第20話「ヤークフィースかく語りき」
次の日の夜 「繭の会」本部 嵩宮繭の部屋
その日、敬介は繭に呼び出された。
いったい何の用で。バレたのか。俺が潜入した目的が。
ドアをノックして、しばらく待つ。反応がない。
「入ります、繭様」
ドアを開けて室内に入った敬介は驚愕した。
なんだ、この部屋は。
魔方陣や曼荼羅に埋め尽くされた「いかにも教祖」という部屋を想像していた。
だが部屋にそんなオカルト的なものは一切ない。
広い部屋を、トラックほどの長さがある巨大な机が埋め尽くしていた。
その巨大机の上に、見上げるほどの本の山が二つ築かれていた。何千冊あるだろうか。文庫本もある。ノベルスもある。ハードカバーの外国語の本もある。週刊誌もある。政治団体や宗教団体の機関紙もあった。漫画雑誌すら積まれていた。
その二つの本の山の間に、嵩宮繭……長い黒髪の美少女が座って本を読んでいた。
気品ある整った容姿。
たしかに顔の造作は少女の幼さを残しているのに、恐ろしいほどの威厳が伝わってくる。ただそこに座っているだけで敬介は威圧され、背筋が自然に伸びた。繭は長い睫に縁取られた切れ長の目を、手にしたハードカバーの本に向けていた。しなやかな指がすばやく動いて、フィルムを何十倍に早回しにしたようなスピードでページをめくっていく。
たちまちハードカバーを読み終わってしまうと、立ち上がって山の片方に積んだ。もう片方の山から『季刊 政治討論』と書かれた本を取って、また異常な高速度で読み始めた。
気づいた。山が二つあるのは、片方が読み終わった本、もう片方がこれから読む本、ということではないか。もう数百冊はぶっ続けで読んでいることになる。
「あの……繭様?」
声をかけると、繭はようやく顔を上げ、本を机の上に伏せた。座ったまま微笑み、軽く会釈した。その控えめな笑顔がまた、ぞっとするほどに美しい。
「あ、ごめんなさい。すっかり夢中になって」
繭は毎日数時間、「奇蹟を授ける」と称して、教団を訪れる病人・怪我人を奇跡の力で癒している。それ以外の時間はずっと自分の部屋にこもっている。
何をやっているのかまったく知らなかった。これだけの本を読んでいたとは。
「大変な読書家でいらっしゃるんですね」
「ええ、弱き人類を導き救うため、世界のあらゆることを知らなければいけないので。一晩でざっと千冊は読んで覚えますよ。
ああ、そんなことより」
「私のような若輩に、不勉強な信徒に、いったい何の御用で?」
「かしこまらなくて構いませんよ。わたし、全て知っておりますから。あなたが昨日、本来の人格に戻ったことも。この教団に少しでも内乱を起こすため潜入したことも」
バレた!
バレた場合、どんな行動をとるか、すでに決めていた。相手がすぐにでも自分を殺そうとするなら、その前に少しでもダメージを与えて死ぬ。できるだけ目立つやり方で、教団に一太刀でも浴びせて死ぬ。相手が自分を殺さずにいるなら、だまそうと試みる、そして決定的なダメージを与えられる瞬間を待つのだ。
「あ、暴れても駄目ですよ」
繭は優しく言った。そして軽く手を叩いた。
次の瞬間、敬介の頭の中をたった一つの感情が支配する。
――怖い!
この人が怖い。目を合わせたくない。いますぐ逃げ去りたい。だが脚が震えて立っていることもできない。どうしてこんなに怖いのかも分からない。
「あ……あ……?」
嗚咽を漏らして、その場に尻餅をつくことしかできなかった。
「はい、おわり」
そう繭が言って、また手を叩く。嘘のように恐怖が消えていく。
力の抜けた膝にむち打って、立ち上がる。
「な……なんだ今のは?」
「神の力です。ふざけているわけじゃありませんよ。
あなた方が神の力と呼んでいるモノです。
ほんの、とるに足らない手品なんですけれどね。
ある種の低周波……五感で捉えられない低音が、人間に不安感を与えるってことはご存知ですよね?
その低周波をちょっと応用して、あなたの精神状態を操っているんです。細かい命令はできなくても、怖い、憎い、悲しい……感情くらいなら操れます。人間の脳を知り尽くせば、できます」
催眠術の一種? サブリミリナル・メッセージか? 催眠術は殲滅機関の記憶操作でも使用されるが、なんの薬物も併用せず一瞬で効果を表わすほどのものは夢のまた夢だ。
「ビッグサイトの事件もこれで起こしたのか」
「察しがいいですね。人間の心は、ケチな手品で操れる程度のものということです。
抵抗は無駄だと、分かっていただけましたね?」
確かに無駄だ。いま抵抗しても髪の毛一筋ほどの傷をつけることもできず殺されるだろう。
抵抗をあきらめた瞬間、まだ何も口に出していないのに繭は小さくうなずいた。
「わかっていただければ良いのです。怪我はありませんか?」
「触らないでください。治療はいりません!」
思わず声を荒げてしまった。怒りではなく恐怖のためだ。触られたら頭だって乗っ取られるかもしれない。
「残念ですね、そんなに警戒して……あのですね、わたし、天野さんを殺すつもりなんて全くないんです。
ただ、提案がしたいのです。
天野敬介さん。潜入のことなんて忘れて、殲滅機関なんて見捨てて、身も心も教団に捧げませんか?
お姉さんも、きっとそれを望んでいますよ」
繭の声は決して大きくなかった。むしろ控えめなその声が、魔法の呪文のように耳に突き刺さり胸をえぐった。脳天を殴りつけられたような衝撃に、敬介はふらついた。
すべて見透かされた。
「ええ。見透かしています。昨日、やっと気づいたんですよね。他の方から警告されませんでした? 『姉の本当の幸せが何なのか、ちゃんと考えないと大変なことになる』って。もっと早く気づけばよかったって、泣きましたよね?」
そんなことまで当てるのか。驚きをこめて、汗ばんだ手を握り締めた。
「あ、テレパシーではありませんよ。でも分かるのです。長年の経験で。その人の微妙な仕草、表情や声のトーンの変化で。その人が本当に大切にしているものは何か、どこで嘘をついているか読めてしまうんです。わたしは色々な人間を見てきましたから」
「それで……その力で……ソビエトの要人を操ったのか」
喉がカラカラで、いがらっぽい声しか出なかった。
心から実感した。凛々子の時にはピンと来なかったが……フェイズ5の蒼血は人智を超えた怪物なのだ。たとえあどけない少女の姿をしていてもだ。
「まあ、一言で言えばそういうことです。これと感情操作を合わせれば、誰も逆らえませんでした。さて天野さん、お返事はいかがですか?」
こいつは俺の心をすべて読めるのだ。だから口先で「はい」と言っても仕方がない。
もう、どうにでもなれと、吐き捨てた。
「いやだ」
「なぜでしょう?」
細く、美しく整った眉毛をこころもち下げて、繭は首をかしげる。
「決まっている。お前たちは人間を騙して、殺してるからだ!」
「そうですね。これからだって騙します。殺しますよ。種族の生存を賭けた闘争ですから。手段を選んでいられません。でも、そんなこと天野さんにとって重要ですか? 赤の他人の生命と、お姉さんの幸福とどちらが大切なのですか? 決まっていますよね、お姉さんが全てだからこそ、あの時パニックになってしまったんですよね? もう答えはひとつしかないじゃありませんか」
「駄目だ。お前たちの目的は分かっている。今は平和に宗教なんか作っても……仲間を増やして、人間社会を乗っ取っていく。それが本当の目的だ。姉さんだってお前たちが頭に入り込んで、自分では何も考えられないようになるんだ。そんなのを認めてたまるか。絶対に駄目だッ」
なぜだか大声になった。額に噴きだした冷や汗をスーツの袖でぬぐった。
「たしかにわたしたちは人間を宿主にします。でも、今はまだまだ数が少ないんですよ? 殲滅機関も正確な数字は把握していないでしょうから、お教えします。いま日本に生息する蒼血は、だいたい1300。全世界で8万3000体です。たったそれだけですよ? すでに教団の信徒は七十万人を超えています。すべての蒼血が日本に集まっても余裕たっぷりです。七十万体まで増えるのに何年かかることか。その間に信徒もさらに増えますからね。お姉さんの体をお借りするのは当分先の話です。それまでの間、お姉さんは自由です。どうですか、天野さん」
「それでも駄目だ。お前たちの企みがずっとうまく行くわけがない。殲滅機関はちゃんと教団の襲撃計画を練っている。ここに蒼血が何体いるか知らないが、きっと総力攻撃をかければ潰せる。お前たちに未来なんてないんだ。誰が協力するかっ」
また声を荒げてしまった。また額の汗をぬぐった。部屋の中はセーターを着たくなるほどの気温なのに汗が止まらない。
「騙されないぞ。お前たちは……神様なんかじゃない。支配種族なんかじゃない。薄汚いアメーバだ」
あの五年前の冬の日、はじめて蒼血を見たときの嫌悪感を思い出そうとした。
「焦っていますね? 内心では、わたしの言葉に魅力を感じているんでしょう?
そうですね……たとえ話をしましょうか。
これ、この1000円札ですが」
そう言って繭が手を掲げると、細い手のひらの中に1000円札が出現した。一体どこから持ってきたのか、取り出す仕草などまったく見えなかった。
「これ、何だと思いますか?」
「カネだろう」
「違います。これは紙切れです。この世の実在としては、ティッシュペーパーの仲間でしかありません。けれど、お弁当と交換できます。たくさん集めると車や家だって買うことができます。少し凝っているだけの和紙が、お弁当や自動車と同じ価値がある……何の役に立つものでもないのに。これほどの非合理はないのですよ。でも、実際にお金は使えます。『これはお金だ』『物と交換できるんだ』『そういう力があるんだ』って、みんなが思っているからです。その共通認識が、紙切れに力を与えています。
貨幣経済というのは信仰以外の何物でもない。信じる心が力になるのです。
なるほど、わたしは薄汚いアメーバです。けれど、そのアメーバを神だと信じる人たちが何千万、何億と増えれば、わたしはもう本当に神なのですよ」
繭の手の中から千円札が消え、かわり大きなファイルが現れた。繭はファイルを開いてみせる。
入会申し込み
鈴木誠二
職業 代議士 自由言論党所属
政治家だ。ニュースでよく名前を耳にする大物代議士が入信したという書類だ。
繭はファイルをゆっくりとめくっていく。入会申し込みの書類がたくさん閉じられているようだ。
代議士、これも代議士、こちらは銀行の頭取、こちらはテレビ局の名物アナウンサーや司会者がずらり。局長まで。全国チェーンのスーパーの創業者がいる。大病院の院長もいる。警察署長も何人か含まれている。
「わたしを神と思う者は、増える一方です。いずれ殲滅機関といえど手を出せなくなります。日本の政治、財界、官僚組織全てを道連れにする愚はおかせないでしょう。あと半年もあれば十分です」
これほど日本社会への浸透が早いというのか。これが、「神なき国の神」ヤークフィースの実力。
恐怖をおぼえながらも敬介は反駁した。
「半年なんて……殲滅機関がそんなに手をこまねいているわけがあるか。あと少しだ。あと少しで……明日にだってきっと攻撃がある!」
「いいえ。機関はまだ教団を攻撃できません。時間稼ぎは大成功です。殲滅機関は、蒼血の存在を秘密にしていますから。教団を攻撃する偽の理由をでっち上げないとなりません。攻撃するところを一般市民に見られても困りますしね。たとえば『教団がテロをたくらんで兵器を集め、仲間割れをして共倒れになった』とか……そういったシナリオを作り出す必要があるわけです。わたしたちの教団がマスコミや政治家に食い込めば食い込むほど、そういうでっち上げは難しくなりますよ」
言葉に詰まった。そこで繭はふわりと、上品に微笑むと、問いかけてきた。
「ひとつだけ、すべてを解決する方法があります。わたしの人心掌握も、教団の組織力も無力化して、いますぐ教団を潰せる方法があります。なんだと思いますか?」
「見当もつかない」
「そうでしょうね。五年もの間、殲滅機関の思考法にどっぷり漬かってきたあなたには。
それはね、全てを公表することです。
蒼血という生物がいることも。
その生物が人間に寄生して操ることも。
フェイズ1から5までの能力も。
わたしたち13体のフェイズ5について……
そうやって全情報を明かして、わたしの危険性を国民に分かってもらってから攻撃すればいいのです。
それなら、情報操作の必要なんて何もありませんよ」
何を言い出すかと思ったら、そんな馬鹿げたことを。
殲滅機関に入隊したばかりの下っ端でも、不可能、あり得ないと知っている。
蒼血の存在を人間社会にバラせば巨大な混乱が生じるからだ。あいつが蒼血なんじゃないか、あいつも? 互いに疑心暗鬼に駆られ、わずかに仕草や言葉遣いがおかしいというだけで「こいつが蒼血」と決め付けてリンチにかけるだろう。情報局が行ったシミュレートによると、ナチスのホロコーストのような大規模な虐殺がそこら中で起こり、人類社会全体で数千万人の死者が出る。文明そのものが崩壊する危険すらある。
『蒼血の存在を秘匿すること』。
それは蒼血の殲滅と両輪をなす、殲滅機関の目的であり大原則なのだ。
当惑が表情に出たのだろう、繭はくすりと声に出して笑った。
「そんな顔をしなくても。知っていますよ、殲滅機関が秘密を守っている理由は。
けれど、それって『人間を信じていない』と思いませんか?
人間は確かにホロコーストを起こしたが、いまは理性的に行動できるはずだ……そう信じているなら、公表すべきです。人類全体で、蒼血に対処しましょうよ。
でも、ぜったいに公表できない。どうしてだと思います?
人間を馬鹿にしているからです。
人間は愚かな、無能な生き物。
お前達ごときに正しい判断ができるわけがない、俺達エリートに任せておけと。
民衆を侮蔑しているという点に関しては、殲滅機関も相当なものですよ?
それに。殲滅機関は目撃者の記憶を操作して、蒼血事件のことを普通の犯罪やテロに見せかけていますよね。
その記憶操作のせいで、どれだけの被害が出ているかご存じですか? 自分の娘が自殺したと聞いて心を病んでしまった母親。親を殺人犯に仕立てあげられたおかげで崩壊した家庭。
どうです、あなたも聞いたことがありますよね?」
「……それは……」
敬介は口ごもった。
記憶操作が多くの悲劇を生んでいるのは事実だ。記憶操作1000件につき最低でも0.3人、多い場合は8.5人の自殺者が出ることが知られている。殲滅機関ではこの自殺者数をハーマン係数と呼び、1.0未満であるなら記憶操作は成功と考えられているのだ。
「独りよがりなプライドのため、おおぜいの人を死なせて……殲滅機関のどこに正義があるというのでしょう」
口の中がカラカラに渇いて不快だった。震える声を、なんとか絞りそうとした。
「だが……」
言葉は途切れた。唇が凍り付いて喋れなかった。
どう言っても言い負かされる。そんな気がした。自分の言葉は虚しく空気を掻き回すだけだ。いっぽう繭の言葉は的確に臓腑をえぐってくる。胃袋の中に冷たい鉛の塊を埋め込まれたように苦しい。
「あなたは覚悟していなかったのですね。いまさらになって悩むなんて。
ただ、なにも迷わず悩まず、目の前にいる敵だけを討って来た。それだけの人生だったんですよね。
それはね、天野さん。ちっとも強くなんかありませんよ。
視野が狭いだけ。目を背けてきただけです」
凍てつくような冷たい声が、敬介の臓腑をえぐる。
呼吸が止まった敬介に、繭は一転して優しく微笑んだ。恐ろしいほどに整った顔に浮かんだのは蕩けるほどの優しい笑みだ。「女神」の微笑。
胸の中に、唐突に安心感が溢れた。
……この人は俺を救ってくれる?
……この人のそばにいれば俺は苦しまずにすむ?
敬介は目に見えない力に引かれたかのように、ふらりと一歩踏み出した。机の端にぶつかって繭に倒れこみそうになった。
我にかえった。
……俺は今、なにを考えていた?
「恥ずかしがることはないのですよ」
繭がまだ微笑を浮かべたまま小さくうなずいた。
「迷えるものが神にすがるのは当然のことですから。
救って差し上げますよ。わたしに全てを預けてくれれば。
それ以外、貴方が幸福になる方法はありません」
発作的に机を掌で叩いて、語気荒く叫んだ。
「じょ、冗談じゃない! 誰が! 騙されないからな!」
回れ右して、部屋から飛び出す。
肩をいからせ、足早に歩いた。どこに行こう、とは考えていない。自分の部署である警備部に戻るか。それともどこかで気分転換をするか。休みを取って家に帰ってもいいが、いま姉に出くわしたらどんな態度をとればいいのか……
廊下の角を曲がった途端、若い女性の信者に出くわした。
「きゃっ」
敬介の顔を見るなり、女性信者は悲鳴をあげて飛び退いた。脇に抱えていたクリアファイルを落とした。
敬介はファイルを拾い、頭を下げた。
「すみません、驚かしてしまって。……そんなに怖い顔でしたか?」
女性信者はまだ腰の引けた様子で、
「いえ、怖いというより、泣きそうな顔ですが……」
「え? 泣きそう?」
「はい。なんというか、顔全体が、泣くのを必死になって我慢してる子供みたいな……びっくりしましたよ。なにがあったんですか。繭様のお力におすがりしてみては」
「いえ……なんでもありません」
女性信者がいなくなっても、敬介は己の頬に手を当てて、呆然と立ち尽くしていた。
俺は怖いのか。泣くほど怖いのか。ヤークフィースの言ったことが。
俺はどうすればいいのだろう。
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