第13話「お前は実に人間的だ」

 数秒前 同じビッグサイト会場内


「姉さん!? 姉さんッ!? 姉さんがなんでこんなところにッ!?」

 敬介は完全にパニックに陥っていた。

 もうすぐ巨獣を倒せそうなところで、足に女がすがりついてきたのだ。顔を涙でくしゃくしゃにして言うのだ。

 姉の顔で、言うのだ。

「かみさまを……いじめないでっ……」

 ショックのあまり、その場に尻餅をついた。

 頭の中は無数の思考の断片がデタラメに飛び回っていた。

 そんな馬鹿な。なんでここに姉さんが。姉さんはこいつらに洗脳されたのか。どうすればもとに戻せる。ここで戦ったら姉さんも被害が。ああ。ああ。あああ!

 戦闘中には思考の最適化が必須だ。いま考えるべきことを冷静に判断し、考えても仕方ないことは決して考えない。マインド・セットせよ。そう叩き込まれてきた。だが教わったことを全て忘れてしまっていた。

 頭では分かっている。姉をどうするかは後で考えることだ。いまは目の前の敵を倒すことだ。分かっている。わかっているんだ。

 だが頭ではなく、胸の奥で熱く脈打つものが、冷静になることを決して許してくれない。

 姉が。あの姉が、俺に嫌悪を……憎しみの表情で……

「あ、あ、ああっ……」

 がたがた震えながら、意味不明なうわごとを口走ることしかできなかった。

「作戦中だよっ!」

 凛々子の言葉が耳に飛び込んできた。その言葉をきっかけに混乱した意識がひとつにまとまった。

 そうだ、とにかく今は!

 深呼吸して、目を巨獣に再び向ける。立ち上がろうと脚に力をこめる。

 遅かった。何もかも遅かった。

 自分が混乱している間に巨獣は他の隊員たちを振りほどいていた。そして走った。地面に座り込む自分のすぐそばを駆け抜けて、凛々子へと飛びかかった。

 ごりゅっ。

 凄まじい音がした。敬介はその音を聞いたことがあった。太い骨が……首が折れるときの音だ。

 おそるおそる振り向いた敬介は見た。倒れた凛々子の上にのしかかった巨獣。巨獣はゆっくりと起き上がり、こちらを向く。その口には、凛々子の生首がくわえられている。黒い大きな吊り目は濁って、まったく生命の光がない。

「あっ……」

 たったいま凛々子は死んだんだ。そう思った。人類に味方する唯一の蒼血、殲滅機関の秘密兵器だったはずのエルメセリオンも、死んだのだ。

 自分のせいで。

『撤退だ、撤退! エルメセリオン喪失! 全部隊撤退!』

 無線を通じて誰かの声がした。サキ隊長ではない。誰か男の声だった。投入された八個小隊全体の指揮官だろう。

 あとのことはよく憶えていなかった。呆けていたらサキ隊長に殴り倒され、引きずられて会場を後にした。巨獣は追いかけてこなかった。

 チヌークに飛び乗った。ターボシャフトエンジンの轟音が聞こえてきて機体が浮き上がった。

 敬介はずっと椅子に座ったままうつむいていた。

「天野、メットくらい脱げ」

 サキ隊長に言われ、ようやく顔をあげる。

「うあ……?」

 顔の周りを触ってみる。自分だけヘルメットやゴーグル類を着けたままだった。

 外して、また下を向いた。

 目を合わせたくなかった。隊長と。他の隊員達と。自分のせいで、作戦が失敗したのに。自分のせいで、多くの隊員の死が全て無駄になったのに。エルメセリオンが……凛々子が死んだのも俺のせいなのに。

 どうして顔を合わせられる。

 姉に憎まれたことと、この大失敗のおかげで、心の中の柱が、自信の中核とでも言うべきものが粉々になってしまっていた。

 何も考えられない。これからどうしようとか、姉をどうやって元に戻そうとか、自分はどんな処罰を受けるのか、という考えすら、頭の中でまとまらない。

 ただ、怖い、怖い。みんなの顔を見るのが怖い。自分が嫌だ。自分の無能が、自分の弱さが。考えたくない。何も。

「何をいじけているんだ、天野!」

 サキ隊長にどなりつけられ、顎に手をかけてむりやり顔を上に向けられた。

 隣に座るサキ隊長が、鋭い目に剣呑極まりない光を宿して敬介を見ていた。心臓をわしづかみにされた気分で、身体がすくんだ。

「なあ、お前はなんだ?」

「……は?」

「お前は何者だ、と訊いている」

「殲滅機関の……隊員です。戦闘局員です」

「そうだ。戦闘局員の仕事は、膝を抱えていじけることなのか?」

「でも……だって……しかし……」

 震える声が唇から漏れた。自分が最低の行動を取っていることはわかっていた。失敗した人間がこんな惨めな言い訳ばかりしていたら、殴られて当然だ。だがサキ隊長はもう殴らなかった。問い詰めることもない。ただ黙って敬介を見つめた。

 敬介が「だって……」をやめると、はじめてサキは口を開いた。

「私は、過去を罵ることに意味はないと考えている。たとえ三十分前のことであっても、それは過去だ。現在どうやって状況に対応するか、未来をどうやって勝ち取るか、という問題に比べれば過去は些細なことだ。

 罪を問われないわけではない。戦闘中パニックに陥り作戦を瓦解させた。処罰の理由としては十分だ。お前が引き受けるべき当然の責任だ。

 だが死刑になるとは考えづらい。

 お前にはまだ未来がある。ならば未来のことを考えろ」

「みらい……?」

「そうだ。今度戦うことになったらどうするかと。この程度の敗北でくじける我々だと思うか? エルメセリオンが失われても、戦う方法はいくらだってあるんだ。情報部との連携も重要だ。あそこに集まった一万五千人が社会に広がっていくんだ。どれほど忙しくなると思う? そう、我々の仕事はまだこれからなんだよ」

 サキはそこで言葉を切って、はにかんだ。

「ピンときていない顔だな。そう、最後に一つだけ。首藤曹長の話は覚えているな?」

「はい。もちろん」

 凛々子とのデートの前日……遠い昔のように思えるが、つまり昨日だ! サキ隊長から聞いた、かつて殲滅機関日本支部最強と呼ばれた戦闘局員、首藤剛曹長。数々の武勲を挙げた戦闘マシーンは、突然自殺したという。

「お前はある意味、首藤を超えたといえる」

「え?」

「首藤は完璧な機械になろうとした。なり切れずに『壊れた』。だがお前は首藤と違って決定的な失敗と敗北と味わった。今のお前の姿は実に人間的だ。戦闘機械になるという道は、もう閉ざされてしまった。

 逆にいえば、お前が首藤曹長と同じ轍を踏むことは決してない。

 期待している。『人間』であるお前に」

 なぜだか、その言葉に胸を打たれた。

 自分の犯した大罪は決して覆らないのに、なぜだか胸の重荷が軽くなる。

 顔を上げて、恐る恐るゆっくりと、機内を見渡してみる。

 何人かの隊員の顔が見えた。もちろん敬介に向ける視線は冷たく、友愛のかけらも感じさせない。とくに後列に座るリー軍曹は、細い目に殺気すら宿して敬介を睨んできた。

 気付いた。リー軍曹がかわいがっていた隊員がいない。生きて帰れなかったのだ。

 ……憎まれて当然だ……

 目をそらさず受け止めた。卑屈になって縮こまっても意味がない。これは自分が受けなければいけない当然の仕打ちで、いまから信頼を回復させていけばいいのだ。そう前向きに思うことができた。

 敬介のことはもういいと判断したのか、サキが小さくうなずいて立ち上がる。

「みんなも聞いてくれ。今の言葉は天野一人のために言ったのではない。

 天野を特別扱いする意志は毛頭ない。

 君達、いや殲滅機関全体に対する言葉だ。

 我々は巨大な敗北を味わった。

 彼らは外に出るだろう。そして宗教を作るだろう。

 我々が彼らをもっとも効果的に潰せる瞬間は、もう過ぎ去った。永遠に失われてしまった。

 これからは後手後手にまわって効率の悪い戦いだ。

 外国の対蒼血機関からは非難と嘲笑を浴びるだろう。

 だが、こんなことは何度もあった。

 国の中枢部に蒼血が入り込んだことも、巨大な犯罪組織を作られたことも……

 殲滅機関の大部隊、数百人が一人も生きて帰れなかったことも……

 だが、我々はそれでも諦めなかった。彼らにこの世界を渡してなるものかと、必ず再起して逆襲した。人間は不屈で、我々も不屈だ。

 今回の敗北は無意味ではない。精一杯悲しんで、だが明日のために胸を張ろう」

 しばらく沈黙があった。

 リー軍曹が口を開き、軽い笑い声を立てた。

「はははっ……言われなくてもわかっていますよ。こんなもの最悪じゃあない。葬式みたいな顔をするのはやめよう、みんな。暗い顔のままだと隊長のクサい説教を聞かされ続ける、たまらないね」

 リー軍曹の笑いは機内に伝染していき、機内のあちこちで軽い笑いがあがった。

「そうだね、この程度でへこたれる俺たちじゃないさ!」

 機内の空気がはっきり変化した。

 ああ、この人は凄い。敬介は傍らに立つサキのことを見上げた。

 この人はたしかに指揮官の器だ。ただ強いというだけじゃない。部下の心を掴める。仁王立ちして一喝すれば、崩壊した士気を立て直せる。だから指揮官なのだ。

 敬介の心はずいぶん軽くなった。

 みんなと一緒に自分も笑おうとした。

 できなかった。笑みは凍りついた。笑声はくぐもった唸りになった。

 凛々子に関する記憶が一気に押し寄せて、胸が詰まった。

 天から降ってきた凛々子。

 剣を振るって勇ましく戦っていた凛々子。

 水族館でゴマフアザラシやエイのダイナミックな動きにはしゃいでいた凛々子。

 自分の楽しみのためだけに休日を過ごしてみるのも悪くないものだな、と教えてくれた凛々子。

 たとえ最後が喧嘩別れだとしても、それまで一緒に過ごした楽しい時間まで消えてなくなってしまう訳ではない。人生で味わったことのない幸福だった。

 電車の中で自分とケンカした凛々子。ハーブティーをかけられても怒りもせず、逆に謝った凛々子。

 自分との間にわだかまりを抱えつつ、機内で明るく振舞った凛々子。

 そして……首だけの姿になって巨獣に咥えられている凛々子。

 まだ死亡が確認されたわけではないが、奴らが首だけの凛々子を生かしておくとは思えない。

 もう会えない、心にそう刻まれた。

 どうして……もう会えなくなると知っていれば……

 せめて一言くらい……

 たとえ俺がこの先、作戦を潰した責任をとって、信頼を回復させて、仇を討ったとしても。

 姉に宗教を辞めさせたとしても。

 ずっと俺は、凛々子に謝れなかったことを後悔し続けるだろう。

 意地を張ってしまったことを、デートが楽しかったと言えなかったことを。

 掌で顔を覆って、小さく呟いた。

「凛々子……」

  

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