第9話「ビッグサイト騒乱」

 12月30日昼 東京都江東区・東京ビッグサイト


 敬介と凛々子が水族館で魚やクラゲに目を輝かせていたころ、愛美は東京のシーサイド、有明の東京ビッグサイトにいた。

 十年ぶりにコミケ会場を訪れていた。

 愛美はかつてアニメを観るのが好きだった。マンガを描くのが好きだった。

 中学生の時に入った美術部が熱烈なアニメファンの集まりだったことがきっかけだった。

 中学卒業の頃には友達と一緒にアニメパロディの同人誌を作っていた。高校や大学に進むに連れて趣味はますます濃く、同人誌は立派な体裁になっていった。プロのクリエイターになるつもりはなかったが、同好の士と一緒にオタク趣味の世界を漂うのが何よりも楽しかった。ずっとこんな日々が続けばいいと思っていた。まだ幼い弟の敬介にアニメのLDを見せて少しずつ洗脳しつつあった。美少年キャラのコスプレをさせて会場で見せびらかすんだ、などと夢見ていた。


 生活に不自由がなかった、遠い昔の話だ。


 ……1997年の暮れ、両親が亡くなって、幸福な日々が終わった。

 彼女が一家の大黒柱になった。大学をやめて働いた。派遣社員の給料だけでは足りずに土日にはアルバイトを入れた。眠い目をこすり、自分の頬を叩いて活を入れながら働いた。それでも収入は両親の稼いでいた額には遠く及ばなかった。弟と二人で、木造瓦葺の老朽化したアパートに転居した。趣味を続けられるはずもなかった。観ているだけで辛くなるので、同人誌もアニメLDもすべて処分した。それでも電車に乗って、車内の人間がマンガの単行本を読んでいるのを見かけるだけで胸が締め付けられた。

 ああいう贅沢な世界はもう自分には関係ないんだと、自分に言い聞かせた。できるだけ仕事を入れて忙しくして、何も考えないようにして、ただ自分は弟を養うために生きているんだと、家族を支えるために動く機械でいいんだと、そう自分を納得させた。もちろん弟の前では笑顔の仮面を被り続けた。

 それから十年の間にいろいろあって。

 変質者に襲われて働けない体になったり、生活資金の援助を受けてなんとか生きてこれたり。敬介が就職してくれて、やっと金銭の余裕ができたり。

 だが暇になっても、敬介がたくさん給料をもらって貧乏から解放されても、オタク趣味を再開しなかった。

 敬介に申し訳ないから。

 敬介は仕事の内容を詳しく話してくれないが、高い給料からしてよほど過酷な仕事なのだろう。そんな仕事に身を投じて、自分の趣味など一切持たずに、驚くほど安物の服を着て……まだ十九歳なのに、自分の全てを姉のために捧げて。

 それなのに自分だけ、家でのんびりくつろいで趣味の世界に浸るなど、できるわけがない。

 だが昨日、驚くべき光景を目にした。

 敬介が可愛らしい女の子とじゃれあっていた。

 敬介は照れていたが、勘で分かる。あれは相思相愛だ。

 やっと自分の楽しみを、自分の幸せを見つけてくれた。

 だったら、自分も戻ってみようか?

 十年も封印してきた気持ちが沸き起こってきた。今朝、デートに出かける敬介を見送った。そわそわしつつも楽しそうな敬介の様子を見ているうちに、いてもたってもいられなくなった。

 ネットで調べてみたら、ちょうど今日が冬コミケの最終日だった。そして、十年前に仲良くつきあっていたサークルが、今でも参加していることが分かった。

 自分は身体が不自由じゃないか、あんな人ごみに耐えられないよ、と何度も自制を考えたが、気がついたら電車に乗って都心を目指していた。

 不安もあったが、会場が近づくにつれて期待が不安を圧倒した。

 ……だいじょうぶ。ちゃんと調べた。いまの会場は身体障害者の来場にも対応してる。

 ゆっくり歩けばいいし、お昼過ぎに行けば、長く並ばないでもスムーズに入れる。

 その通りだった。りんかい線のホームから地上に上がってわずか十五分そこそこで、会場内に入ることができた。

 サークルのカタログはもう売っていなかったので、ネットのページをプリントアウトしたものを持って進んで、会場に入った。

 東京ビッグサイトと呼ばれる巨大な逆ピラミッド型構造物の奥にある、会場は。

 エネルギーの坩堝だった。無数の人と、そして美少女のイラストに満ち溢れた空間だった。

 コンクリートの柱が何十本も立ち並ぶ、四角い箱状の会場だ。横に百メートル、縦には三百メートルは軽くあるだろうか、しかも天井を見上げればボールを投げても届かないほどに高い。そんな広大な空間に、机が縦に数十、横に数十と並んでいる。

 机の列には売り子がずらりと座って、色も形も様々な本を売っていた。

「新刊くださいっ」

 勢いこんで若い女性が売り子に話しかける。

「新刊はコレですが……うちの本けっこうモロな描写あるけど大丈夫ですか?」

「気にしません」

 若い女性は笑顔で答えて、同じ本を三冊も買っていった。

 歩きながら眺めると、やはり同人誌の印象は十年前から変わっていない。

 表紙がカラーの薄い本で、表紙はたいがい女の子。変わったのは女の子の服装くらいだ。昔はメイドなんてものは流行っていなかった。

 列の間を人が歩き回って、ときどき立ち止まっては本を手にとって読んでいた。売る側も美少女イラストの看板を立て、あるいはスケッチブックを開いていた。看板が宙でふらふら動いているものもあった。よく見ると長い列ができていて、列の最後尾がその看板を持っているのだ。その看板の目の前を通り過ぎた。看板には目のくりくりと大きな絵柄でメイド姿の娘が描かれ、娘は「ここが最後尾ですっ」と叫んでいた。最後尾のさらに後に次から次へと人が並んで行き、看板が手渡されていく。

 そういう売れっ子サークルがあったかと思えば、机の上にコピーで作った小冊子を数冊だけ置いて、なんの宣伝もしていない売る気ゼロのサークルもあった。そのサークルの机には地味目の格好の女の子がふたり座って、マグカップを傾けながら楽しそうにアニメの話をしていた。

 みんな幸福そうだった。売れているサークルもそうでないサークルも、そして買いに来た人も。

 見ているだけで心が温かくなってくる。

 ……そうだ、自分はずっとここに帰ってきたかった。帰っていい、もう帰っていいんだ。

 そう思うと心が浮き立った。杖を突きながらゆっくりとしか歩けないことがもどかしい。もっと早くと自分に叱咤しながら、目当てのサークルを目指した。

 と、その時。目の前を大きな列が遮った。男性向けというか、ロリを強調しているサークルらしく、列の最後尾プラカードは全裸の幼女が股間を隠して恥ずかしがっている姿。並んでいる客達はやや老けた男性客ばかりで、手に提げている紙袋はことごとく美少女イラスト入りだ。

 温かい気持ちが少しだけしぼんだ。

 こんな通行の妨げになるような列の作り方、マナー悪いなあ、と思った。

 でも、どうやってどいてもらおう? 自分はゆっくりとしか喋れないから、通じないかも知れないし。

 一瞬の逡巡のうちに、愛美のとなりを歩いていた若い男性が、同じことを思ったらしく列の連中を怒鳴りつけた。

「おい! これじゃ邪魔だろう、列どけてくれよ。常識考えてくれよ」

 だがロリコンサークルの列に並ぶ中年男性たちは動かない。白髪交じりの頭をさも不快そうに掻きむしり、苦々しい顔を青年に向けて、毒づいた。

「あ? 何が常識だ。おれたちゃ晴海のガメラ館の時代から並んでるんだ。ガキが勝手に常識とか作ってんじゃない」

 青年も即座に反発する。

「何年やってようが偉くもなんともないだろ。お前らみたいな奴がいるからコミケが誤解されんだよ」

 次の瞬間、ロリコンサークルに並ぶ男たちの顔が怒りと屈辱にひきつった。即座に彼らは列から飛び出し、青年に殴りかかった。

「なっ……?」

 青年は吹っ飛んだ。少年漫画風のイラストを展示している机に激突し、机を薙ぎ倒した。同人誌とスケッチブックが宙を舞う。その机に向かっていた人たちが怒気もあらわに立ち上がった。その両脇のサークルの人たちも立ち上がった。彼らはみな若い男で、ロリコンサークルに並んでいる男達より小奇麗な格好をしている。

「てめーっ!」「なにやってんだよっ!」

 最初に暴力を振るった中年男に、いっせいに飛びかかった。パンチが男の顔面をとらえて鼻血が噴き出す。たちまち引きずり倒される。

「いてっ……おまえっ……いでぇっ……」

 数人の男に取り囲まれて、もう中年男の姿は見えない。ごすっごすっと低い殴打の音と、涙声だけが聞こえた。

「やめっ……いやっ……やめっ……」

 悲鳴が途切れ、蛙の合唱にも似た嘔吐の音。

「きたねっ! 俺のジャケットが! いくらしたと思ってんだよ!」「くせえんだよ! てめえは!」

 怒声がさらに膨れ上がる。と、ロリコンサークルに並んでいた中年たちが加勢した。中年男を取り囲んだ人たちをさらに取り囲み、蹴飛ばした。

 ……え? なにが起こってるの?

 愛美は驚愕に震えた。まるで信じられない。

 コミケで暴力事件が起こることなど十年前の常識では絶対になかった。最大級の犯罪といえばスカートの中を隠し撮りする類で、みんな平和的だったのだ。

 だが確かに目の前で暴力事件が起こり、反撃が繰り返されている。

「いでぇっ! こいつ! こいつナイフを!」

 ロリコンサークル側の中年男が頬を押さえて絶叫していた。頬に当てた手の下から止め処もなく鮮血が流れ落ちていた。

「おうっ! 悪いかブタ!」

 彼を斬りつけたのは若い男だ。手には大きなカッターナイフを握っている。同人誌の梱包を解くためにナイフを持ち歩くのは、サークル参加する人間にとっては常識的なことだ。

 刃物沙汰になって、さらに暴力は拡大した。周辺の机に向かっている売り子たちが次々に立ち上がり、拳を振り上げて殴りあいに加わった。吹き飛ばされた人間が激突して、一つまた一つと机が倒れた。

 愛美は何もできなかった。殺気立った人並みが左右を高速で通過していくのに怯え、ただ杖を握りしめていることしか。

 真っ白だった頭の中に、やっと一つの考えが浮かんだ。

 これがテレビで取り上げられたら。コミケのイメージは絶望的に悪くなる。もう開催できなくなるかも。

 だから叫んだ。

「やっ……」

 声が出ない。やめろと言いたかったのに。

「やあっ……」

 やはり声帯がでたらめに震えて、しわがれた小さな声が出ただけだ。

 押し合いへし合い、数十人規模で殴りあう人々に、愛美の声はなんの影響も与えられなかった。

 もう一度試そう。

 口を開いたその時、吹き飛ばされた男の背中が迫ってくる。よけられなかった。将棋倒しになって倒れた。痛い。後頭部を打って、頭が割れるように痛い。吐き気がこみ上げた。たくさんの男達が怒りに歯をむき出しにして、愛美の上を走った。仰向けに倒れている愛美のことなど気にもせず、身体を踏みつけて男達が進んだ。パキリと胸のあたりで音がした。全身を悪寒と激痛が貫いた。胸を踏まれて肋骨が折れたのだ。

 涙がにじんだ。なんで。どうして。どうして。

「てめーっ!」「おおーっ!」

 訳の分からない叫びが何十人分もいっぺんに押し寄せてきていた。誰も混乱から逃げようとせず、むしろ乱闘に参加しようと押し寄せていた。信じ難いことに女の声も混ざっていた。

「ひっ……ひっ……」

「邪魔だっ!」

 顔面に、重量のある一撃。歯が砕けるごりっという重い音。走る群衆の一人が、愛美の顔を蹴飛ばしたのだ。勢いよく身体が転がって、なにか鋭いものが後頭部にぶつかった。倒れた椅子の足だろうか。

 鼻が痛くて、熱かった。それ以上に熱いものがとめどもなく溢れてきた。鼻血だろう。いっぽう頭の後ろからは、冷たいものが流れ出ていくのがわかった。これも血だろう。後頭部を切ったのだろう。不思議なことに頭の怪我は大して痛くなかった。ただ怪我のまわりに冷たい感覚が広がった。首筋の辺りにまで冷たさが広がった。

 意識がぼやけてきた。

 視界もぼやけている。

 眼鏡が飛んでしまったのだろう。自分の体の上を通り過ぎていく人々の顔も分からない。ただ茶色や黒の大きな塊に手足が生えて動き回っているような。塊たちの動きはますます激しくなっていた。ぐちゃぐちゃに茶色と黒と灰色の混じった濁流が頭の上を通過していた。数え切れないほどの罵声が怒鳴り声が、そして悲鳴が聞こえた。

 これはもう、ただの暴力事件ではない。暴動というのだ。

 薄れていく意識の中で、愛美はただ怯えて、当惑していた。

 ……どうして? どうして?

 ……コミケは平和的で暖かい場所だったのに。絶対にこんな事件が起こるわけなかったのに。

 自分がいなかった十年の間に、この暖かい場所はどうなってしまったんだろう。

 そのとき一つの叫びが、無数の怒号と悲鳴を貫いた。

「みなさん、お静かに!」

 若い女の声だった。冷たく硬質な澄んだ声だった。声の大きさそのものは、決して怒鳴り声ではなかったはずなのに、なぜかたくさんの怒鳴り声に紛れずに、すべての騒音を圧倒し、貫いて聞こえた。まるで『存在の根元的な質』が違うとでもいうかのように、その声は際立っていた。

 ついで、歌が聞こえた。同じ女性の声だろう。なんて綺麗な声だと、愛美は感動に震えた。

 ハミングからはじまり、愛美のまるで知らない言語でつむがれる歌。しだいに激しく情熱的になっていく。愛美が聴いたことのあるどんな音楽とも似ても似つかないメロディだ。歌詞の意味が一つもわからないだけに、歌のようにも、異教の聖句のようにも聞こえた。愛美が知っている中でいちばん似ているのは讃美歌だ。

 その歌声が大きくなってくる。近づいてくるのだ。歌声が強さを増していくと、反対に人々の怒号と悲鳴が弱まっていった。

 みんな聞き入っているのだ。愛美はそう思った。そうだろう、自分だって、こんなにも気持ちがうっとりして、怪我の痛みも忘れそうなのに。

 すぐそばに歌声の主が近づいた。きっとわずかに二、三メートル。目を凝らした。

 なんと、頭上に人間が浮かんでいた。間違いなく空中に立っている。

 近眼のせいでぼやけてよく顔が見えない。だが黒っぽい服を着ていること、髪を長く伸ばしていることはわかった。

 歌声の主が、ちょうどその位置で立ち止まった。

 歌をとめ、言葉を投げかけてきた。

「皆さん、静まってくださいましたね。ありがとうございます。わたくしは今から、みなさんの傷を癒します。まずは、そこの貴女」

 そう言って彼女は飛び降りた。すばやい動作で、愛美の前に膝を突き、覆いかぶさった。

「え……」

 愛美が驚いていると、もっと驚くべき行動に出た。

 唇を重ねてきたのだ。

 病気のせいで恥ずかしくも荒れてしまった愛美の唇に、恐ろしいほど柔らかい唇が触れる。

「うぐっ……」

 唇を強引に割って、舌を入れてきた。蕩けるように熱く柔らかい舌が、唇の間から滑り込んでくる。意志をもつ独立した生物のように口の中を動き回り、喉の奥へと侵入した。

 愛美の全身に温かさが満ち溢れた。

 冬の日に凍える思いをして、やっとたどりついた家の布団にもぐりこめたような。激痛と緊張でこわばっていた筋肉が脱力していく。気持ちがよかった。このまま眠り込んでしまいそうだった。

 熱い舌がルートを逆戻りして口の中に上がってくる。唇を通して、口の中から出て行った。

 女性が身体を離した。

「さあ、貴女は癒されました。救われました。身体を動かしてごらんなさい」

 そう言われても。と思いながら手足を動かし、驚愕する。

 まったく痛みがない。それどころか素早く力強く動く。

 こんなに軽々と四肢が動いたのは、もう遠い昔の話だ。

 床に着いた愛美の手は、力強く身体を持ち上げた。起き上がった。肋骨が折れる音が確かに聞こえたのに胸の痛みもない。

「え……?」

 自分の顔をさわってみる。鼻血が止まっていた。そればかりか、へし折られたはずの前歯が元に戻っている。

 頭の中が「ありえない!」という思いで一杯になった。

 だが治っている。奇跡。これはまるで奇跡。

 他の部分はどうだろう、と思って、立ち上がった。

 今度こそ心臓が止まる思いだった。尻をついた状態から、杖もなしに立ててしまった。

 まさか。まさか。まさか。

 胸の鼓動が高鳴る。片足をバレエ選手のように上げてみた。すっと抵抗なく上がる。身体がバランスを失うこともない。そのまま片足でジャンプしてみる。できた。できるわけがないのに。

 ズボンの上から太腿に手を当てた。筋肉が衰弱し腱が破損し、鶏がらのようにやせ細っていたはずの足が、普通の女性の太腿になっていた。

「うそ……こんな。こんなのって! 治ってる! 治ってる!」

 思わず歓喜の声が漏れた。その声をきいていよいよ驚いた。ここ数年聞きなれた、抑揚もない、たどたどしい自分の喋りではない。ちゃんと舌が廻っている。これが本来の自分の声。

 言語機能まで含めて、あの五年前の日に失われたものが、健康な肉体がすべて帰ってきた。

「いかがですか」

 そう問われて、目の前に立つ女性をまじまじと見つめた。

 あ、と息を呑んだ。

 眼鏡は無くしたままなのにしっかりと見える。どんな奇跡なのか、子供の時からの近眼すら矯正されてしまった。

 こうやってみると、女性はまだ十代の美少女だった。ただ身長百七十センチはある長身で、大人びた顔立ちであるだけだ。切れ長の目とよく通った鼻筋。生身の人間らしさが薄い、つめたい、絶世の美貌の持ち主だ。髪も艶やかな漆黒のロングヘアで、照明を浴びて微妙に虹色に輝きながら背中へと伸びている。身体全体を黒いロングコートで包んでいる。長い黒髪、恐ろしく整った顔の造作、漆黒のコート……この三つが相まって、厳かな雰囲気を生み出している。

「あの……あのっ。信じられません。ありがとうございますっ、ありがとうっ……いったい、あなたは、何者なんですかっ!?」

 愛美の問いには答えず、ただ漆黒のコートの少女は周囲を見渡した。演説でもはじめるかのように、長い腕をすっと左右に広げた。

「みなさん。他の方の傷ついた身体も癒します」

 おおっ、と声が上がった。

「ただし。わたしがいうことに従ってください。

 けっして憎みあわないこと。

 自分を傷つけた相手のことも、自分を罵った相手のことも、けっして憎んだり、仕返しを考えてはなりません。なぜならみなさんが今やったことは、この愚かな暴力行為は、みなさんの責任ではないからです。みなさんの中の弱い心がやったことだからです。みなさんは弱い心の奴隷であったに過ぎないからです。

 だから憎まないでください、許しあってください。

 みなさんの中で、どうしても憎しみを捨てられない方はいますか? どうしても殴り合いを続けたいなら、今この場で申し出てください」

 愛美はまわりの人々を見た。

 誰ひとり怒りなど表していなかった。

 彼らのこわばった顔面には怯えと当惑だけが浮かんでいた。青ざめた顔をして、小刻みに身体を震わせている女性までいた。握りしめた自分の血まみれの拳を、さも不思議そうにみつめている若い男性がいた。なんで人を殴ってしまったのかまったく理解できないのだろう。

 数秒が経った。誰も声を上げない。殴らせろと自己主張しない。

 黒コートの少女はうっすらと笑みをうかべてうなずいた。

「そう、それでいいのです。ならば癒します。まずはどなたから?」

 今度はすぐに、群集のあちこちで声があがった。

「俺! 俺です! 腕を折られたんです早く見てくださいッ」

「そんなことより彼女を! ぐったりして動かないんですよ!」

「子供の血が止まらないんです!」

 四方八方から叫びが殺到した。少女は軽く手を上げて、

「お待ちなさい。まずはこの子供です」

 そう言って、近くの机の下から六、七歳の男の子供を引きずり出した。

 誰も気付かなかったが、そんなところに子供が倒れていたのだ。集団に踏みつけにされた結果か、子供の手足はへし折られておかしな方向に捻じ曲がり、ヒューヒューと奇妙な音を出して息をして、顔は土気色だ。いますぐ救急車を呼ぶべき容態に見えた。

 少女は子供を抱きかかえてキスをした。わずか数秒間、子供の身体がわなないた。魔法でも見ているかのように手足の損傷が元に戻り、死人のようだった顔色も回復する。子供がつぶらな瞳をあけて、

「あれ?」と首をかしげる。

 群集のあちこちからまた声が上がった。

 少女は子供をそっと立たせ、群集の中に分け入っていった。

 中で何が起こっているのか、愛美からは見えない。だが次々に歓喜の声が上がる。若者の、中年の声が。

「お姉ちゃん、ありがとう!」

「ありがとうございます、ありがとうございますっ……」

「こっちです。こっちにも来て下さい!」

 少女は果てしなくキスを繰り返し、怪我人を癒し続けているのだ。

 愛美の胸の中に感動が広がっていった。

 すごい。この人、本当にすごい。

 治療を何百回繰り返したろうか。

 少女は不意に、ふわりと浮かび上がって、また空中に立った。

 空中を歩きながら、人々を見渡して両腕を広げる。

「さあ、みなさん。みなさんの傷はすべて癒されました。約束を守ってくださって、ほんとうに感謝しています。

 でも、わたしはただ、傷を癒すためだけに来たのではないのです。

 さきほどから何度も問いかけられました。あなたは何者なのかと」

 そこで言葉を切り、立ち止まる。愛美を含め、何千とも知れない人々の視線が集中する。

「……わたしは嵩宮繭(たかみやまゆ)。

 わたしは、神の使いです」

 神の使い。突拍子もない言葉だ。

 だが愛美は驚かなかった。自分の身体がキスひとつで劇的に回復したのだ。医者が匙をなげた会話機能の障害までも。これが奇蹟でなくてなんだ。奇蹟を振りまく者を神と呼んで何が悪いのか。

 他の者もそう思ったらしく、疑いの声をあげるものはいなかった。

 黒衣の美少女……繭は、強い口調で話し続ける。

「みなさんを救うためにきました。正確には、ほんのわずか前、みなさんが暴動を起こしたその瞬間、わたしは神の使いとして目覚めたのです。

 この者達を救えと、メッセージを受け取ったのです。救うための力と共に。

 みなさんの中から弱い心を一掃するためです。

 みなさん、自分の胸に手を当ててよく考えてください。暴力事件を起こしたくてこの場所に来たのでしょうか。自分と意見の違う者を殴ってやりたいでしょうか。いいえ、けっしてそんなことはないはずです。みなさんは、いまの日本にいる中で最良の人々です。誰も傷つけず、ただ美しい物語の世界で遊ぶことだけを求める人たち。そして自制心にあふれた礼儀正しい人たち。

 それでも事件は起こってしまった。こんなにも拡大してしまった。

 なぜでしょう?

 それは人間の中に弱い心があるからです。嫉妬や怒りに我を忘れ、理性も優しさも失ってしまう心があるからです。人が人であるかぎり治せない病気です。

 でもわたしならば、みなさんの弱い心を取り除くことができます。わたしとともに来て、長い時間をかけて少しずつ心を作り変えていくのです。毒を出して、心を鍛えなおすのです。必ずできます。

 わたしとともに、来て下さい」

 そこでまた言葉を切る。

 群集はざわめき始めた。愛美の目には、あちこちで顔を見合わせている人々が見える。

 戸惑っているのだ。何をすればいいのかと。

 人々を見おろしながら繭はまた喋り始めた。片手を振り上げる大仰な動作も忘れない。

「簡単なことです。わたしとともに国をつくりましょう。神によって導かれる国です。この日本の上に覆いかぶさる、もうひとつの社会です。すべての人が性別も貧富も超えて、この国のもとに繋がります」

 愛美の傍らに立つ青年が小声で漏らした。

「宗教団体を……つくろうっていうのか?」

 繭はその言葉を聞き逃さなかった。

 立ち止まる。振り上げた腕を振り下ろして、その青年を鋭く指さす。

「そう、人間世界の言葉を使って言うならば、宗教団体ということになります。

 しかし、ただの宗教ではありません。

 世界で唯一つ、本当の神が率いる、本当に人を救える宗教なのです。

 さあ、来て下さい。今までの生活を捨てることになるかもしれません。

 しかし、それがどうだというのです。

 わたしとともにくれば、弱い心はなくなります。もう二度とこんな事件を起こすことはありません。もう他人に嫉妬も、蔑みも、怒りすら抱くことがなくなるのです。

 平穏で温かい心だけを、終生いだいて生きていけるのです。

 考えてもください。そんな温かい国が広がって、世界を多い尽くす事を。

 争いも妬みもない世界、傷つく人もいない世界を、わたしなら創れます。

 わたしと共に来ませんか。

 神の王国の建設は、決して容易なことではありません。参加する者は大変な抵抗を受けることでしょう。家族や友人さえもが敵に回るかもしれません。暴力で弾圧されることもあり得ます。長く苦難に満ちた闘いになるでしょう。

 けれど。わたしは皆さんを信じています。みなさんの魂を信じています。

 みなさんはただ、マンガやアニメが好きだというだけでこの地に集まった。一文の利益も求めず、社会の冷たい眼差しをものともせずに全国から集まった。

 皆さんこそ、愛のために生きる人々です。

 未熟で愚かな現世人類の中で、最良の人々なのです。

 そんなあなたたちならばきっと計画に加わってくれると信じています」

 人々は棒立ちで静まりかえっていた。

 人々の上に繭の言葉がふりそそぎ、心に染み透っていった。

 暴動という異常事態で揺さぶられ、治癒の奇蹟によって常識を剥ぎとられた、裸の心に。

 一人の男が手を挙げた。上ずった声で叫ぶ。

「わたしは参加します!」

 その一言がきっかけだった。

「わたしも! 俺も!」

「私も入れてください!」

 人々が次から次へと叫んで手を挙げる。

 愛美のすぐ隣でも、つい先程殴りあっていた二人の若者が涙声で叫んでいた。

「俺たちも行きます! いいよなっ!?」

「ああ!」

 愛美の後ろからも次々に声が上がった。

「俺も!」

「私も!」

 強い熱をはらんだ、期待と喜びの声だ。

 たちまち何千本とも知れない腕の林が生まれて周囲を囲んだ。小柄な愛美の視界をすっかり塞いでしまった。繭の姿は、振り上げられた腕の向こうに隠れてしまった。

 熱狂は愛美にも伝染していた。先程の涙が乾く間もなく、また熱い涙が溢れ出した。 

 わたしも。わたしも参加しないと。

 素晴らしい奇蹟を世界に広められるなんて。

 愛美も手を挙げようとして、一瞬だけためらった。

 先ほどの繭の言葉が胸をよぎったのだ。胸をチクリと刺したのだ。

 ……家族を敵に回して、家族を切り捨てて戦うこともあり得ます。

 敬介のことがどうでもよくなったわけではない。まだ赤ん坊のころからずっと敬介を見て、同じ屋根の下で過ごしてきた。この世で唯一の肉親、かわいい弟だ。

 そんな敬介がもし反対したら。宗教に顔をしかめる者が多いことぐらい知っている。

 敬介が、あの生真面目な顔を悲しみに歪めてやめてくれよと懇願してきたら。わたしはどうすればいいんだろう。

 ためらいは一瞬だけだった。ハアッと深呼吸して背筋を伸ばし、片手を勢いよく挙げた。

 もう覚悟は決まっていた。

 反対したら説得すればいい。引き込めばいい。それだけのこと。いまのわたしには力がある。いくらでも喋れる。体だって動く。なにより、頭の天辺から爪先まで、嬉しい! 頑張りたい! という気持ちに溢れている。

 だからきっと敬介だって説得できる。二人で肩を並べて、王国建設の手伝いができたらどんなに幸せだろう。そうだ、あのかわいい彼女にも、神の王国の話をしよう。

 もう、心の中に一切の迷いはなかった。

 決意をこめて、片腕をすっと上げた。

 数千本の腕の林を越えて、繭の声が降ってきた。

「ありがとう、ありがとうございます、皆さん。人類の最良の部分よ。いま目覚めた子供たちよ。永遠に感謝します。

 どこまでも行きましょう。この悪しき世界を幸福で満たす、その日まで!」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る