第19話「姉の幸福」

 二〇〇八年三月一日 夜

 東京都千代田区 『繭の会』総本部


 敬介は、気がつくと豪華な部屋にいた。ソファとガラステーブルの置かれたダイニングルームだ。

 靴の裏に、毛足の長い柔らかな絨毯を感じる。乳白色の間接照明で照らされた天井はジャンプしても届かないほどに高い。大きな窓の外に夜景が見える。ここは二十階かそこらの高層階のようだ。闇に輝く首都高速都心環状線。そして闇そのもののような皇居。東京中心部が一望できる。他にも高層のビルが何軒か窓を光らせている。

 そして大きなガラス机の向こうには、豊満極まりない乳房をビジネススーツに押し込んだ、派手な顔立ちの美人……教団広報部長が座っていた。

 とろんと潤んだ目で敬介を見上げて、こう言った。

「お座りなさいな、信徒天野」

 頭を強烈な眩暈が襲った。

 なんだ? なにがどうなっている?

 いま、どうして俺はここにいるんだ?

 冷たい汗で濡れた手を顎に当てる。思い出そうとする。自分は殲滅機関の……死刑判決が出て……

 頭の中で一気に記憶が弾けた。この一月ばかりに起こったことが全部まとめて再生された。体中に冷や汗が吹き出した。ありったけの意志力を動員して表情筋を黙らせた。

 そうだ、俺は教団に潜入したんだ。

 偽の人格はうまく機能した。教団に入った俺は、過去の経歴を生かして警備担当になった。ヤークフィースは、俺が殲滅機関の人間だということをわかった上で取り立ててくれた。

 いま俺がいるのは、新しい教団本部。老朽化した都心のホテルをまるごと買い取ったものだ。

 いま、この女と二人きりになったから偽装人格が解除されたんだ。

 俺はいま、来週の教団儀式について話し合いをするために広報担当に呼び出された。

「はい」

 そう答えて、ソファに座った。

 表情に出てないよな? 大丈夫だよな?

 手のひらが汗でベタベタだ。硬く握ってひざの上に置く。

 エルメセリオンは信用されてない、きっと、この部屋にも監視カメラの類があるはずだ。俺が記憶を取り戻したことを口には出せない。瞬きで伝えるのも危険だろう。同じ手が何度も民度見逃されるとは思えない。

「あなたに来てもらったのは、来週の『覚醒の儀』の警備体制についてうかがいたいから。せっかく歌手の方が何人も信徒になっているというのに、なぜ歌のイベントに二百人しか入れることができないの?」

今度は、わざわざ思い出そうとするまでもなく対応できた。

「その件についてはすでに申し上げたはずです。会場が狭すぎて危険なのです。われら信徒は、あまりに熱狂的であるため……広報部長は警備部の苦労をまったく分かってくださらない」

 何気ない対応をしつつ、手を伸ばす。広報部長の手を取ろうとした。

 手を握って、掌を突いてモールス信号で伝えるつもりだ。

 だが手が触れた瞬間、掌にチクリと痛みが走った。

 痛みは冷たさに変わって腕の中に潜りこみ、一瞬で肩を越え、首の上まで駆け上がった。

 今までの人生で一度も感じたことがない異様な感覚だ。

 頭の中に澄んだ可愛らしい声が響いてきた。

『ああ! やっとか! 長かったよ敬介くん。長すぎだよー! もう、待ちくたびれちゃったよ!』

 懐かしい凛々子の声だ。

 明らかに鼓膜ではなく、頭に直接声が届いている。ありえない現象に悲鳴を上げそうになった。空いているほうの手を口に当てて、なんとか声を押さえつけた。

『びっくりしちゃった? ごめんごめん……でもさ、蒼血にこういう能力があるのは知ってたでしょ?』

 もちろん知っていた。いま凛々子は、自分の神経を相手の体内に伸ばして脳まで繋げたのだ。こうすれば思考を直接やりとりすることができる。相手の体をコントロールすることも可能だ。

 敬介は何か言おうと、頭の中で台詞を組み立てる。

『俺が記憶を取り戻したって……俺が何かする前から気づいたのか?』

『当然だよ。なにか殲滅機関の人たちに処置をされてるんだろうな、っていうのは想像していたわけ。やっぱりなって感じ。それにね、敬介くん、人格ごとに顔つきが変わっちゃってるんだよ。人間観察の経験が豊富ならわかるよ』

『そうか、お前も気づいたんじゃ、ヤークフィースの奴も……』

『すぐにバレるだろうねえ……』

『そうか、それなら今しかないな。なあ、俺が送り込まれた目的というのは……』

『力を合わせて、教団に内乱を起こせって言うんでしょ? だいたい想像できるよ。でもね、難しいんだ。ほら、ボクは首だけになっちゃったじゃない? この体はね、ヤークフィースがくれたものなんだ。体の中にあいつの側近が入って、ボクを二十四時間監視してるんだ。こうやって声に出さずにしゃべっていればバレないと思うけど……でも、怪しいことをしたら、首から下のコントロールを取られる。内乱なんて起こせないよ』

 そこまで言ったところで、凛々子が敬介の手を離した。肉声に切り替えた。

「警備の苦労、ですか……」

 そこで悩ましげに微笑み、足を組んだ。

「我らが教団を大きくすることと、どちらが重要だというのでしょうか……?」

 ああ、そうか。あまり黙っていると怪しまれる。声に出しての会話もやらないと。

 そう気づいた敬介は、なんとか話をつなげようとした。

「大きな事故が起こってしまってからでは遅いのです。教団を襲う勢力もあります」

「つまり計画の変更はできないということですね? わかりました、残念ですが仕方ありません。下がりなさい。これからも教団のために尽力なさい」

 そう言って、また手を握ってきた。

 たまらず、強く台詞を念ずる。

『なんとか監視の目が緩む瞬間はないのか?』

『難しいねえ。一体だけなら気が緩むこともあると思うけど、二体いるからねえ。難しいよ。あえて言うなら……攻撃を受ける瞬間かな?』

『え?』 

『この教団が、殲滅機関に攻撃されて、ヤークフィースの命が危うい状態になったら、ボクの監視どころじゃなくなるかも。主を守りたいって気持ちが一番強いはずだもんね。まあ、そんなことより』

 そこで思考の伝達を一度切って、凛々子は敬介のことをまっすぐに見つめてきた。

 いまの凛々子は、体型といい顔立ちといいまるで別人になっている。それなのに、目を見た瞬間にわかった。

 ああ、やっぱりこいつは凛々子なのだと。

 いつの間にか、蕩けるような熱っぽく、妙に焦点の合わない目つきをやめている。

 澄んだ目、強い意志を宿した目になっている。

 思わず敬介が見つめ返したとき、一言だけ思考言語を送ってきた。

『会いたかったよ』

 たったそれだけの言葉が、敬介の胸に深く染み渡った。体の奥のほうがぎゅっと締め付けられたようなうれしさが襲ってくる。

 目頭が熱くなったのに気づいて、いそいで凛々子の手を振りほどいた。立ち上がった。

「では失礼します」

 できる限り感情を殺した声で言って、退室した。

 元がホテルだっただけのことはあり、廊下は幅広く、各所に絵が飾られて高級感にあふれている。凛々子と出会った、あの富豪の屋敷と比較しても遜色ないほどだ。

 壁にもたれかかり、嘆息する。

「はあ……」

 落ち着け。

 自分にそう言い聞かせる。

 これは潜入作戦なんだ。凛々子に会ったからといって終わりでもなんでもない。これからなんだ、これから……

 わかってはいるが、それでも嬉しい。

 そうだ、姉もいる。姉は元同人作家のスキルを生かして広報部に所属、教団PR誌の製作に関わっている。あとで姉に会いに行こう。

 などと考えた瞬間、すぐ近くのエレベーターのドアが開いた。スーツ姿の男女数人が吐き出される。その中に姉がいた。

「あ、敬介」

 すぐに敬介に明るい声をかけて走り寄ってきた。

 姉はほっそりした体を地味なスーツに包んでいる。顔も化粧がほとんどないが、そんなもの必要ないほどに若々しい表情で、明るい笑顔を向けてきた。

 敬介は両手の指を組んで『繭の印』を形づくる。

「……こんばんわ姉さん。『我ら弱き人の子が、健やかに繭から羽ばたけますように』」

「うん。『羽ばたけますように』。敬介なんて言っちゃだめかな。もう警備の偉い人だもんね、第三隊長だっけかな?」

「あ、ああ……姉さんこそ……すごいじゃないか……たしか……こないだの雑誌に4コマを描いて……」

「大したこと無いよ、もっと実績ある漫画家さんがたくさんいるのに……あ、紹介するね敬介。こちらの方が、週刊少年マンデーに連載していた藤原フミカ先生。こっちの人がヤングファンの菅野ケンヂ先生。それからこっちの……」

 連れていた人たちのことを紹介してくれる。マンガを読む趣味のない敬介だが、それでも名前くらいは聞いたことがある売れっ子だ。

「みんな、繭様とともに歩む道を選んでくれたの!」

「それはすごい……」

 思わず感嘆せずにはいられない。

 神の使い・繭が降臨した場所がコミックマーケットだけあって、信徒には漫画家やイラストレーターが多い。アマチュアの漫画家志望を含めれば何千人という数になり、宣伝担当には事欠かない。だが、ここまで一般に人気のある漫画家が入信したとなると世間へのアピール力もだいぶ変わってくる。

 姉は華奢な手を胸元で合わせ、熱く語りだす。

「あのね、この先生方がみんなで、普通のPR誌とは別に、繭様の考えと世界観を伝えるための漫画雑誌を作らないかっていってくれたの。だから広報部長に話を通しておきたくて……」

 数人の漫画家のうち一人、がっしりした体格で髪を後ろでまとめた男が、柔らかな笑みを浮かべて口を挟む。

「先生方、なんて言い方はやめてください。私たちはみんな同格です。同じ『心弱き者』。『繭様の導きを待つ者』です。人間世界の社会的地位など無価値なものだと、繭様が教えてくださったじゃありませんか」

「そうですね……私……まだ繭様の教えの勉強が足りなかったみたい」

 さも恥ずかしそうに目を伏せる姉。だが口元は緩んでいる。目がわずかに潤んでいるのもわかった。恥ずかしくて泣いているのではない。信仰で繋がった仲間がいることが嬉しくて泣いているのだ。

 姉さんは、幸せなんだ。心から。長い長い闇からようやく解放されたのだ。

 敬介はそう心の中で呟いた。自然と自分の顔も緩む。


 ――その瞬間、「それ」が来た。


 脳のどこかでパチリとジグソーパズルがはまった。姉の柔らかな微笑を、自分が今ここに立っているということを、まったく違った意味に感じた。

 杯の絵だと思っていたものが、「向かい合った二つの顔」だと気づいてしまった瞬間のように。

 恐怖が押し寄せた。寒気が背筋を駆け上り、鳥肌がズボンの下を覆った。筋肉という筋肉が小刻みに痙攣した。耳の奥で鼓動が騒ぎ立てていた。

「ご、ごめん姉さん! ちょっとトイレ!」

 きっと死人のような顔色なのだろう。こんな顔を姉さんに見せたくない。廊下を駆けて、近くのトイレに逃げ込んだ。

 洗面台の大きな鏡で自分の顔を見る。やはり顔面は蒼白、おまけに恐怖にこわばって、目には涙すら浮かんでいた。もう耐えられなかった。豪華な洗面台の縁をつかんで、倒れこもうとする体を何とか支えて、泣き出した。口元を片方の手できつくふさいで、声が漏れるのを防いだ。だが冷たく気持ちの悪い涙が止めどもなくあふれ出して頬をぬらしていく。

「うぇっ……うぇっ……」

 ……気づいてしまった。

 ……俺は馬鹿だ。こんな簡単なことになんで気づかなかったんだろう。

 ……姉さんは今、幸せなんだ。長い間得られなかった幸せ、俺の力ではプレゼントできなかった幸せを、教団に入ることによって得たんだ。この十年間で、姉があんな屈託なく笑ったことが何度あったか。

 ……それを、俺は壊そうとしている。教団を裏切って、殲滅しようとしている。

 ……そんなことしちゃいけないんだ。姉が大事ならば。潜入任務のことなんて忘れて、教団のために力を尽くすべきなんだ。むしろ殲滅機関なんて叩き潰すべきなんだ。

 ……俺は何もわかっていなかった。「自分が死刑になる」なんてのはどうだっていいことだったんだ。

 ……本当に大事なことについて、何も覚悟していなかった。

「凛々子……」

 震える声が唇から漏れた。

「お前は……これが言いたかったんだな……」

 電車の中で言われた台詞が脳裏でよみがえり、いまの敬介を鋭く刺す。

 姉さんにとって幸せとは何か。自分は本当は何がやりたいのか。

 それを突き詰めて考えずにいたからだ。蒼血や裁判という、目の前の敵だけを見ていたからだ。 

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