第2話「凛々子との出会い」

 2007年12月 夜 地方都市


 決意の日から五年が過ぎていた。

 敬介は殲滅機関戦闘局員となり、装甲戦闘服シルバーメイルに身を包んで作戦に参加していた。

 状況、全滅寸前。

「こちらブラボー・ツー! こちらブラボー・ツー! 他チーム応答せよ! ブラボー被害甚大、一名残して全員が死亡! 他チーム応答せよ! アルファ・チャーリー・デルタ応答せよ! くそっ!」

 臙脂色の毛足の長い絨毯を踏みつけ、豪奢な屋敷の中を走りながら、敬介は胸元のスイッチを押して無線連絡を送る。

 応答はない。先ほどから、ずっとないのだ。

 たった五分前は、「極めて有力な敵集団に包囲!」「脱出困難! 増援を!」などという悲痛な叫びが聞こえていたが、今はそれすら無い。

 やはり全滅したと考えるべきだろう。自分のチームだけではなく、ほかのチームも……投入された一個小隊十六名がすべて。

 だとすれば、蒼血に満ち溢れたこの屋敷から、たった一人で脱出して追撃をかわさなければいけない。

 焙られるような焦燥で、口の中は乾ききっている。

 単身敵中突破という状況は訓練ですらほとんど経験していない。どうすれば。頭脳をフル回転させる。

 屋敷の正面扉から出るのは論外だ、玄関のロビーは広い、四方八方から襲撃される。窓から飛び降りるのも駄目だ。ここは四階で、飛び降りるには装備が重すぎる。間違いなく怪我をするし、ロープを使って降りる場合は無防備な時間が生まれる。

 二階あたりまで降りて、そこから飛び降りるしかない。敵の待ち伏せが手薄だろう場所はどこだ? ブリーフィングで叩き込まれた屋敷の図面を頭の中に展開し、ひたすら考える。

 むろん考えながらも走り続け、五感を研ぎ澄ませ続けている。

 だから気づけた。

 廊下の曲がり角から、黒い影が飛び出してきた。

 即座に、両手でしっかりと構えていた大型の銃……ミニミ・ライト・マシンガンMK49 mod0を連射する。通常のミニミはM16やM4カービンと同じ弾薬を使用するが、これは目標の生命力を考慮して大口径化したバージョンだ。フルオートの反動を、シルバーメイルの人工筋肉(アクチュエータ)が微動だにせず受け止める。秒間二十発、この銃の上限速度にまで増速してある。銃声は完全に一繋がりの、電気鋸にも似たギイイインという金属音だ。

 全ての弾丸は、体内で銀の微粒子を撒き散らす「ESB(炸裂銀弾)」。

 銃弾の暴風を浴びて、黒い影はもんどりうって倒れた。床と壁に鮮血の花が広がる。倒れた人影はタキシード姿で、顔面は鱗だらけだ。使用人だろう。

 真っ赤な血しぶきを飛び越えて、もう一つの影が現れる。エプロンのついたロングスカートを広げて飛びかかってくる。

 とっさに銃口を上にスライドさせるが、スカート姿の影は素早い。壁と天井を蹴って方向転換し、わずかな差で銃弾をかいくぐり、消えた。

 こちらの死角に回り込まれた。おそらくは背後。

 瞬間的に判断して敬介は体をひねる。

 裾の長いエプロンドレス姿でカチューシャも身につけたメイドが、稲妻の勢いで回し蹴りを放ってきたのはその瞬間だった。スカートが花開き、足先が黒い孤を描き襲う。

 ブロックしようと、両腕を交差。衝撃。腕で防いだか。違う、ミニミの銃身に蹴りが当たった。銃が大きく曲がった。もう撃てない。

「チッ……」

 舌打ちする暇も与えずに、

「シャアアアア!」

 メイドは非人間的な叫びをあげて殴りかかってくる。敬介の顔面めがけ超高速のストレート。もっとも防御性能の低いフェイスプレートを正確に狙ってきた。人間の反射神経では避けきれない速度。そう判断したのでよけなかった。メイドの腕がひらめいた瞬間、前かがみに飛びかかる。全身に仕込まれた人工筋肉(アクチュエータ)が瞬発力を振り絞り、装甲服を突進させる。

 がっ。

 間合いの狂ったパンチはヘルメットをかすめただけ。

 敬介の頭がメイドの頭と激突した。鈍い衝撃音がヘルメットの中に響く。そのままメイドの体にぶちかまし、ふきとばし……

 腕を背中に回された。敬介も一緒に引きずられて倒れる。抱きしめられた形になって絨毯の上を転がる。敬介は体をひねり、もがき、メイドの腕を振りほどこうとする。人工筋肉が唸りを上げ、過熱し、装甲服のあちこちから蒸気が吹いて緊急冷却が行われる。もつれあいながら、何度も何度も転がる。壁にぶつかって、壁を蹴り飛ばして、反動を使って脱出を試みる。

 できない。メイドの細い腕が、ますます強く敬介の上腕を押さえつけて離さない。ライフル弾をはじき返せる装甲がきしんだ。かつての姉と違って、筋肉肥大はない。腕の太さは元のままだが桁違いの筋力を発揮している。ブラッドフォース「ストレングス2」。

 高度な能力だ。こいつはフェイズ2ではあり得ない、フェイズ3の、しかもかなり経験を積んだ個体だ。こんな奴らが多数いるなら、他チームの全滅もうなずける。

 力ずくの脱出をあきらめた。敬介が下になった形で止まる。完全に組み敷き、馬乗りになったメイドの顔を、ようやく落ち着いて見る。顔面は褐色の鱗がビッチリと覆い尽くし、顔の下半分は前に突き出して乱杭歯が並び、鰐か何かのようだ。にも関わらずセミロングの黒髪がそのまま残って、純白のカチューシャまで輝いている。ひどくグロテスクに見えた。

「オオオオッ……! オオオッ……!」

 メイドは敬介を見下ろすと、それ以上の攻撃はせずに、ただ声を限りに叫び始めた。

 すぐに叫びを聞きつけて仲間が来るだろう。こちらは手すら動かせない。切り刻まれるだけだ。敬介の背中を焦燥が焙る。心臓が苦しげに激しく脈打つ。

 だが、笑みを作った。

 誰が、この程度で諦めるか。

 手足の自由を奪われても使える武装と言えば、これだ。

「……照射!」

 短く、鋭く叫んだ。シルバーメイルの肩部分から勢いよく紫外線サーチライトが飛び出す。最大輝度でまばゆく輝いた。直視できないほどの紫の光がほとばしる。

「オオオオッ……グッ!」

 メイドは苦しげにうめき、体をよじる。至近距離から浴びせられた紫外線が奴の皮膚を焼いている。鱗が泡を発して剥がれ落ちていく。蒼血細胞にとって紫外線は大敵だ。紫外線が皮膚の内側に入り込むことはないが、それでも「不快感」「恐怖」は間違いなくあるはず。目をつぶり、瞼の間から涙を滝のように流している。首をねじって光から顔をそむけようとしている。

 逃れることはできないと悟ったか、逆にサーチライトに顔を近づけてきた。細長く伸びた顎を開く。牙が唾に濡れている。サーチライトを噛み砕く気だ。しかし懸命に首をのばしても、顎の先端がサーチライトに触れるだけで届かない。

 体格差のせいだ。装甲服で着膨れした敬介は身長百九十センチを超えている。いっぽうメイドの体格は百六十センチそこそこ、頭の高さが全く合わない。

「ギギギギッ……」

 目をつぶったまま、喉から悔しげな高音を発して、メイドは体を上にずらそうと試みる。ほんの一瞬だけ、敬介を締め付ける腕が緩んだ。足も動いて、敬介の関節から外れた。

 その、わずかな隙を突いて。

 敬介はメイドの腕の下から自分の腕を引き抜く。まさにサーチライトに食らいつこうとしているメイドの顔面、口の中に拳骨を叩き込んだ。

「インパクトッ!」

 同時に絶叫。喉に当てられたマイクが音声コマンドをキャッチ、近接格闘兵装シュトルムボックmk2が作動。前腕部に内蔵された二本の長大な杭が火薬カートリッジの爆発で射出されて敵の口内に突き立つ。燃料電池が生み出す大電力がコンデンサとイグニッションコイルを駆け抜けて五十万ボルトに昇圧され、スタンガンの数千倍の大パルス電流となって口の中に炸裂。頭蓋骨を通じて脳へと雪崩れ込む。怪物の体が痙攣、筋肉の強制収縮に耐えられず手足の骨がへし折れる。口や鼻から煙が噴出。目玉が噴きだして眼窩から零れ落ちる。

 動かなくなった。

 敬介はガッチリと閉じた顎から力づくで腕を引き抜き、メイドの体を跳ね飛ばして起き上った。まだ死んだとは確認できない。とっさに二、三歩後ずさって距離をとる。

「ウェポン2、イジェクト!」

 背中の大きなバックパックから武器が取び出す。反射的に腕を背後に回して掴み取る。リヴォルヴァー式拳銃を数倍に拡大して極太散弾銃の銃身を取り付けたような奇怪な武器。南アフリカ製のダネルMGL140リボルビング・グレネードランチャー。六発のグレネードを連発できる。

 連射した。オレンジの火を吹いて銃口が吼える。グレネードが顔面に突き刺さって爆発。メイドの頭がポップコーンのように弾けとぶ。胸に、腹に、腕が通るほどの大穴が開いた。やはり動かない。

「照射!」

 ボロ切れとなったメイドに、とどめとばかりに紫外線を浴びせる。

 これで、まあ良いだろう。蒼血は脳や脊髄など、神経の密集した場所に寄生していることが多い。両方とも破壊して倒せないことは、まずない。

 ……と安堵をおぼえた瞬間、背筋を電撃が走った。

 とっさに体をひねり、振り向きながら飛びのいた。

 まったく同時、天井が引き裂かれて何かが降ってきた。

 視界を占領する、人間よりも大きな緑色の影。目にも止まらない速さで片腕を振るってきた。体が勝手に反応して両腕で顔面をブロックする。

 斬撃が腕をかすめた。

 金属音。何重もの装甲と緩衝材でも衝撃を殺しきれず、腕に痺れが走った。

 着地して腕の状態を確認する。右腕の手首から肘にかけて、大きな亀裂が入って液体が漏れている。もう近接格闘兵装は使えない。

 かすめただけでこの威力。もし棒立ちで斬られていたら胴体を真っ二つにされていただろう。

 敬介は口の中がカラカラに乾くのを感じながら、敵の姿をまじまじと見る。

 敵は、昆虫の姿をしていた。

 身長は二メートル程度か。全身を包むのは鱗ではない。熟練の職人が叩き出したプレートメイルのような、ツルリと曲面的なエメラルド色の装甲だ。手足はたしかに節くれだって昆虫のようだが、もっと遙かに太い。両腕の先端は牛の首でも落とせそうな大鎌になっている。顔面は逆三角形で、顔の下半分には巨大なペンチのような顎。上半分には大きな二つの……複眼。昆虫と一番の違いは二本足で直立して歩いていることだ。カマキリを逞しい体格にして、人間と混ぜあわせた生き物。

「フェイズ、4……」

 思わず敬介は震える声を漏らした。

 数十年生きて、宿主の肉体操作に習熟した個体だけが移行できるフェイズだ。宿主の肉体の一部ではなく全身を変異させ、複眼や外骨格など昆虫の能力を獲得。通常の蒼血とは比較にならない戦闘能力を発揮する。

 敬介は額に汗が滲むことを止められなかった。フェイズ4が出てくるにしても、味方が全滅と引き換えに腕の一本くらいは奪っているだろうと思っていた。

 だがエメラルド色の装甲には傷一つなく、天井の蛍光灯を反射して煌びやかに輝いている。

 こうなるとミニミを失ったのは痛い。高い威力と発射速度、命中精度まで兼ね備えた、理想的な武装だったのに。

「ヨクゾ、ヨケタモノダ、ニンゲン」

 よく発達した顎を左右に動かし、ギイギイと金属的な声で話しかけてきた。

「死ねっ!」

 敵の言葉を遮るようにダネルMGL140リボルビング・グレネードランチャーを連射する。極太銃身から栄養ドリンク程の大きさのグレネードが矢継ぎ早に飛び出しオレンジの火球となってすっ飛んでいく。

 すべてかわされた。敵は軽くステップを踏み、上体を振った。ただそれだけの動作で、すべてのグレネードが敵の体を捉えることなく通り過ぎる。背後で壁や天井に着弾し、虚しく炎が上がる。装甲車もスクラップにできるはずの弾頭は、虚しくコンクリートに穴を開けるだけだ。

「ムダダ、ニンゲン」

 敵の声には余裕すら感じられる。ゆっくりと敬介に歩み寄ってくる。

 わかっていた。携帯式グレネードランチャーの砲弾初速は火砲のなかでは際立って遅い。時速に換算して二百キロ程度しかないのだ。フェイズ4相手に当てるのは難しい。百も承知だ。

 わかっていたから、ただ時間稼ぎに使った。

 カマキリ人間がグレネードを避けているうちに敬介は後ろに思い切り飛びのき、叫ぶ。

「ウェポン3、イジェクト!」

 バックパックから飛び出した小型の箱型銃器を掴んで、流れるような動作でカマキリ人間に向けて撃つ。

へっケラー&コッホMP5サブマシンガン。サブマシンガンとしては最高の命中精度を誇る高級銃。威力は控え目だが、狭い場所などでミニミがとりまわしづらい場合はこれを使うこともある。

 狙うは顔面、装甲で守りようがない複眼。

 キーボードのタイプ音に似た軽い銃声が弾けた。

 カマキリ人間の顔の前をフッと影がよぎった。次の瞬間には壁や天上が小さく爆ぜる。顔はまったく傷つかない。

 何が起こったのかすぐに理解できた。こちらの予想を上回る反射神経で弾丸を弾き飛ばした。いかにサブマシンガンといえど、弾丸はほとんど音速で飛んでくるのに。

 すぐに対応し、銃口を下にそらした。カマキリ人間は今度は腕を動かしもしない。胸や腹に着弾するが、火花を散らすだけだ。やはり装甲を貫通できない。 

「ムダダト、イッテイルゾ、ニンゲン」

 カマキリ人間は首を小刻みに上下させ、肩を揺らしながら叫んだ。首を揺らすのは「笑っている」のかもしれない。

 笑いながら、ゆっくりと歩いてくる。一瞬で飛びかかることもできるはずだが、ゆっくりと。

「私ノ子供タチヲ、ヨクモ沢山殺シテクレタナ?」

 俺を舐めきっているのか。勝利を確信しているのか。

 屈辱感が胸の中で膨れ上がるが、敬介は己に命じた。

 冷静になれ。きっと打開策はある。

敵の動きに合わせて後退し、一定の距離をとりながら、考える。

 グレネードは当たらない。サブマシンガンでは装甲に歯が立たない。ならば近接格闘を挑む? それこそ論外だ。あの鎌で首を刎ねられて終わり、五秒ともたないだろう。

と、そのとき、背中に壁がぶつかった。

 気がつくと、廊下の一番端まで来てしまった。逃げようにも、ドアすら通りすぎてしまっていた。まったくの行き止まり、袋小路。

 ……まて、背中? 背後?

 なにかがひっかかる。バクバクと踊る心臓がますます鼓動を早めた。焦りで締め付けられる脳味噌の中に一筋の電流が走り抜けた。

 手は、ある。

 出鱈目だ、奇跡に近い偶然を、いくつも積み重ねないと成功しない。そう理性が叫んだ。

 しかし体が勝手に動いていた。

 こんな時のために、選抜をくぐり抜け、訓練を重ねてきたのだから。

「降伏します! 待って! 待ってください!」

 敬介はそう叫んで、両腕を広げて立ちどまった。

 カマキリ人間は、敬介に切りかからろうと鎌を振り上げた状態で、ぴたりと停止した。

「コウフク、ダト?」

「はい。俺は……私は知らなかったんです。あなたが……あなた様が、これほど偉大な力を持っているとは!」

 生唾を飲み込んで、身を乗り出して、できるだけ憐れみを感じさせそうな声を作って言う。

「ドウイウコトダ?」

 いまや敬介とカマキリ人間は取っ組み合いができるほどの距離だ。至近距離で数万の複眼が敬介を見つめている。複眼は、特定の何かを見つめることなどできない構造だが……ありえないはずの「視線」を感じる。見えない力がプレッシャーとなって敬介の心の中に刺さってくる。「見え透いた芝居はやめろ、すべてお見通しだ」と言っている。

 それでも敬介はすべての恐怖と躊躇を意志力で押さえつけ、芝居を続けた。

「私はいままで、殲滅機関で戦ってきました。皆さんを人間の敵だと思っていたのです。猛獣を駆除するようなものだと思っていたのです。ところが……今! 目が覚めました! あなた様の力はあまりに強大でした。どう見ても、どう見ても……蒼血のほうが優れた生き物なのです。そう思えてならないのです。いままでのわたしはあまりにも傲慢だったのです! 間違っていました! どうかご無礼をお許しください! この体をご自由にお使いください!」

「貴様……ワレラノ仲間ニ、加ワリタイカ?」

 「蒼血」に寄生されたものは脳を乗っ取られ、体の自由を奪われる。だがたいていの場合、宿主の意識が消滅するわけではないらしい。夢をみているような曖昧な感覚ながら、自分が今何をやっているのかわかる。しかし体を動かすことだけはできない。

 それは大抵の人間にとって耐え難い苦痛だろう。敬介を含めて、「蒼血」のことを知った人間はたいてい、おぞましさに震える。

 だがごく稀に、自分が何もしなくても体が動いて、闘ってくれる、そんな状況を有難がるものがいる。

 たとえ自分の意思を失ってでも超人になりたい、と考えるものがいる。

 人間辞めたいやつら。

 そんな人間を、演じるのだ。

「はい。はい、もちろんです。わたしは、もう殲滅機関など……狭い考え、人間の常識でしか、蒼血を推し量れない組織など……」

 そう言いながら、敬介は五感をフル稼働させ、「測って」いる。

 自分と敵の位置関係、必要な距離と、角度を。

「ウソクサイナ。ホントウカ? ナラバ武器ヲ捨テロ」

「もちろんです! はい!」

 敬介は左手に持っていたグレネードランチャーを放り投げる。カマキリ人間の頭の上を越えて、背後に落ちた。

「ソチラノ銃モ捨テロ」

 カマキリ人間が言った瞬間、敬介は撃った。

 右手のMP5を。

 敵ではなく、敵の股の間に。股の向こうで、こちら側へ砲口を向けて転がるグレネードランチャーに。

 MP5の9ミリ・パラべラム拳銃弾は、ランチャーの回転弾倉に突き刺さり、中のグレネードの尻、雷管部分だけを正確に叩いて発火させた。グレネードが発射される。反動でランチャーの砲身が跳ね上がり、斜めに向かって咆哮。

「貴様ァ!」

 カマキリ人間が叫んで鎌を振ったのと、その背中をグレネードが食い破ったのは全く同時だった。衝撃でカマキリ人間の体が揺らぎ、振り回された鎌は敬介の首を紙一重のところでかすめた。

 ランチャーの中にたった一発だけ残っていた弾頭は対戦車多目的榴弾(HEAT―MP)。爆発エネルギーの大部分を一点に集中させて極超音速のジェット噴流を作り出し、厚さ五センチの鋼鉄さえも浸透貫徹する。設計通りの効果を発揮した。轟音と閃光がその場を支配し、カマキリ人間の胸が内側から爆発して炎の剣が飛び出す。

 すぐ隣に立っていた敬介の胸にまで炎の剣の先端がぶつかってくる。衝撃で敬介は後ろに吹き飛ばされそうになる。反射的にバランスを取ったその時には、もう炎は消えていた。

 敵の胸には大穴が開いていた。穴の中から煙がもうもうと溢れ出している。煮えたぎる液体も溢れてくる。

「ア…ガ……キサ……マ……」

 かすれた小さな声を出した。もう一度鎌を振り上げるが、すでに斬りかかる力はなく、その場にバッタリと倒れる。

 倒れた敵の顔に向かってMP5を向け、連続して何十発も、弾倉が空になるまで撃ちこんだ。複眼が弾けて原型を留めないほど砕け散った。複眼の裏側にある脳も一緒に飛び散り、頭の上半分がなくなった。あたりには豆腐を踏み砕いたような白く柔らかい飛沫が広がった。白い飛沫のところどころに蒼い液体が混ざっている。蒼血だ。紫外線照射装置がないので、確実に蒼血を抹殺することはできない。銃弾に含まれる銀で死んでくれると、期待するしかない。

 もう確実に倒した、と確信して、やっと息をついた。肺の中の空気を全部出してしまうような、長く重い溜息だった。

「はああっ……」

 安堵感が押し寄せ、全身の筋肉が弛緩して座り込んでしまいそうだ。

 まったく奇跡だった。同じことをやれと言われても二度とできないだろう。

 グレネードランチャーを拾って弾を込め直し、また走り出す。

 その時、胸元の通信機のランプが点滅。耳に取り付けたインカムに、緊迫した声が飛び込んできた。

『ブラボー・ツー、ブラボー・ツー応答せよ。こちら火力支援チーム、デルタ。ブラボー・ツー応答せよ』

 デルタ! 大火力装備を持ち、おもに建物の外部から遠距離支援を行うチームだ。生きていたのか。大人しくなっていた鼓動がまた高まる。こいつらが生き残っていたなら、だいぶ生還の可能性が高まる。思わず頬が緩んでしまう。

「こちらブラボー・ツー。現在チーム・ブラボーは一人残し全滅状態。そちらの状況を知らせてください。なぜ応答がなかったのですか!?」

『こちらチーム・エコー、すまない。屋敷の中庭で大規模な襲撃があり、応答できる状態ではなかった』

「現在の戦況は?」

『中庭の敵を完全に掃討、制圧完了。死傷者なし。屋敷から脱出する隊員を援護できる態勢が整った。ただちに脱出することを提案する。現在、装甲トレーラーを中庭のド真ん中に止めている』

「まだ四階にいるんです。この階から飛び降りたら受け身が取れない、死にます。下の階まで移動してから脱出しようかと」

『ロープを使え。援護射撃を行うから安全を確保できる』

「わかりました! では……」

 敬介は視線を周囲に走らせる。

 中庭の方角は……こっちだ。

 手近にあるドアに、銃弾を一連射してから蹴り破って入る。

 この屋敷には似つかわしくない狭い殺風景な部屋、病院のような簡素なベッドがある。使用人の部屋だろうか。部屋を突っ切って、窓から身を乗り出した。

 降りしきる雪だけが見えた。中庭は黒い闇の塊だった。今までずっと明るい場所にいたせいもあって、中庭を囲む建物の壁と窓以外、何も見えない。

「ノクトビジョン、オン」

 音声でコマンドを送る。シルバーメイルの第三世代型暗視装置が作動し、ゴーグルの右目部分に映像が浮かんだ。

 赤外線を増幅した映像だ。四角い庭の中に、大きな細長い箱型が見える。箱の前の部分が白く強く光っている。エンジンを掛けっぱなしのトレーラーだ。トレーラーの近くに白い人影が四体。チーム・エコーの隊員だろう。二人は身長ほどもある棒を手に持っている。もう二人は丸太のような極太の棒。棒も白く光っている。発砲した痕跡だ。隊員たちの周囲には、わずかに白く光る人型の何かが転がっている。倒した蒼血だろう。

 よし、状況がわかった。ここから降りる。

「四階の東棟、東から二番目の窓から降ります!」

「こちらデルタ。すべて了解。援護する」

 気分が浮き立つ。シルバーメイルの上から着込んだベストをまさぐって、数百キロの荷重に耐えるロープを取り出す。

 窓にロープのフックを掛けて、身を乗り出し、ロープを掴んで滑り降りる。

 しかし。

 降下を開始してすぐに、白い人影のうちふたりが、敬介に長い棒を向けた。棒から眩しい光が噴く。右目の赤外線映像も左目の通常視界もホワイトアウト。

 装甲防御を突破して、胸と腹に巨大な衝撃が炸裂した。巨人の手を体に突っ込まれてまさぐられたかのよう。呼吸が止まった。臓物がでんぐり返った。装甲服と合わせて二百キロを超える体が木の葉のように吹っ飛んで、壁に当たって跳ね返る。風を切って落下した。

 落下はごく短かった。受け身も取れずに大地に叩きつけられ、意識が途切れる。

 気がつくと、仰向けに寝転がっていた。

 雪が降りしきる暗い空の下、自分と同じシルバーメイル姿の男たちが、自分を取り囲んで見下ろしていた。

 二人は、身長ほどもある巨大な銃を持っている。いいや、普通のライフルの三倍の太さの銃身を縦に二本束ね、ひとつの銃床に無理矢理つないだようなその兵器は、もはや銃ではない。

 Gsh-23 PS(パワードスーツ)モデル。ロシアの対蒼血組織「グロズヌイ・グローム(怒りの雷撃)」と殲滅機関が共同開発した重火器。旧ソ連の23ミリ対空機関砲を手持ち式に改造したものだ。重量は五十キロを超え、タバスコの瓶ほどもある徹甲弾を連射し、人体などプリンのように粉砕してしまう。

 のこり二人が持っているのはそれ以上の化物。グリップと引き金の付いた鋼鉄の円筒。中に螺旋状の溝が光っている。カール・グスタフ無反動砲だ。

 全員が、武器を敬介に向けていた。

「な……なんで撃っ……!」

 叫んだ瞬間、胸の中で灼熱の激痛が爆発して体が硬直した。間違いなく肋骨が二、三本は折れている。内臓にも損傷があるだろう。胸はセラミック・炭素繊維複合材により、最新鋭の装甲車を上回る防御が施されているが、二三ミリ機関砲の衝撃は殺しきれなかった。

 敬介の意志を無視して体が痙攣し、すべての汗腺から汗が溢れ出す。

 ……なぜ撃たれる? 脱出する場所を確かに伝えたのに。

 Gsh-23 PSモデルを持った二人のうち片方が、いたずらっぽく笑う。

「はは。『なんで』? わかりませんか?」

 ヘルメットの中に見える顔が、音もなく変形した。顔が縮んでゴーグルが滑り落ち、皮膚が黒いツルリとした殻になり、巨大な複眼が膨らむ。

 フェイズ4蒼血。変身速度から判断して、かなり高位の。

「なっ……」

 昆虫人間と化した男は、金属的で耳障りな声を発する。

「コウイウコトデス。アナタ方ガ屋敷の中ヲ荒ラシマワッテイル間、我々ハ最大ノ火力ヲ持ツチームヲ……」

 そう言って、サッと片手を上げる。

 あとの三人も一斉に顔面が変貌した。こちらは鱗に覆われる。

「乗ッ取ラセテイタダイタノデス。ア、自己紹介サセテイタダキマショウカ。ワタクシ、『ブルーブラッド』トシテノ名は『ララージ』。ワガ家族ノリーダーヲ務メテイマス。間抜ケナ隊員サン」

「あり得ない……」

 敬介はうめき声を漏らした。

 そう、あり得ないのだ。「蒼血」が作戦局員の肉体を奪おうとすることは珍しくない。だがシルバーメイルは常に装着者の肉体状態をモニターしている。「蒼血」が人間の脳に入り込んで支配すれば脳波が変わる。瞬間的に体温や心拍数も変化する。それらの変化を読み取って警告を発し、動かなくなるはずだ。まして昆虫形態になっているというのに。

「コノ着グルミノ安全装置デスカ?」

 そう言ってシルバーメイルの胸を叩く。

「人間ノ浅知恵ゴトキ、イツマデモ通用シマセン。アナタ、我々ガナゼ『ブルーブラッド』ヲ名乗ッテイルカゴ存知デスカ?」

 苦痛にあえぎながらも答えた。

「『貴族』だって言うんだろ?」

 殲滅機関と出会ってしばらく経ったある日、なんの気なしに英和辞典で「ブルーブラッド」を引いてみた。あのときの衝撃は忘れられない。ちゃんと載っていたのだ。もちろん「寄生生物の意」とは書いていなかった。

 通常の英語でブルーブラッドは「貴族」。

「ソノ通リ。我々ハコノ惑星ノ支配者階級。貴方達ハ下僕ナノデス。タッタ百年バカリ優位ニアルカラトイッテ分ヲ忘レテモラッテハ困リマス」 

 蒼血の言葉を苦々しい思いで聞きながら、敬介は生き残る方法を考えていた。

 なんとか……なにか方法はないか。

 四人は、みな敬介から二、三メートル離れて立っている。体を起こして飛び掛るのは一瞬では出来ない。Gsh-23で滅多撃ちにされるだろう。今度は肋骨では済むまい。

 だが、なにか方法はあるはずだ……

 生唾を呑み込み、歯を食いしばって考えた。こんなところで終われない。

 姉のことを思った。辛いとき、苦しいとき、迷ったときには必ずそうしてきた。

 ……なに一つ悪いことをしていないのに、懸命に生きていただけだったのに、「蒼血」によって人生を破壊された姉さん。ズタズタになった筋肉が完全に治らず、杖を突いている姉さん。殲滅機関のことを知らされず、俺が普通に就職したものと思って、帰りが遅いことを心配している姉さん。味覚がおかしくなって以前のように料理が作れなくなった姉さん。俺が弁当を買って帰ると、自分がダメだからこんなお金を使わせるんだと恥じる姉さん。もう弁当代なんていくらでも出せるのに。他人を責めるということのない姉さん。蒼血に感染した記憶は消えているのに、「変質者に乱暴された」偽りの記憶に苦しみ続ける姉さん。今でもセラピーに通い続け、貰ってくる薬の量がだんだん増えていく姉さん。

 そんな姉さんは。俺が死んでしまったらどうなるのだろう。

 だから。俺は死ねないのだ。

 動かずにいる敬介に、ララージと名乗った昆虫人間は一歩近寄ってくる。

「ドウシマシタ? 怖イデスカ? 命ゴイハ無駄デスヨ?」

 鱗顔の蒼血が口を挟んできた。

「ララージ様。さっさと殺して脱出を」

「イイエ。苦痛ヲアタエテカラデス。ワガ子ラヲ大勢殺シタ罪ヲツグナッテモラウノデス」

 敬介の腹に向けて撃った。

 目の前で眩くきらめくマズルフラッシュ。ゼロ距離で機関砲弾の直撃。

 凄まじい勢いで吹き飛ばされ、後ろに転がった。絶対的な衝撃力が装甲を浸透し内臓を掻き回し押し潰す。激痛が体の中心を食い破った。灰色の空が涙で滲んで見えなくなった。

「がっ……がっ……げぼっ……」

 蛙の鳴き声にも似た呻き声が自然と溢れる。内臓が暴れまわっている。間違いなく、どこかの臓器が潰れた。胃袋が強烈な吐き気を訴えてくる。だが吐けない、ヘルメットを脱がずに吐くのは窒息の危険がある。視界も失われる。だから耐えた。熱病のように荒い息を吐いて、拳を握りしめて顔中を脂汗だらけにして、耐えた。

 涙でぼやけた視界がようやく直った。

 昆虫人間ララージの黒光りする顔。自分のすぐ真上に立って覗き込んでいた。ララージ本人はもう銃を構えていない。数歩離れたところに鱗顔の蒼血がいて、こちらは警戒を緩めず、Gsh-23の銃口を敬介の頭に向けている。

「オヤ。ソノ程度デスカ。モット苦シンデ下サイヨ」

 ギイギイと鼓膜に突き刺さるような高音を発して顎を左右に激しく開閉する。笑っているのだろうか。器用にも肩まですくめている。

 敬介はララージを睨みつけたまま、内心で毒づいた。

 ……三流悪役が。

 ……何が「この惑星の支配者階級」だ。

 ……ほんとに優れた存在が、いちいち威張るか? 勝ち誇るか?

 ……この油断、この倣岸、付け込む隙はある。

 まだ諦めない。諦めてなるものか。

 腹筋に力を入れ、起き上ろうと試みた。そのとたん激痛がまた爆発する。だが歯を食いしばる。歯が軋む。意識を限りなく集中させる。こんな痛みなど。姉さんに比べれば。比べれば!

 頭がわずかに持ち上がった。医学的にはあり得ないことだ。精神力が痛覚を克服したのだ。

 できる。奴の気を一瞬そらせれば、何らかの手段でそらせれば、立ち上がって銃を奪うことは。

 23ミリ機関砲ならばフェイズ4の装甲も破れる。その前に俺が何発食らうか……耐えてみせる。奴らを根絶やしに、そう根絶やしにできるなら。

 どうやって気をそらすか……

 と考えた瞬間、敬介は見た。

 灰色の空に、キラリと光る……

 十字架?

 十字架は凄まじい速度で落下して、ララージの隣に立つ蒼血の頭に突き刺さった。

 十字架ではないと気付いた。

 両腕を広げた人間。小柄な女の子だ。

 身長は百五十センチ程度だろうか、ほっそりした体つきで、上半身は薄手のパーカーを羽織っただけ。しかもパーカーの前を開けて縞々のシャツを露にしている。下半身に至ってはスポーツ着のように簡素なショートパンツを穿いただけだ。ショートパンツから伸びた二本の素足が……膝のあたりから「レイピアを思わせる細い二本の剣」に変わって、鱗に包まれた頭をヘルメットごと貫通していた。

 一瞬、その場にいた全員の体が硬直した。

 敬介は目を見開き、口も半開きにして、痛みさえも忘れて、その少女に目を奪われた。

 なぜならその少女は。

 どうしようもなく美しかったからだ。

 肉付きの薄い体のラインが美しかった。

 雪よりも白い肌が美しかった。

 あどけない丸顔が美しかった。

 固く引き結ばれた唇が美しかった。

 ふわりと外側に広がったショートの黒髪が美しかった。

 ぱっちりと大きな吊り目が美しかった。

 肉体を持つ地上の存在だと感じさせない、究極の清純、天使。

 それなのに瞳は断じて無機的ではなくて、ハッとするほどの強い意志の光を湛えている。

 美少女はあたりを見渡した。

「あ、親玉はこっちだった。ボク馬鹿だなあ」

 大げさに眉をひそめる。

「撃チナサイ!」

 ララージが叫び、撃つ。残る二体の蒼血も発砲。腹の底まで響く重い銃声。Gsh-23がまばゆい火線を放つ。カール・グスタフが背後にオレンジの炎を噴き出し、砲弾を発射。

 そのとき少女はすでに体を後ろに折り、自分の足が突き刺さる装甲服ごと倒れこんでいた。

「やっ!」

 気迫のこもった少女の声。敬介の見ている目の前で、少女は両手を地面に着き、回り踊った。

 以前スポーツ番組で見たカポエラの達人の動きを、さらに十倍にも早回ししたような動きで。両足で装甲服を串刺しにしたままで。

 自分の体よりずっと大きな装甲服を、棍棒のように、鉄槌のように超高速旋回させる。機関砲弾をことごとく遮り、カール・グスタフの巨大な砲弾を弾き飛ばす。飛ばされた砲弾が屋敷の壁に突き刺さって爆発、炎の柱を噴き上げる。高速回転は止まらない。そのまま竜巻のように突き進んで蒼血たちを蹂躙し、銃や無反動砲をことごとく吹き飛ばした。

二体の蒼血が、大きくバランスを崩して尻餅をついた。

 ララージだけが飛びのいてかわし、一瞬で装甲服の前を開いて飛び出す。少女に勝るとも劣らない素早さだ。地面に身を投げ出して転がり、距離を取る。

「早ク脱ギナサイ!」

 何を言っているのかはわかった。「蒼血」の能力を用い、筋力や反射神経を強化して戦うなら装甲服はむしろ枷になるのだ。

「はっ!」

 尻餅をついた蒼血ふたりが、装甲服の前部を開いた。

 だが遅い。脱ぐ暇など無い。

 少女は足に突き刺さった装甲服を勢いよく吹き飛ばし、身軽になる。回転速度をさらに加速、もはや一陣の凶風。剥き出しの足――二本の剣が、蒼血ふたりの顔面をえぐった。鱗などものの役に立たない。目玉の位置を大きく深く、横一文字に斬られた。苦悶の声を上げて顔面を手で覆う。

 足を開いて両足の刃を振り回し、銀の竜巻となって突き進む少女の前に、ララージが立ちはだかった。いつの間に変異させたのか、彼の左腕はなくなっている。右腕だけが、異常に大きく、長く、包丁のように幅広の刀に変わっている。

「シャアアア!」

 奇声を発し、右手の蛮刀を振りかぶって斬りかかる。

 刃同士の激突が生み出す、甲高い音。

 少女が吹き飛ばされていた。空中で回転し、ララージから数メートル離れて着地。

 片足の膝から先、剣の部分がなくなっていた。もう片方の足だけで立っていた。

「やるね。見切られるとは思わなかった。相当鍛えてるね。もうすぐフェイズ5になれるかも。あとニ、三十年も修行すれば」

 挑戦的な笑顔を浮かべ、大きな吊り目を闘志に燃やしてララージを見る。

 だがその肩は激しく上下している。敬介の目には、苦痛を堪えているように見えた。訓練や実戦の中で、苦痛に耐えて無理やり笑う人間を何度も見てきた。まさにそんな笑顔に見えた。笑顔の向こうに、引きつった心が透けて見えるのだ。

「貴様……貴様ハ、マサカ!」

「『反逆の騎士』エルメセリオンだよ。自分で言うのは恥ずかしいけど」

 少女の名乗りを聞いたとき、敬介の全身が震えた。

 知っていた。訓練課程の座学で教わった。同僚や上官の会話にも出てきた。

 ……このララージはフェイズ4。これより上に、「究極の蒼血」がいる。

 フェイズ5。百年以上の時を生き、宿主の肉体が持つ潜在能力を、完全に、一瞬にして引き出せるようになった存在。

 現在、全世界で十三体しか確認されていない。多くの手勢を引き連れ、その力は一国すら左右し、その存在は恐怖とともに語られる。誰が呼び始めたのか、子供番組の悪役めいた二つ名までついていた。

 「魔軍の統率者」ゾルダルート。

 「神なき国の神」ヤークフィース。

 「黄金剣」アストラッハ。

 「混沌の渦」ナーハート=ジャーハート。

 そして……「反逆の騎士」エルメセリオン。

 蒼血でありながら蒼血を倒し、人間達を助けて回る、変り種中の変り種。

 エルメセリオンの名を轟かせたのは「アンデスの聖戦」だろう。蒼血に支配された南米の麻薬カルテル。全世界の麻薬の三割を扱い、地元警察も殲滅機関も手を出せずにいたその強大な組織に、単身殴りこんで潰してしまった。

 敬介の震えは止まらなかった。恐いのではない。止められない興奮が沸き起こってくるのだ。

 話には聞いていたが、なんという強さ。この強さが俺にもあれば、こんな連中は全滅させられるのに。

「ヤハリ、ソウデスカ」

「ここに蒼血がいるって、気付くのが遅すぎたと思うよ。あと少しでも早ければ、こんな犠牲者は出さずに済んだ。殲滅機関の人たちだって、あと三十分早ければみんな助けられたんだ。感じるよ。たくさんの命が消えたのを」

「ナゼ貴様ホドノ戦士ガ、人間ノ味方ヲスルノデス。貴様ガドレホド助ケヨウト人間ハ感謝ナドシナイ。化ケ物トシテ人間カラ、裏切リ者トシテ我等カラ憎マレル! 何故、ソンナ馬鹿ナ事ヲ! 人間ヲ救イ、人間ノ為ニ泣キ、何ノ意味ガアルノデス!」

 いつの間にやら、両者の間合いは三メートルそこそこにまで接近していた。エルメセリオンの「足剣」は刃渡り数十センチだが、ララージの蛮刀は一メートル半はあるだろう。一足で斬りこめる間合いだ。 

「だってボク、馬鹿だもん」

 そう答えるなり、エルメセリオンの上体がピタリと静止した。全力疾走したかのように上下していた肩も。揺れていた髪も。苦しみの表情が消え、大きな瞳に澄んだ、落ち着いた光が宿った。

 そして音もなく、膝から先の剣が再生した。魔法のように鮮やかだ。

 ブラッドフォース「ファンタズマ」。細胞同士の結合を断ち、細胞の全能性を回復させることで、体を構成する六十兆の細胞をブロックのように配列変換。肉体損傷を一瞬で回復させる能力。

 敬介は気付いた。この少女は。エルメセリオンは。足を斬られた苦痛を堪えていたのではない。

 ――悲しみを、堪えていただけだ。

「シャアアッ!」

 ララージが叫び、踏みこんで、巨大な蛮刀を凄まじい勢いで振り下ろす。周辺の大気が斬撃の勢いに引きずられて轟と唸った。

 まったく同時にエルメセリオンも踏み込み、素早く手を差し上げる。

 自らの頭が両断される直前で、蛮刀を両手で挟んで受け止めた。

「ヌッ……」

 ララージが驚愕の唸りを漏らした瞬間には、エルメセリオンは片足を振り上げていた。速い、だが軽い、踊るような動作。

 剣と化した片足でララージの股間を一撃。そのまま一息に、なんの抵抗も感じられないほどの速さで高々と斬り上げ、腰を、腹を、胸を……頭まで切り裂いた。

 額から刃が抜ける。

 ぴっ、と微かな音がして、ララージの体の中心線、股間から額にかけての装甲に縦一文字の赤い線が走る。

 線が裂け目となった。真っ赤な血が吹き出す。湯気と臓物を溢れさせ、ララージが左右に裂けて倒れこむ。

 倒れて、それきり起き上がらない。

 おそらくは、脳や脊髄に潜む「蒼血」本体を、一撃のもとに仕留めたから。

 敬介はハアッと息をして、ようやく自分の息が止まっていたことに気づいた。

 ……強い。あまりにも強い。

 興奮と感動で、胸が高鳴っていることにも気づいた。

「あとは……」

 そう言ってエルメセリオンは周囲を見渡す。目玉を潰された二体の蒼血が、よろめきながら建物の中へ消えようとしていた。

 両手を向ける。パーカーの袖から覗く両手は、異様な姿の「銃」に変形した。赤黒い血管と筋肉が盛り上がり、螺旋状に巻き付いて形づくられた「肉の蕾」。 

 空気が抜けるような軽い音。二体の蒼血は屋敷の窓を目前にして倒れる。手足から血を流し、バタつかせている。関節だけを正確に撃ち抜いたのだ。四発撃ったはずなのに、銃声は一つにしか聞こえなかった。

 ブラッドフォース「マッスルガン」。筋肉の収縮力で体液を発射する「水鉄砲」だ。だがこれほど強力なマッスルガンは見たことがない。一般的には拳銃程度の威力で、連射も効かず、しかも水滴は不定形のため弾道が安定せず、命中率が低いのだ。

 二体を倒したエルメセリオンは、しばらくその場に立ち尽くした。中庭のど真ん中にある装甲トレーラーをじっと睨んでいる。

「……うん、もういないか」

 生き残りを確認していたらしい。両手の「蕾」がほどけて縮み、もとの細い手に戻る。両足の剣も、普通の人間の足に戻った。素足で雪を踏みしめる。冷たさを感じる素振りもない。

「ねえ、キミ」

 はじめてエルメセリオンが敬介に目を向けた。

「ノンリーサル装備が欲しいんだけど。あの銀をプシューっていうやつ。あれはどこにあるの? 使ってくれると嬉しいな。ボクには使えないから」

「トレーラーの中に……どうするんだ、あんな物」

「あの人たちを助けるんだよ」

 屋敷の前で突っ伏して痙攣している、たったいま自分が倒した蒼血を指さす。全身タイツに酷似したインナースーツ姿で、手足を投げだして震えている姿は惨めで、滑稽ですらあった。

「目と手足しか潰してない。まだ助けられる」

 助けられる。その言葉をきいて、強烈な違和感に眩暈がした。

 こいつは蒼血だ。敵なんだ。

 こんな奴の言うことをきいていいのか。

 だが、確かに言った。まだ助けられるから助けると。

 人間の命を大事にしているのか?

「ダメならいいよ」

 そう言って、倒れている蒼血のもとに歩み寄り、耳に手を当てる。

「がっ……あがっ……あがぁ……っ」

 奇声を発してますます悶える。エルメセリオンは片手で体を押さえつける。

 やがて、耳から青いアメーバを引きずり出した。寄生体を失ってブラッドフォースが解除され、すぐさま顔面の鱗が剥がれ落ちた。姉と同じだ。

「なっ?」

 驚く敬介をよそに、エルメセリオンは蒼血の上に覆いかぶさった。唇を重ねた。

 やはりこいつは敵だ。自分の断片を、「子供」として植えつける気だ。

 這いずって、近くに転がっていたミニミを拾う。荒い息をしながら、エルメセリオンの頭に狙いをつける。

 どん、と射撃した。

 エルメセリオンはキスの体勢のまま、顔を起こしもせずに片手で弾丸をはたき落とした。

「むぐっ。馬鹿なことはやめて。邪魔したら助からないよ、この人」

 顔をあげて敬介をにらむ。

 敬介は愕然とした。たったいまエルメセリオンがキスをした隊員の、大きくえぐられた目が……魔法のように、復元する。傷が収縮し、眼球が盛り上がって瞼に覆われる。鱗が剥がれてむき出しになった顔面を、真新しい皮膚が覆っていく。

 もう顔には何の傷跡もない。目をこらすと、肘や肩の銃創も塞がっている。安らかな表情で眠っていた。

 エルメセリオンはもう一人にも同じことをした。耳から蒼血を寄生体を引きずり出し、キスひとつで肉体を再生させた。

 たった二、三十秒で終えて、両手にアメーバを載せて戻ってきた。敬介の体のそばにしゃがみ込む。

「はい、これに紫外線。できるよね?」

「……照射」

 敬介の言葉に応じて肩から紫外線ライトが現れ、眩い紫の光でアメーバを焼き尽くす。

「だいたい治したよ。後遺症がないとは言いきれないけど。殲滅機関の医療局に期待するしかないね……あ、ところで」

 エルメセリオンが敬介に顔を近づけた。

「キミも大怪我してるよね。音からして肋骨? いま助けるから、ちょっと待ってね」

 身を乗り出してきた。

 先ほどのキスが脳裏に蘇る。背筋を極寒の塊が滑り降り、肌が粟立つ。

 こいつは蒼血だ、人類の敵だ。脳味噌の奥の奥にまで刻み込まれた嫌悪。

「やめろ! 近寄るなっ!」

 尻餅をついたままズルズルと後ろに下がる。

「あ、ひどいな。ボクいちおう命の恩人なのに」

 エルメセリオンは眉をハの字に下げ、頬を不満げに膨らませる。闘いの最中とはうって変わった、幼い態度だ。

「断片なんて植えつけないよ。『ファンタズマ』を応用して体を治すだけ。お願い、治させてよ」

「信用できるか。俺たちは、お前のことを信用しているわけじゃない……」

 その通りだった。蒼血を倒す蒼血・エルメセリオンを、殲滅機関は味方とは考えていない。あくまで「蒼血の仲間割れに過ぎない」という考えだ。仲間割れの結果、人間を助けているように見えるだけだと。銃火をまじえたことも一度や二度ではない。

「ん、でもさ、治さないと、キミ死んじゃうかもよ? 内臓のほうもやっちゃってるでしょ」

 その通りだ。姉のために絶対死ねない、と誓ったのはつい先ほどだ。どうすればいい。混乱して、わめいてしまった。

「で、でもお前たちは敵なんだっ。姉さんの仇なんだっ!」

 エルメセリオンの眉がすっと下がり、

「お姉さん? お姉さんを殺されてしまったの?」

 真面目な顔で覗き込んできた。

「死んではいねえよ。でも姉さんが……姉さんが……俺には、姉さんだけが……姉さんのためだけに……なんでこんなことを、お前に話さなきゃいけないんだ!」

 怒気をこめて敬介はわめく。エルメセリオンはますます顔を近づけてきた。手で彼女の体を押しやって逃れようとするが、びくともしない。

 そのまま無言で、極上の黒メノウを埋め込んだような大きな瞳で、見つめきた。

 目に見えない力が胸の内に入り込んでくるような、まるで心の奥底まで覗きこまれたような錯覚に陥り、敬介は沈黙した。嫌悪も、困惑も、姉への想いも、すべて見透かされて分析されて……そんな気がした。 

 数秒の沈黙の後、彼女は言った。

「ボクが信用できないんだね? 『ただ、キミを助けたいだけ』って言われても『ウソつけ』って思っちゃう?」

「そうだ」

「じゃあ、これを見て……もごっ」

 エルメセリオンは掌に小さな手を当てる。

 口元から手を離すと、なんと手の中には青い半透明のアメーバが納まっていた。粘ついた糸でエルメセリオンの唇とつながっている。

「やっぱり恥ずかし……さあ。これが寄生体の本体。ボクが信用できないなら、その肩のライトをピカッとやれば殺せるよ?

 どうしても信用できないなら、ピカッとやっちゃって」

「な……な……」

 まともな言葉を発することもできず、敬介は小刻みに首を振る。

 『あり得ない』。頭の中はその言葉で一杯だ。

 蒼血は人間を蝕む凶悪な生き物だ。絶対の敵だ。心の一番深いところに刻まれていた常識だった。事実、遭遇する蒼血はみんな化け物だった。言葉を喋っても、人間らしい心など微塵もない。

 だが、それが。こんな。エルメセリオンは、いとも簡単に自分の絶対的弱点をさらけ出している。心臓をつかみ出すに等しい暴挙だ。敬介という人間を信じているのだ。

 それに、おかしい。体の中から寄生体が出て行けば、体は支配を解かれ、倒れるはず。こんな風に笑って喋れるはずがない。

「まさかお前。脳を支配されてないのか。人間の意志で喋ってるのか」

 そう言われると手をパンと叩いて明るく微笑んだ。

「やっと分かった? うん、そうなの。エルメセリオンは、ボクに戦う力をくれているだけ。たまに交代はするけど、いまのボクは人間の心で動いてる。だからボクは、正確には『エルメセリオン』じゃないんだ。エルメセリオンはこっち」

 彼女は掌の中のアメーバを敬介に向けた。

「ボクの、人間としての名前はリリコ。凛々しいと書いて、凛々子。そう、日本人だよ。東京府出身。こんな体になって八十四年。だから計算上は九十九歳なんだけど、十五歳って思ってくれると嬉しいな」 

 ますます衝撃的だ。脳を奪わず、自由にさせている蒼血がいるなど。

 蒼血と手を取り合って、人を救うために、八十年も戦い続けている人間がいるなど。

「なんでだよ。なんで弱点なんて、俺に見せる? 無理やり治せば済む話じゃないか」

 当たり前のことを言ったつもりだったが、凛々子は小首をかしげた。

「だって、相手に信じてもらえないのって、悲しいじゃない。それだけだよ。ボク馬鹿だから、『信じてもらう』方法なんて他に知らないんだ」

 その瞳は子供のように無邪気に輝いている。

「おまえ……」

 今まで信じてきた「蒼血とは、こういうものだ」という固定観念が、もう滅茶苦茶だ。頭の中が痺れて、まともにモノを考えられそうにない。

「わかった。わかったよ。好きなように治せ」

「うわっ、ありがとう!

 あ、そうだ、ところでさ。もう一つお願いがあるんだ。

 ボク、キミたちと一緒に戦いたい。

 殲滅機関の一員にして欲しい。

 ボクひとりじゃ、もう無理なんだ。情報収集能力の問題だよ。他のフェイズ5と違って、ボクには部下も仲間もいないから。駆けつけたら手遅れで、犠牲者が何百人も出てるとか。悔しい思いを何度もしてるよ」

「だから俺たちの情報力が欲しい? 虫のいい話だ。俺たちはお前を決して信用しない。諦めろ」

 殲滅機関がエルメセリオンに強い猜疑心を抱く理由は、悪しき前例があるからだろう。

 フェイズ5の一体、『神なき国の神』ヤークフィース。『この惑星の支配種族』を自称する蒼血たちだが、近年もっともこの自称に近づいたのはヤークフィースだと言えるだろう。ソビエト連邦という、世界有数の大国を手に入れてしまったのだから。

 時に1942年初頭、第二次世界大戦の真っ只中。ソビエト連邦は存亡の危機を迎えていた。首都モスクワの陥落こそ免れたものの、前線の部隊を軒並み撃破され、数百万の死傷者を出していた。工業地帯を奥地に疎開させて猛増産を行っていたが、まだ戦力の回復はならない。暖かくなると同時に、再びドイツ軍の攻撃が始まるだろう。今度は耐えられない。

 そんな国家的危機の中、ソビエトの中枢クレムリン宮殿に一人の男が現れた。あらゆる警戒網を幽霊のように通り抜けて。

 彼は居並ぶソビエト首脳部を前に数々の超常能力を披露し、言った。

『私はヤークフィース。この国を救うために役立ちたい。協力させてくれ』

 首脳部は蒼血の危険性を知りながらも飛び付いた。ヤークフィースは自らの眷属を呼び寄せ、兵士に寄生させ超人部隊を作った。多くの兵士たちの傷を癒した。彼の肉体を研究した科学者により、ソビエトの医学は飛躍的に発達、人体を強化する手段が数多く開発された。人間以上の知性で作戦を立案し、敵の作戦を予測した。彼自ら戦場に出てドイツ軍の高官を暗殺・洗脳して回ることもあった。

 彼は大戦を通じて百万の兵に匹敵する貢献を成し遂げた。スターリン極秘回想録には『ヤークフィースはアメリカの援助以上に役に立った』と明記されている。

 ソビエトがようやく戦争に勝った後も、ヤークフィースは蹂躙された国土を復興させるために尽力した。彼はこうして恩を売りながら、近づいてくる共産党幹部を一人また一人と慎重に懐柔し、時には弱味を握って脅迫し、闇の人脈を広げていった。

 大戦が終わって二十年が経ったころには、彼はソビエトの実質的な支配者になっていた。歴代の書記長は彼が笛を吹くままに踊る人形だった。共産党だけに権力が集中し、いかなる対抗勢力もチェック機構も存在しないソビエトでは、一度膨れ上がった病巣を取り除く術はなかった。

 最後の書記長ミハイル・ゴルバチョフだけは彼の支配に立ち向かい、ソビエト連邦そのものを道連れにしてヤークフィース一党を駆逐することに成功するが、それはまた別の物語である。

 だから殲滅機関に代表される対蒼血組織は、蒼血と交渉しない。降伏しても捕虜にとらず殺す。

「それは分かってる。ボクも何度か、仲間になりたいって申し出て、そのたびに撃たれてるから。だからキミに頼みがあるんだ。ボクが信用できるって証言して欲しい。ボクと殲滅機関の橋渡しをして欲しいんだ」

「なっ」

 痛みすら超えた怒りに、敬介は勢いよく身を起こして怒鳴り付けた。

「俺に裏切り者になれってのかよ!」

「でもキミ、思ってるでしょ。『この力があれば』って。『自分にこんな力があればあれば蒼血をもっと倒せるのに』。

 ねえ、ボクいろんな人間を見てきたよ。だから分かるんだ。キミの目は『力が足りない事を悔しがってる目』。その目、よく知ってる。

 蒼血をもっと倒したい理由、勝ちたい理由があるんだよね?

 お姉さんのため、だっけ?

 ボクを嫌いだという気持ちと、どっちが大事なの?」

「くっ……」

 それを言われてしまうと反論に窮する。

 実際、これだけの戦闘能力が、殲滅機関の情報力と結びつけば凄まじい力を発揮するだろう。たとえ通敵行為に見えたとしても、結果として殲滅機関の為になる、自分の目的とも合致するんじゃないか。

 歯ぎしりして悩む敬介に、凛々子は笑顔で、掌を差し出した。まだ掌では蒼いアメーバが震えている。

「騙すつもりなら、こんな風に弱点を見せたりはしないよね?」

「……べ、別にお前を信用するわけじゃない」

 やっとの思いで言葉を搾り出す。視線を彼女の瞳からそらし、

「道具として利用価値があると思ってるだけだ。いいよ、お前が味方だと証言する。売り込んでやる。一兵卒ごときの意見がどれだけ役に立つか分からないけどな」

「やったあ!」

 飛びついて、勢いよく抱きしめてくる。強靭な装甲がアルミ缶のように軋んだ。とたんに肋骨の痛みが爆発した。

「ば、馬鹿ッ……げほっ……」

 咳き込むたびに痛みが倍加していく。

「あ、ごめん!」

 凛々子は素早く蒼いアメーバを呑み込むと、敬介のフェイスシールドに手を当てる。拳銃弾程度なら弾き返せる強靭なシールドを、軽々と外して投げ捨てる。その下のゴーグルも外した。むき出しになった敬介の顔に、自分の顔を近づける。

「うおっ……」

 何をするのか理解した敬介が呻く。凛々子は顔を傾けて、敬介の唇に唇を重ねる。

 敬介の唇から何かが、柔らかく、滑らかなものが侵入してくる。

 頭の中に、凛々子の声が響いた。

『これで痛くない』

 その通り胸の痛みが即座に消えた。そればかりか手足の感覚がなくなる。意識がぼうっとする。疲れ果てて暖かい寝床に潜り込んだときの、心地よい、安楽な眠気が押し寄せてくる。凛々子の唇の柔らかな感触だけを最後まで感じていた。

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