第28話「凛々子、孤軍奮闘」

 ほぼ同時刻

 「繭の会」本部ビル 広報部長私室


 凛々子は布団を敷いて、寝巻き姿になって、部屋の明かりを消して寝ていた。いつものように、寝ている間の体の制御はエルメセリオンに任せて、本人は眠りの中にいる。

 グレネードの発射音で、一瞬のうちに覚醒した。

 部屋の中は闇だった。

 目を開いた瞬間、超感覚を総動員して周囲の状況を把握する。

 このビルに向けて多数の大型ヘリコプターが接近していることもわかった。

 強力な電磁パルスで周囲の電子機器が破壊され、送電も停止したことも把握する。

『今だ、凛々子!』

 頭の中に響くエルメセリオンの声。

 いわれるまでもなかった。殲滅機関による攻撃が始まった。今こそ、ヤークフィースがつけた監視役の支配を脱する時。

 体を起こし、寝巻きの前を勢い良くはだける。圧倒的な量感と弾力を持つたわわな乳房が飛び出した。この胸の奥に監視役が潜んでいる。だから抉り出す。乳房を鷲掴みにした。指先が乳房の細胞組織と融合し、潜り込んでいく。

『無駄だ!』『無駄ですよ!』

 脳裏に二つの声が響いた。監視役の声だ。同時に極寒の塊が胸の中で炸裂する。液体ヘリウムを血管に流し込まれたかのように「冷たさ」が広がっていく。胸が、腕が、痺れて動かない。脊髄にまで極寒が侵入する両足の先まで到達した。

 瞬く間に体の制御を奪われた。いま凛々子が動かせるのは首から上だけだ。

 乳房の先端にそれぞれ一つずつ、デフォルメされた顔が生まれた。男の顔と女の顔だ。二人と醜い嘲笑を浮かべている。

『この程度のことで我々が動揺すると思ったか!?』『有り得ませんね、ヤークフィース様は必ず勝つのだから! この身体は渡しませんよ!』

 凛々子の意志を無視して身体が立ち上がった。寝巻きのまま、それどころか露になった乳房すら隠さずにドアを開けて廊下に飛び出す。

 廊下はすべての照明が消えて真っ暗闇だった。あちこちのドアが開いて、驚愕と不安の表情を浮かべる信者たちが出てくる。

「広報部長!」「いったい何が!?」「お導きください!」

 信者たちが口々に救いを求める。だが足が勝手に動き、信者を無視して走った。

 走りながら、廊下に並ぶ窓に拳を叩き込んで、次々に割っていく。廊下の端から端まで、何十枚もの窓が木っ端微塵になった。

 何をやっているのか? 一瞬だけ凛々子は疑問に思った。

 疑問はすぐに解けた。窓の外でヒューンと甲高い発射音が弾けて、グレネードが次々に飛び込んできたのだ。グレネードは壁や天井に激突して突き刺さり、ガスを噴出。

 消火器でも使ったかのように白い煙があふれ出す。窓の外へも広がっていった。すぐに目や鼻に激痛が突き刺さった。涙がにじむ。喉も、口の中も、カラシを塗りこまれたように熱く痛い。呼吸が苦しい。咳き込んだ。ますます痛みが強くなる。筋肉が痙攣をはじめる。

「うえっ……」「うっ……」

 信者達がうめいて、即座に廊下に昏倒する。

 いつも通りの、昏睡ガスとシルバースモークの組み合わせだろう。

 なんのために窓を割ったのかは理解できた。窓から煙を逃がすつもりなのだ。

 ……でも、この程度じゃ大して減らないよ?

 疑問の答えはすぐに与えられた。凛々子の体は飛び上がって天井に取り付き、怪力で天井の板を引き剥がした。天井の裏から、何か円筒形のものが転がり落ちてくる。

 枕ほどの黒いガスボンベだ。O2という白い文字が描かれている。

 凛々子の手が動いて、むきだしの胸に押し当てられた。二つの乳房の真ん中に、手がズブリと沈み込む。手が肋骨を掴んだ。凄まじい力が加えられる。痛覚が遮断され、血流が制御される。

 力任せに、観音開きに、肋骨を開いた。

 ぽっかりと口を開けた肺の中に、ボンベを突っ込んでまた胸を閉じる。瞬時に骨が繋がり、肉が再生してボンベを包み込んだ。

 ボンベから気体が流れ出して肺を満たす。ハッカ飴を舐めたような心地よい清涼感が広がって、痛みと熱さをすぐに追い払った。

「なんだこれ……酸素?」

 目を見張る凛々子に、監視役二体は勝ち誇った声で答える。

「その通りさ。銀対策を考えていないと思ったか? 要は空気を持ち歩けばよいのだ」

 そして凛々子の体は駆け出した。廊下に折れ重なっている信徒を避けようともせずに平然と踏みつけて、階段をすさまじい速度で登っていく。

 その時、ビルの下の方から超音波で呼びかけてきた。普通の信徒には聞こえないが、もちろん凛々子には聞こえる。

『われらが眷属よ! わたしはヤークフィース。殲滅機関の攻撃が始まりました。しかし恐れることはありません。取り乱してはなりません。わたしは奴等を撃退する術を持っています。奴等の装甲服も、銃も恐れるに足りません。

 『神なき国の神』として断言します。わたしは勝利をもたらすと。奴等は必ず、尻尾を巻いて逃げ帰ると!

 だから、今しばらく踏みとどまってください。信徒を守るために戦ってください。

 上位眷属の指示に従って冷静に撃退してください。わたしはすぐに参戦します。それまでは我が腹心、ライネルとリッケルに指揮権を与えます』

 凛々子の両の乳房にあるデフォルメされた顔が、歓喜の声で叫んだ。

「ありがとうございますヤークフィースさま! ライネルは感激しております!」

「このリッケル、必ず信頼に応えます!」

 そのとき、階段途中のドアが蹴り破られた。銃声が轟いて、階段を掃射される。シルバーメイルを装着した殲滅機関隊員が数人、ミニミ・ライト・マシンガンを撃ちながら降りてきた。

 凛々子の体は素早く跳躍し、階段から飛び降りて銃撃をかわした。一階下の階段の裏に貼りつく。

 足音と銃声がすぐさま下に追いかけてくる。開け放たれたドアの向こうから白いシルバースモークが流れてきた。すさまじい銃声も聞こえる。銃声の数は十、二十……もっと多い。少なくとも何十人がすでに侵入して、激しい戦闘を繰り広げている最中だ。人間の悲鳴がまったく聞こえないところを見ると、殲滅機関側の圧倒的優勢のようだ。

 だが、凛々子の体に巣食う二体は全く怯まなかった。

 ただちに昆虫形態に移行した。全身の筋肉が移動し、骨格が融解する。手足が細長く伸びる。皮膚が黒光りする外骨格に変化する。節を持つ長い手足は蟷螂か蜘蛛のようだ。最後に、乳房が外骨格に覆われ、巨大な複眼を持つ昆虫の顔に変わった。

 四本の細長い手足、二つの頭をもつ異形の昆虫だ。

 いまや人間の形を保っているのは凛々子の頭部だけだ。

「ハアッ!!」

 自分の掴まっている場所のすぐ上まで隊員が降りてきた瞬間、奇声を発して飛び上がる。その速度は変貌前を遥かに上回る。

 隊員たちはすぐさま銃口を向けるが、至近距離から浴びせられる銃弾を巧みに体をひねってかわし、隊員たちの間、足元に体を沈めた。隊員たちが散開しようと動く。だがそれより早く、隊員の一人の片足にタックルをかけて引きずり倒して、強靭な顎で脚に噛み付き、装甲服込みで二百キロを超える隊員を軽々と振り回す。

 隊員の身体が巨大な矛となって旋回する。他の隊員たちが足を薙ぎ払われて倒れる。よろめく。銃を持っていられなくなって空中に銃が飛ぶ。凛々子の身体はその隙をつき、床を這って高速移動、針のように鋭く尖った手足をシルバーメイルの顔面に突き立てた。突き立った瞬間、手足の先端が高速回転を始めて防弾ガラスを貫通した。そのまま頭に突き刺さった。四本の手足が四人の顔に、同時に。

 一瞬で引き抜いて、体をどかした。

「きさまっ……!」

 階段の下に転がって攻撃を逃れた隊員が怒声を上げて、拾った銃を凛々子に向ける。

 だが、たったいま頭を貫通された隊員がすばやく立ち上がる。その体で銃弾を受け止めた。

「おま……?」

 当惑する隊員。声が途切れた。もう一人起き上がって彼を羽交い絞めにする。

「よくできました、ふふっ」

 リッケルとライネルが冷笑し、彼のフェイスシールドに腕を打ち込む。また回転する杭が彼の額に潜り込んだ。恐怖と驚愕に青ざめていた彼が、弛緩しきった恍惚の表情になる。

 頭に杭を打たれた全員が、同じ表情だった。

「あんた……こいつらを洗脳して!?」

 凛々子はうめいた。ほんの一瞬で、蒼血の断片を送り込んだわけでもないのに下僕に変えるとは、エルメセリオンにもできない離れ業だ。

「ちょっと脳の回路を繋ぎ変えただけです。私たち二人はね、戦闘能力ではゾルダルートの『魔軍』に及ばないかもしれない。でも……心を操る力は誰にも負ける気はしないんですよ!

 さあ、行け! この階の人間を殺しつくせ!」

 命令された隊員達は、散らばった銃を拾って階段を駆け上がっていく。ドアを蹴り破って廊下に消えた。連続した銃声。怒声と悲鳴が飛び交う。仲間に銃撃されて混乱を来たしている。

「愚かですね、全く、人間は!」

「ああ。たかが数人洗脳しただけでこの始末。ヤークフィース様の言われるとおりだ」

 凛々子は言い返さなかった。それどころではなかった。

 この二体の「肉体を掌握する能力」を完全にあなどっていた。尋常の手段で体を取り戻すことはできない。

 ……あれしか、ないか……

 上の階の銃撃が止んだ。凛々子の身体が階段を上がって、廊下に飛び出す。

 シルバーメイルを着込んだ隊員たちが大勢倒れている。白い信徒服をまとい、顔が鱗に覆われた者達が銃をもって立っている。倒れて動かない隊員たちを足蹴にして、あるいは顔面に銃弾を撃ちこんでいる。彼らは凛々子が現れるや否や歓声を上げた。

「リッケル様! 我らに指示を!」

「この階は制圧いたしました!」

「ライネル様たちのおかげです!」

「現在、階段経由の攻撃を食い止めています! 我々が優勢です!」

 わきあがった歓声を、凛々子の体は片手を挙げて制した。胸部分にくっついた昆虫の顔が、甲高い声を発する。

「喜ぶのは禁物です。この程度で奴らが退くはずがない。もっと体勢を立て直してまた来ます」

 まさに言った瞬間、廊下にずらりと並んだ窓から一つずつ、つまり同時に何十発ものグレネードが叩き込まれた。今回はスモークではない、普通の榴弾だ。壁や天井に当たったグレネードが爆音をあげて破片をまき散らす。とっさに蒼血たちは伏せるが、間に合わずに体中を破片に食い破られた蒼血もいた。

「迎撃なさい! すぐに来ますよ!」

 リッケルが甲高い声で指示を発する。

 指示は間に合わなかった。蒼血たちが伏せた状態から立ち上がるよりも早く、窓から一斉に何十人もの隊員が飛び込んできた。彼らの背後にはロープが下がっている。タイミングを正確に合わせて上階から降下してきたのだ。着地と同時に、手にしたミニミ・ライト・マシンガンを容赦なく掃射。複数のミニミで一体の蒼血を挟んで、左右から銃弾を叩きつける。床に伏せている蒼血たちは避ける術もなく肉体を粉砕されていく。

 凛々子の体が素早く動いた。転がっている隊員の屍を蹴り上げ、銃弾がその隊員の屍をめった撃ちにしているわずかな隙に、手近なドアを突き破って室内に飛び込んだ。

 室内は、信徒が泊り込む部屋だった。天井につかえる寸前の巨大な三段ベッドが部屋を占領している。ベッドの上には白い修行服の男女が転がって失神していた。ガスが効いている。

 時間稼ぎにもならなかった。即座にドアが銃撃で吹っ飛んだ。コンクリートの壁も耐え切れず、腕が通るほどの穴が開いた。とっさにうつぶせに倒れ込んだ凛々子の背中を、数百の銃弾がかすめて荒れ狂う。室内のすべての空間を舐め尽すような徹底掃射だ。ベッドが鉄屑になった。ベッド上の人間も殺戮された。血が煙のように噴出して白いシーツを染めあげる。

「あっ……!」

 凛々子の唇から苦しみのうめきが漏れる。いくら人の死を見ても慣れることはない。助けられないことが辛い。うめいた瞬間、凛々子自身の頭に、背中に銃弾が突き刺さる。頑丈な頭蓋骨と背中の外骨格が銃弾を弾き返すが、それでも痛みに筋肉が痙攣して息が止まる。一発だけでなく、何発も食らった。一ダースの削岩機にめった刺しにされている気分だ。頭の上を、じっさいに命中する何十倍の弾丸が通過していく。

 ……起き上がれない……!

 この圧倒的な火力密度からして、起きて一歩も歩かないうちに眼球や関節など、弱い部分を撃ち抜かれるだろう。

 だが、怯んでなどいられない。肉体と精神の苦痛を押し殺して、頭の中で言葉を発する。

『ねえ、ボクに体を貸してよ。ほんの五分でいいんだ。この状況を打開して見せるよ』

 しかしライネルとリッケルは冷淡だった。まるで耳を貸さない。

『誰が貸すものですか』

『逃げる気だろ、その手に乗るかバカ』

『そんなつもりないって。ほんの少し貸してくれるだけでいいんだよ。だって、このままじゃ死んじゃうでしょ?』

『俺たちをなめるなよ?』

『この程度の状況、想定済みですよ』

『何度も使える手じゃないから、あんまりやりたくなかったんだがな!』

 またも頭の中で冷笑的な声で弾ける。身体が勝手に動いた。まず深く深呼吸して、酸素ボンベ内の酸素を思い切り吸い込んだ。瞬間的に仰向けになって胸骨を開き、中からボンベを取り出す。

 部屋の外、廊下に向かって投げ出した。すぐにボンベは銃弾に貫かれ……

 次の瞬間、鮮やかなオレンジの炎が廊下に広がった。難燃素材のはずの絨毯が、藁束のように火の粉を散らして燃えあがる。

 驚愕したのか、隊員が跳びのく姿が見えた。炎の広がる勢いは凄まじい。何十倍の早回しで見ているようだ。廊下を覆いつくし、凛々子のいる室内にも侵入してくる。大量に転がっている屍を包んだ。屍に燃え移った。服がたちまち灰になる。大量の水分を含んでいるはずの人体さえも、枯れ木のように炎を噴き上げた。

 何が起こったのかはわかった。

 ボンベの酸素がばら撒かれて、物が極めて燃えやすくなっているのだ。薬莢の熱だけで引火したのだろう。

 さらに、重い轟音をあげて爆発が起こった。

 とっさに眼をつぶったが、瞼をつらぬいて真っ白い閃光が眼球を灼いた。高熱と衝撃波が全身を叩いた。

 眼を開いてみると炎が激化していた。膝ほどの高さだった炎が、いまや人間の頭まで。室内の空間という空間にオレンジの炎が充満している。炎だけではない。空中でパチパチと、線香花火のように小さな火花が散っている。

 空気に混じった「銀の微粒子」が燃えたんだ、と直感した。金属は粉末化すれば燃えるようになる。ひとたび燃えると木材などとは比較にならない高熱を発する。

 隊員たちが銃を窓の外に投げ捨てるのが見えた。だが投げ捨てるのが遅かった隊員もいた。彼のミニミに取り付けられていた弾薬箱が爆発する。この炎熱地獄では銃は使えないのだ。

 もちろん凛々子の体も高熱でダメージを受けていた。首から下の装甲は熱を防いでいたが、顔面の感覚がほとんどない。火ぶくれだらけになっているはずだ。眼球も鼻の中も口の中も、焼けた鉄釘を打ち込まれたような激痛を発している。呼吸を止めるにも限度がある。肺の中の酸素が切れたら、あるいは装甲の隙間から熱が浸透してきたら、終わりだ。すでに血液温度が上がりすぎなのか、頭がぼうっとする。

 タイムリミットは三十秒。

 三十秒ほどで血液が沸騰して酸素を運べなくなる。筋肉も眼球も茹で卵のように硬くなって何の役にも立たなくなる。

 だがリッケルとライネルは自信があるようだった。体を操って立ち上がらせる。その動きは素早く、衰弱を感じさせなかった。

 廊下に飛び出す。廊下は部屋の中以上の灼熱地獄で、天井近くまで炎が渦巻いていた。転がっている屍はすべて服が燃え尽き、むき出しの肉も真っ黒に炭化している。

 シルバーメイルはこの熱に耐えられるらしく、まだ多数の隊員が立っていた。銃を失っても闘志は健在で、一斉に凛々子へと襲い掛かってくる。

『勝てると思いましたか!』

『人間風情が!』

 頭の中でライネルとリッケルが嘲る。

 隊員たちの動きは、高フェイズの蒼血にとってはあまりに遅すぎた。凛々子の体は隊員のパンチをかわし、長い足で足払いをかける。隊員はバランスを崩した。もう片方の足が超高速で跳ね上がって、倒れこむ隊員の顔面に激突した。フェイスシールドが破壊される。

「ぐあああ!」

 数百度におよぶ灼熱の空気を顔に浴びせられ、隊員は絶叫した。

 反対方向から飛び掛ってきた隊員を、手首の関節をつかんでひねったまま投げ飛ばした。二百キロを超える自らの重量のせいで手首の関節は装甲ごと完全に破壊された。彼は悲鳴すらあげることができなかった。即座に凛々子の脚がフェイスシールドを踏み砕き、鋭く尖った爪が顔の骨を砕いて脳深くまでぶち抜いたからだ。

 投げられることを警戒したのか、三人目の隊員は凛々子の脚めがけて低いタックルを仕掛けてきた。これも一瞬で顔面を蹴り砕く。その間に四人目が後ろに回りこんで羽交い絞めにしたが、人間の関節では有り得ない形に腕が曲がって、羽交い絞めにしている隊員の顔を襲った。腕の先端がドリル状に回転、フェイスプレートもろとも顔の真ん中を貫く。肉と骨が粉砕され、噴き出した血液が瞬く間に沸騰する。

そのまま脚の内側の空洞を通して、頭蓋骨の中身を吸い上げた。

 ずうう。ずうう。ぶじゅるるる。

 脳漿と血液と、粉砕されて柔らかくなった脳が体の中に吸収されていく。体の温度が少しだけ下がる。

 まだ生き残っていた隊員達は、フェイスシールド越しにはっきりわかるほど狼狽の表情を浮かべ、後ずさりする。銃を捨てたままいっぺんに走って逃げ出した。

部屋を飛び出してから、わずか五秒。

 ……うわあ……勝っちゃったよ……

 凛々子は凄まじい戦いぶりに驚きながらも、焦りを感じていた。

 もっと苦戦してほしかったのだ。あるいは戦っているうちに酸素が切れて苦しむとか。苦しめば苦しむほど、体を支配する力が弱まる。凛々子がこの体を奪回できる可能性が生まれる。

 ……もう手はない?

 ……いいや、まだだ。きっと……

 殲滅機関が諦めるとは思えない。この階で銃が使用不能だと言うなら、他の階、いや、他の建物を使う。

 窓の外に眼をやった瞬間、数百メートル離れた空に溶け込んでいる墓石のようなビルの一角で、ごくわずかな閃光が走った。

 まさに予想通りだった。他のビルから狙撃してきた。凛々子の動体視力は自分の頭に向かってまっしぐらに進んでくる弾丸を捉えた。大きい。普通のライフル弾の二倍、いや三倍はある、タバスコ瓶のように巨大な弾丸だ。 南アフリカには口径二十ミリ、装甲車をも撃破できるライフルがあるが、あれだろうか。それとも航空機関砲の類だろうか。極端な大口径を使ったのは蒼血の生命力を恐れたか。

『こんなもの!』

 頭の中でリッケルが笑う。体を凄まじい速度で倒す。上半身が弾丸の進路から外れた。回避できる。

 しかし、凛々子が首の筋肉の力を振り絞って頭を振った。その反動で、倒れていた上半身が浮き上がる。脚が地面から離れる。

『なにを!?』

 凛々子のやろうとしていることを理解したらしく、ライネルたちは手足を振って逆方向の反動を作ろうとする。だが頭は重く、手足よりも大きな反動を生み出す。間に合わない。

 弾丸を使って、自分の首を斬る!

 弾道と凛々子の首の位置がピタリと一致する。頚骨の継ぎ目に乾電池ほどの極太弾丸が突き刺さった。圧倒的な運動エネルギーが解放される。筋肉が爆裂し神経束が切断された。

 この一瞬だけ、神経信号が全く届かなくなった。待ち望んでいた一瞬。

 頚骨が内側から爆ぜる激痛をこらえて、凛々子はわずかに残った首の筋肉と骨に変形を命ずる。胴体との連結を断ち、筋肉を思い切り伸ばす。首が胴体から離れて宙を舞った。次は頭蓋骨に命じて弾性を細かく変化させる。頭だけになった凛々子が天井にぶつかって跳ね、壁にぶつかってまた跳ね返る。そのたびに軌道を細かく修正する。

 狙い通り、窓から飛び出した。 

 猛火の中から一転、摂氏零度に近い薄闇の中に放り出された。火照った肌が冷たい空気にさらされた。心地いい。

 空気を切り裂いて、上下逆さまになって落ちていく。

 脳への酸素供給が止まるまで数秒。その間にできるだけ周囲を把握しようと眼球をめぐらせた。動体視力と形態認識能力を最大に高める。

 闇の中から、無数の銃撃・砲撃が火線となって吹き上がっていた。

 この教団本部ビルは、百人を超える部隊に包囲されていた。チヌークがざっと二十機ばかり、駐車場や周囲の交差点に着陸している。シルバーメイルを着込んだ隊員たちが、あるいはオートマチックグレネードランチャーを路面に据え付け、あるいは無反動砲をかついで、ビルを見上げている。大型の狙撃銃を持っている隊員もいた。そして散発的にビルの中に砲弾を、グレネードを撃ち込んでいる。窓から逃げ出す蒼血がいたら撃って、内部の隊員を援護しているのだ。凛々子の視力は隊員ひとりひとりの、フェイスシールドの向こうの表情までとらえることができた。

 ……どこに落ちるのがいい?

 ……どこが一番、安全に生き残れる?

 凛々子は下に落ちて、誰か隊員の体を借りるつもりだった。もし拒否され、問答無用で撃ってくるようなら強引にでも体を乗っ取る。そのためにはどこに落ちればいい? もう意識が朦朧としてきた。装甲服を突破して体を乗っ取る時間が残されているだろうか? でも、やらなければ。

 その時、発見した。

 路上に展開して無反動砲をぶっ放している隊員の後ろ、ツツジの植え込みの中に、誰かが隠れている。シルバーメイルを着ていない。背広姿でうつぶせになっている。

 あれは敬介だ。眉間に皺をつくり、歯を喰いしばって何かの苦痛に耐えている。

 姉を助けに来たのだろう。隊員達の隙をついてここまでビルに接近したが、これ以上は無理なのだ。

 彼なら!

 凛々子は首の筋肉をヒレ状に展開させた。ミサイルの尾部についているフィンと同じ働きで、ヒレの角度を微調整して進路を変える。真下に一直線だった進路を敬介のもとへと。

 火線の一本が凛々子へと襲いかかった。ヒレによる軌道変更だけでは避けきれない。額に受けた。激痛が弾けて視界が揺らいだ。

 まだだ、気を失っちゃダメだ。あと少し……

 ヒレをバタつかせて、銃撃でブレた軌道を強引に元に戻す。

 すでに高度は半分、十数メートルになっている。隊員達たちの顔が、触れられるほどに近く見える。

 敬介の隠れるツツジの茂みが、視界一杯に大きくなった。ごん、と鈍い衝撃が脳全体を揺らす。意識が途切れた。

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