかもしれない。人間についての理解を覆す何かを。

 道路が、獣の背骨か何かのように、ぐねぐねと波打っている。道の真ん中にはレールが走っているが、その上を往くはずの路面電車は道を塞ぐようにして転覆し、黒焦げになっている。路面電車の下からは、和服を着た小さな手が伸びていた。地震の瞬間、振り落とされて下敷きになったのだ。

 そして道の左右には瓦礫しか無かった。 

 家屋は塀も残らず、ただ一面、視線の通る限り何百メートル四方にわたり、黒焦げになった柱と、砕けた瓦が出鱈目にぶち撒けられているばかりだった。

 幾人かの人々がスコップで焼け野原を掘っている。何をするでもなく瓦礫の中に座り込んでいる者もいた。筵にくるまれた遺体を大八車で運んでいる者もいた。

 彼らは全身が汗と煤まみれで、例外なく感情の枯れ果てた表情をしていた。

 そんな荒涼たる風景の中にところどころ、かろうじて形を留めた煉瓦の建物が点在しているばかりだった。


「待てッ!」


 野太い罵声が響いた。

 声のしたほうをのんびりと見やる。

 焼け野原の向こうから男達が走ってきた。

 先頭の男は、遠くから見てもわかるほど痩せこけていた。菜っ葉服(作業服)姿で、坊主頭からダラダラと血を流し、顔面を真っ赤に染めている。目玉をむき出し、口から泡を吹いて必死の形相だった。裸足で、猛烈な速度で駆けている。足の裏もズタズタに裂けているだろう。

 追っている男達は十人もいて、この時代の日本人としては大男ぞろいだ。がっしりとした体格に和装姿。頭には懐中電灯を括りつけ、手には木刀や、身長ほどもある鉄パイプを持っている。武器はいずれも使用済みらしく褐色の汚れがこびりついている。一人だけ、ズボンにワイシャツにベストという洋装の老人がいた。老人は木刀を持たない。かわりに腰には自動拳銃を帯びている。

「逃げても無駄だぞッ!」

 男たちは怒鳴りながら走っているが、和装のせいか、逃げる男ほど足が速くない。

 追いつけないまま、一団はエルメセリオンの前を通過して……

 と、追っている集団の中の一人、洋装の老人が腰から自動拳銃を抜いた。

 走りながら片手で撃つ。逃げている男の足で鮮血が弾けて、男は倒れる。

 ほう、とエルメセリオンは片眉を上げて感心した。自分も相手も走りながら撃って命中させるとは、相当な熟練者だ。

「うっ……」

 倒れた男の周りに、追っていた和服集団が集まる。

「観念しろッ!」

「俺は何もやってない! 何もやってないんだ!」

 倒れた男は涙声で抗弁するが、和服集団は容赦の色も見せずに怒鳴りつける。

「お前の仲間はちゃんと白状したぞ! 毒を撒く計画があると!」

「そ、それはお前らが拷問するから嘘を自白したんだ! とにかくちゃんと調べてくれ! 俺たち朝鮮人だって皇国の臣民なんだ、文明的な裁判を受ける権利が……帝国憲法に……」

「黙れ!」

 男たちは絶叫して哀願を断ち切った。木刀や鉄パイプを連続して振り下ろす。熟れた果物が潰れるような音が、いくつもいくつも重なった。渾身の殴打だ。一撃ごとに骨は砕け、肉は内部断裂して内出血で腫れあがったことだろう。たっぷり数十回、殴打は続いた。

「あがっ……あがっ……」

 男はもうまともな言葉を発することができない。呻きさえも押し潰すように殴打を続行しながら、和装の大男達は怒気あふれる声で喚き立てる。

「自分の立場が分かっていないようだな?」

「そう。お前達は重大犯罪、国事犯の嫌疑をかけられているんだ!」

「にも関わらず権利だと! 憲法だと!」

 男たちの中で一人、先ほど拳銃を撃った洋装の老人が、ふとエルメセリオンに目を止めた。

 歩み寄ってくる。

「失礼、騒がせてしまいましたな」

 エルメセリオンは老人を観察した。他の大男たちと違い、身長は百六十センチそこそこで、頭は禿げ上がり、顔には深い皺が刻まれている。

 だが、何気ない動作にも全く隙がなく、細い目が鋭い眼光を放っている。

 他の男達とは次元の違う鍛えられ方だ。陸軍の退役将校あたりかと見当をつけた。

「一体、これは何を? あなた方は?」

「ああ。我々は自警団です。こんな国難の只中ですから、警察力にも限りがありましょう。ワシらの身は、ワシら自身が守らねば」

 そう言って、老人は、輪になっている自警団員を指さした。

「社会主義者や朝鮮人が、毒や爆弾で皇国の転覆をもくろんでおるのです。近くに朝鮮人ばかり集まる宿舎がありましてな、踏みこんで捕らえたのですが、一人逃げられまして……」

「なるほど……」

 エルメセリオンはうなずいた。

 実際には、「国家転覆計画」などあるまい。

 「異民族が俺たちを殺すんじゃないか?」という妄想が、天災や疫病をきっかけに爆発するのは、歴史上いくらでもある話だ。欧州では、「ペストはユダヤ人の仕業」というデマによって数多くの虐殺が起こっている。

 老人はさらに歩み寄ってきた。

「ところで、貴方はどちら様で? 身分証明はありますか?」

 さて、どうするか。

 名刺は持っているが、これだけでは身分証明として弱いだろう。

 そもそも、こういった輩は確たる証拠で動いているわけではない。逆に言えば身分証明書を出そうが何をしようが、「社会主義者に違いない」と思い込めば襲い掛かってくるのだ。

 人間はいつだって、そんな生き物だ。遠い昔から何も変わらない。

 やはり、ここでも新しいものは何も見ることができなかった。

 ここまで思ったところで、エルメセリオンの思考は遮られた。


「やめてください!」


 少女の、鮮烈な叫びによって。

 見ると、かぎ裂きだらけ、泥だらけの女学生袴を履いた少女が走ってくる。大きな目とふっくらした頬が目立つ愛らしい顔立ちだ。リボンで結んだ二本のお下げを激しく揺らし、突進してきた。彼女もやはり手には木刀を持っている。

 少女は自警団がつくる輪のそばまで駆けて来て、持っていた木刀を地面に突き立て、再び叫んだ。

「やめてください!」

 細身の娘だ、声量そのものは自警団員に及ばない。だが少女の声には有無を言わさぬ気迫があった。自警団員はみな一瞬、金縛りになった。

 ただ一人、老人だけが驚きもせずに言い放つ。

「誰だ、キサマは? ワシらにたてつく気か? 『主義者』か?」

 老人は自動拳銃を手にしたままだ。眼光の鋭さも殺人的な程だ。

 しかし少女は些かの怯えもなく、薄い胸を張って答えた。

「ボクは凛々子! 氷上凛々子です! 氷上道場の娘の! 父さんは昔、あなたと手合わせしたこともあります!」

「ひかみ……? 道場? ああ」

 老人が無表情を崩し、憐れみの笑みを浮かべてうなずく。

「話には聞いた。一家揃って失くすとは気の毒だったな。辛いのはわかるが、気を確かに持て。とち狂うとなると同情できん」

「ボクは狂ってなんかいません。おかしいのは、あなた達です! この人たちが爆弾とか毒を持ってたの? 国家転覆の証拠はあるの? なんで、なんの証拠もないのにこんなことをするんですか?」

「たわけ。ワシは警官から聞いた。新聞記者や軍人から聞いた者もおる」

「ただの噂話でしょう!?」

「今は非常時なのだ。この現実が見えぬのか。今、悠長に証拠だと裁判だの、やっている余裕はない。わずかでも嫌疑があるなら、皇国のため、ひいては臣民のため、敵を討つことをためらってはならんのだ! 迷っているうちに爆弾を使われたらどうする?」

「そのときは、ボクを捕まえて裁いてください。責任取ります。だからやめて下さい!」

「できん、と言ったらどうするね」

 老人が問うと、凛々子は無言で木刀をすっと持ち上げ、中段の構えをとった。

「腕づくでも、解放してもらいます。その人も」

「その人『も』だと?」

「ええ。あなたたちが拷問していた人達、みんなボクが解放しました。あとはその人だけです」

 老人の表情から笑みが消える。

「ほう……どれほどの大罪を犯したか理解できんようだな?」

 自動拳銃を持った腕を上げようとする。

「団長、銃などやめてください、娘相手に、帝国軍人の名折れです。我々だけで十分です」

 自警団員がそう言って、輪形を解いて散開する。アルファベットのVの形に列を作る。凛々子を挟み撃ちにできる隊形だ。武器は同じ木刀だが、自警団員は見上げるような体格で、腕の太さは倍もある。

「やっ!」

 凛々子は躊躇もせず、十人の自警団がつくる「V」に真正面から飛び込んだ。

 木刀が振り下ろされる。

 だが凛々子はその時にはもう跳んでいた。

 襲い来る幾本もの木刀をかわし、伸びきった腕を足場にしてさらに跳躍する。

 頭の上に飛び乗って、木刀を男の肩口に叩き込む。

 エルメセリオンには鎖骨の砕ける音がはっきり聞こえた。

 くぐもった声をあげて男の体が崩れる。

 他の自警団員が力任せに木刀を振って凛々子を狙うが、軽々とよけて別人の肩の上に飛び乗った。

 また木刀を振って顔面の真ん中に強打を叩き込み、背後からの一撃すら回避してまた鎖骨を折る。

 実力差は圧倒的だ。

 凛々子は鼻や鎖骨など、女の腕力でも破壊できる人体の急所だけを狙っている。しかし喉は突かない。殺すまいという考えがあるのだろう。四方八方からの攻撃をかわしながらそれだけの余裕があるのだ。

 凛々子はたちまち十人を叩きのめした。全員が顔を苦悶にゆがめてうずくまり、戦闘不能だ。

 倒れている作業服姿の男に駆け寄った。

 もともとは菜っ葉色だった作業服が真っ赤だ。そして顔面は青黒く変色して、餡パンのように膨れ上がっている。頬骨や顎の骨が砕けたのだろう、顔の下半分が右に捩れるように変形している。半開きになった口から、ナメクジの化物のような舌がはみ出している。胸は、服の上からでもわかるほど陥没していた。肋骨が何本も砕かれているのだ。

 その傍らにしゃがみこんだ凛々子は、はっと目を見張り、その男の口元に手を当て、手首を取った。うつむく。そのほっそりとした肩が震え始めた。木刀を握ったままの手も震えている。

 勢いよく立ち上がった。

「死んでる……もう死んでるじゃないかッ!」

 もはや凛々子は丁寧語すら使おうとしない。叫ぶと同時に、大きな瞳の縁から涙が溢れ出した。

 老人は悪びれもせずに肩をすくめる。

「おや、そうかね。加減を知らん連中だ。単調な責めでは尋問にならんと教えたのだがなあ」

「なんだ……なんだよ……その口ぶりは! 死んだ! 人が死んだんだよ! あんた達が……あんた達が……なにか悪いことをやったのか、証拠もなかったのにッ!」

「そうさね、死んだ。だからどうしたのだ。今日、帝都では何万人もがあの世に行った。それが一人増えただけだ。ワシらが罪に問われることはない。非常時だ、戦場と同じだ。誰もが納得してくれる。防衛のために犠牲は仕方なかったと」

 老人は口元を歪めた。心の底から楽しそうな、愉悦の笑みだった。

 凛々子は何かに気付いたように目を見張る。一歩後ずさる。

「なんだよ……ふざけるな……」

 凛々子は木刀で老人を指差した。

「ボクはあんたを『正義感で暴走してる』んだと思ってた。やり方は間違っていても、国を、みんなを守りたいんだと……悪人じゃないんだと……

 でも違う! 違うんだ! あんたは……人を殴ったり殺したりするのが楽しいんじゃないか? 『殺しても良い理由』が欲しいんじゃないか? そんなんで……」

「違うな、小娘。『ワシが』ではない。人間はみんな、殺し合いをやりたいのだ。普段は隠しているだけだ。ワシは日清日露の戦役で様々なものを見た。清国兵、ロシア兵、日本兵……みな御立派な道徳を学んでいるのに、過酷な場所にいけば本性を露わにする。今は恐怖が帝都を覆っておる。常識も、倫理も剥がれ落ちている。すべては仕方ない。ワシはただ人間であるだけだ。みな、一皮剥けば同じだ」

 大地を踏み抜く勢いで一歩だけ飛び出し、凛々子は言葉を叩きつけた。

「違う……『人間』を勝手に決めるな! 父さんは! 門下生を守るために柱を支えて、下敷きになったよ! 兄ちゃんは、炎の中に飛び込んで、ボクを助けてくれたんだ。普段から言ってたよ。弱い者を守れる奴になれ。男も女もない。悪を見過ごすな、義を捨てない人間になれ……! 修羅場でこそ、仁や義を忘れるなって……言ったとおりのことを、実行して死んでいったよ!

 だからボクは、『仕方ない』って言わない。

 一皮剥けば同じでも! その一皮を絶対に、絶対に脱がない!」

「そうかね、物好きもいたものだ。それでどうする? お前が助けたかった男はもうおらん。いまさら何の意味があるのだね?」

 凛々子は息を吸い込み、背筋を伸ばし、木刀を中段に構えなおした。しかし腕全体が震えている。感情をまったく抑えることができていない。

「お前と戦う。お前を許さない。人間を馬鹿にするお前を。軽々しく人を殺して、悪いとも思わないお前を。そして兄ちゃんや父さんのように、優しくて、勇気があって、卑怯なことは絶対しないで……そんな生き方をして……人を助けるんだ! ぜったいに曲げない! ずっと! ずっとだ!」

 凛々子が言い終わるや否や、老人の片手が勢い良く跳ね上がる。

 二つの銃声が同時に轟いた。

 凛々子の頭の両脇を弾丸が駆け、お下げを二本とも切断した。

 ハラリと髪がほどけて落ちていく。

「あっ……」

「吠える吠える。だが何もできん」

 銃口から薄く煙をひく拳銃を、凛々子の額に向ける。

 凛々子が大きく震え出す。潤んでいた瞳から、また涙が溢れる。

「うっ……うっ……」

「怖いか。いまさら泣いてもどうにもならんよ。ワシはお前の言うような、役にも立たぬ書生論が大嫌いでなァ」

 だがエルメセリオンには分かった。凛々子は、怖いから泣いているのではない。

「くそぅ……ちから……さえ……あればっ……」

 自分の無力さに歯噛みして泣いているのだ。

 老人はもう嘲笑の言葉すら発さず、発砲した。

 銃弾が凛々子を絶命させることはなかった。

 エルメセリオンが超高速移動で両者の間に割り込み、銃弾を二本の指で摘んで止めたからである。

 落ちた飴玉でも拾うように無造作に。

 金属同士が擦れ合うような音を立てて、銃弾が回転を止めた。

「なっ……!?」

 老人が、凛々子が、驚愕に目を見張る。

 エルメセリオンは銃弾を放り投げ、凛々子に笑顔を向けた。

「きみ! 興味深い! 実に興味深い! きみのような人間は初めて見た。人間は、いざ修羅場となれば『仕方ない』と言って倫理を捨てるものばかりだった。弱い者を殺し、家族を捨てて逃げて、あとで言い訳する者ばかりだった。

 君は違うのだな? いま口にしたばかりの正義を、どこまでも、いつまでも貫くというのだな? 

 力さえあれば?」

「ま、待てっ……キサマ……」

 老人が、理解不可能の事態に怯えの表情を浮かべながらも、エルメセリオンに拳銃を向ける。

「黙っていてください。大事な話をしているんです」

 エルメセリオンは片手で軽々と拳銃を奪い、そのまま握りつぶした。手の中で、鋼の塊がチョコレートのように歪む。薬莢が炸裂して煙を噴出する。指の隙間から部品が吹っ飛んだ。手のひらを開くと傷一つない。

「ひぃ!?」

 あれほど豪胆に見えた老人が悲鳴をあげて飛びのいた。

「さあ、どうなのだ? 見ての通り、私には人間を超えた力がある。そして君の事をもっと観察したい。

 これからも貫くと、他の人間のようにならないと誓ってくれるなら、この力を貸そう。君が信念を実行するところを見たい」

 凛々子は大きな目をますます見開いて、エルメセリオンと、恐怖に震える老人を交互に見た。

 だがほんの数秒で覚悟を固めた表情になり、エルメセリオンを至近距離から見つめた。

「貫く。絶対に。ボクは、今言ったことを守る」

「本当にいいのだな? 善行を積んだところで感謝されるとも限らない。誰かをかえって不幸にすることもあるだろう。弱者が常に善とも限らない」

「そんなこと分かってる。でも、それでも。ボクは……」

「よろしい、ならば契約だ。私の名は『千界の漂泊者』エルメセリオン。君の戦いを見届けよう。君が約束を守る限り、君の力となろう」

 エルメセリオンは凛々子の首筋に手を伸ばした。その掌に、牙の並ぶ口が開いた。

 そのまま首筋に噛み付いた。エルメセリオン本体が凛々子の体に潜りこんだ。

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