第37話「千の戦い、万の敵」

 10分後

 地下駐車場


 漆黒の闇の中で、戦いは続いていた。

 音と熱源で判断し、巨獣のいる方向に向かって敬介は走る。

 柱の陰から柱の陰に飛び移りながらジグザグに近づいていく。

 風切り音とともに水流が飛来。一瞬前まで彼が隠れていた柱に激突。大きな弾痕を作る。

 戦いが始まって十分あまり、すでに数千の攻撃を互いに放っているが、敬介の有効打は尻の穴をえぐった一回だけだった。

 有効打を与えられない理由は……

 数メートルの距離まで敬介は迫った。ここから先、障害物はない。柱の陰から飛び出して疾駆する。

 同時に、柱のコンクリートの破片を投げつける。深手を負わせることは期待していない。せめて注意を逸らすことができれば。

 と、熱源映像で異変をとらえた。巨獣の肩から突き出している肉の砲身が、眩しさを増す。

 筋肉の異常収縮。マッスルガン発射の兆候。

 弾道を予測。とっさに体を捻り、走りながらも左右に進路を捻じ曲げて回避を図る。

 予測が甘かった。脇の下や肩を水の弾丸がかすめる。下半身は避け切れない。一筋の水流に膝を撃ち抜かれた。足がもつれ、倒れこみそうになる。身体がふわりと浮いてしまう。足場のない空中では回避方法が限定される。何とか足を着こうとあがく。その動きを完璧に予測されていたのか、第二第三の水流が来る。頭に、胸板に、また足に水流が着弾する。

 頭の中が衝撃で真っ白になる。足の筋肉が痙攣する。もう立っていられない。吹き飛ばされた。反射的に手を突いて、側転を繰り返して逃げる。全身のバネの力を振り絞って、わずかでも早く、巨獣から離れて柱の陰に。すぐ近くで水流の着弾音、コンクリートの砕ける音。

 やっと柱の向こうに逃げ込めた。

 ……また攻撃に失敗した。こんなことを、どれだけ繰り返しただろう。

 圧倒的な体格差を覆すには超接近戦しかない。組み付いて急所を狙うのがいいだろう。

 だが、敵の火力が強力すぎて近づけないのだ。

 柱から敵まで、自分が無防備になる数メートル。この数メートルをなんとか守れれば。

 ……やってみるか?

 ゾルダルートは巨体を躍らせ、走り出す。敬介がいる柱の裏側に回り込もうとする。敬介がそのまた裏側に回る。ゾルダルートがさらに回り込む。絶えず射撃を続けながらだ。

 結果としてゾルダルートは緩やかな螺旋を描きながら敬介に近づいてゆく。敬介のいる柱は全周囲から均等に水流を浴びせられ、食べかけの林檎のように細く削れていく。

 大型トラックを縦にしたほど巨大だった柱は、いまや人間ほどの太さしかない。

「……ぬあああっ!」

 突如として敬介は蛮声を張り上げ、細くなった柱に両掌を叩き付ける。コンクリートが乾いた破砕音とともに割れる。渾身の力で、敬介は柱を抱え上げる。腕の筋肉が膨れ上がり、柱が宙に浮く。

「小僧! はかりおったな!」

 意図を悟ったゾルダルートがいまいましげに吐き捨てたが、もう遅い。敬介はコンクリートの柱を抱え、盾にして突進した。太さ数メートルの柱を持ち上げることはできない。だから敵を利用して、持てる大きさまで削ったのだ。

 水流が何度も何度も柱を撃った。ビスケットのようにたやすく削れ、えぐれていく。

 厚さが半分になり、三分の一になり、幅も小さくなって、もう体を隠しきれない。

 肩に水流がぶち当たった。筋肉が抉れ、骨を水流が叩く。

 ともすれば痙攣をおこしそうになる腕を、肩を、胸をあらんかぎりの意志力で抑え込んで、ただ敬介は疾駆する。

 最後に残った、丸盆ほどのコンクリート塊がついに砕けた。

 しかしその時、すでにゾルダルートは目の前、格闘ができる距離。

 身をかがめ、獣の頭の下にもぐりこみ、全身の力を束ねた鉄拳を打ち上げる。狙うは喉。

 と、そのとき熱源視界を、真っ白い何かが埋め尽くした。

 え?

 と思う間もなく、巨大な衝撃が下から顎を撃ち抜いた。眼球の裏で何百の星が散る。頬骨と頬肉が抉られ、頭全体が凄まじい勢いで振り回される。頭蓋骨の中で脳が揺さぶられ、ぼやける意識。なんとか繋ぎとめる。

 たった一撃で、顔の右下四分の一を、肉も骨も刈り取られた。

 体の勢いは止まらず、突き上げた腕は相手の喉に達したが、体の軸がぶれているので打撃力を発揮しない。分厚いゴムのような皮膚に弾き返された。

「かはっ……!」

 強烈なアッパーカットを食らったのだ、こちらの攻撃よりも数段早く。

 そう理解して、よろめく体を建て直し、足を踏ん張った時。

 また熱源視界の中で真っ白いゾルダルートの巨体が膨れ上がる。

 体当たりだ。一個の弾丸と化して飛び込んできた。避けようと体をひねって、足がもつれる。

 腹と胸に、一抱えもある頭部が激突。

 鉛の塊を何千気圧で高圧注入されたような重い苦痛。肋骨がまとめてへし折れ、肺が潰れてすべての空気が強制排出される。圧迫された胃が破裂するが、苦悶の声さえもあげることができない。

 体をくの字に折って、吹き飛んだ。

 壁と天井に激突し、自動車の上を身体がバウンドする。ようやく床に落ちた。呻こうとして、血の塊が口から飛び出した。

『エルメセリオン! 早く肉体を修復してくれ!』

『来るぞ!』

 頭上にごう、と風切音が迫る。奴が飛んでくる。降ってくる。

 胸の中で暴れる激痛を無視。体をひねり転がって避けようと試みる。

 間に合わない。奴の動きは数倍早い。

 巨大な破城槌を打ちつけるような音とともに、奴は着地してきた。

 敬介の体の上に。

 敬介の手足一本ずつを、獣の手足で押さえつけて。

「があっ……!」

 包丁を並べたような爪が筋肉組織を食い破り骨に達した。爪が微かな唸りを発する。高周波を流しているのだ。切断力が桁違いに跳ね上がり、敬介の臑を。前腕を。爪が貫通した。もう動かせない。意志を無視して出鱈目に痙攣するだけだ。

 完全に体を固定された。

 即座に次の攻撃が襲ってくる。巨獣の下腹部に並ぶマッスルガンが、敬介の下半身に向かって一斉に撃ちおろされた。わずか一メートルの高さから超音速水流が殺到する。何度も、何度も。

 最初の一撃で針状装甲が消滅。

 次の一撃で腹筋に大穴が穿たれた。

 三度目で内臓が数十の断片に分解され。

 四回目で腰骨と腰椎がついに打ち砕かれた。

 もう痛みすらない。神経さえも残っていないのだ。

 見ることはできないが、おそらく臍から腰にかけての肉体の全ては、バラバラの肉片骨片になって飛び散リ、水に流されてコンクリートの床を広がっているのだろう。

 下水を漂う残飯のように。

「……!」

 もはや悲鳴をあげることもできない敬介。顔面の筋肉がわななき、口からは荒々しい息が溢れる。

「……愚かよのう。接近戦ならば勝てるとでも思ったか、儂に?」

 生臭い吐息と一緒に、ゾルダルートの声が降ってくる。奴はたった数十センチの高さまで顔を下げているようだった。

「痛かろう。恐ろしかろう。すぐに楽にしてやる」

 ゾルダルートの声は優しげですらあった。戦士に対する敬意、というものが欠落している。遥かに格下の存在を、苦笑しつつたしなめるような。

 舐められても仕方がない実力差ではあった。周りに人がいない、全力発揮が可能な場所では、ゾルダルートはこんなにも強いのか。

 だが敬介は。

 痛覚信号の奔流で脳髄を灼かれながら。鋭く、鮮やかに、思った。

『こんな物、誰が痛いものか。』

『この程度、何が怖いものか。』

 なぜなら知っているから。

 本当の痛みを。

 ――愛する姉が、殺されてしまった。もう一人の大切な人を、自分の手で殺めてしまった――

 真実の恐怖を。

 ――俺はこの道を行くと決めたから、俺は決して姉の仇は取れない――

 だから。敬介は冷静だった。その心は澄み渡っていた。

 わずかに残っている、臍から上の部分を再生させる。肺と肋骨を繋ぎなおす。肉の量が足りない、腕を生やすことはできないか……?

 そして考えていた。脳細胞を焼き切れんばかりに高速稼働させて、この場を脱する策を。どうにかして逆転の手段はないかと。

 だが考えても考えても浮かんでこない。

 浮かんでくるのは、頭の中で火花のように弾けるのは、凛々子の思い出だけ。

 ――『ボクはエルメセリオン。九十九歳なんだけど十五歳って思ってくれると嬉しいな』

 ――『ところで敬介くん、デートしない?』

 ――『だってロマンスカーの頂点VSEだよ! 天空からトランペットの調べが降り注ぐよ!』

 ――『宇宙船みたいだね、ぎゅーん!』

 ――『一皮向けば同じでも。ボクはその一皮を、絶対に脱がない!』

 ――『ボクはそれを知ってる。たくさんの戦場で、たくさんの復讐者を見たよ! でも、みんな!』

 ああ、凛々子。かけがえのない思い出。

 これから幾万回、幾億回、思い出すたびに胸を締め付け、だが力を与えてくれるだろう思い出たち。

 だが、いま必要なのは思い出ではないのだ。

 いま目の前の敵を倒せなければ、『これから』など来ないのだ。

 思い出じゃ駄目だ、具体的な戦術を……!

 生半可な攻撃では、奴の細胞配列変換で再生される。

 一撃必殺の手段を……!

 だが、浮かんでくるのは凛々子の表情、台詞……

 水族館での台詞が、ふと心に引っかかった。

 お前は本当に好みが男の子みたいだな、と言った敬介に、凛々子は膨れっ面で答えたものだ。

 ――『そんなことないもん。イルカとかも好きだもん。とくにシロイルカとか凄いよ。オデコのところに超音波を集中させるレンズがあって、超音波で敵を攻撃するんだよ? かっこよくない?』

 そういうところが男の子だって言ってるんだ、と敬介は笑ったはずだが。

 まて。何かが気になる。

 超音波……? 細胞配列変換?

 ハッと気がついたときには、ゾルダルートはすでに顎を開き、敬介の首筋に噛みつくところだった。極限まで加速された時間感覚の中ですら、顎の動きは滑らかで速い。猶予は、あとわずか。

『エルメセリオン!』

 呼びかけた。

『何だ?』

『一瞬だけ、奴の隙を作れるかもしれない。一瞬で、手足を再生させて攻撃できるか?』

『細胞の数があまりに足りない。それに蒼血細胞も、大部分が流れ出してしまった。大きな負担をかけて蒼血細胞をたくさん死なせて、それでも成功率は……二割というところか』

『上等だ! やってくれ!』

『なにをしようというのだ?』

『後悔させてやるのさ! ――無駄口叩いて、おれに時間をくれたことを!』

 敬介は、体の中にわずかに残る脂肪分を集めて額に配列。

 特殊な脂肪組織の円盤――超音波を収束する生体レンズ、「メロン器官」を作り出す。無論、実物のシロイルカを遥かに上回る高出力の物だ。

 そして肺の中の空気のありったけで、吼えた。

 咆哮はレンズを通り向けて一本のビームとなって空気をつんざく。目の前であんぐりと口を開けるゾルダルートの顔面に吸い込まれ、その頭蓋の内側で焦点を結んだ。

 突如として膨大な量の超音波を注ぎこまれた脳漿が、爆発的に沸騰。何万何億の微細な気泡が溢れて頭蓋骨の中を埋め尽くす。

 キャビテーション現象。超音波洗浄器と同じ現象を、巨大な出力で再現。

 無数の気泡が弾けて脳を叩き、全方位から脳を押し潰す。

 脳の血管の中でも同様のキャビテーションが起こり、血管が気泡で埋め尽くされて血流が停止する。酸素が脳に送られない。

 変化は劇的だった。顎を開いて首をくわえ込もうとしていた、ゾルダルートの頭がぐらりと傾ぐ。体全体が脱力し、大きく揺れて、倒れそうになる。手足をじたばたと動かしてなんとか転倒を防ぐが、その動きはあまりに鈍く、無駄だらけで、まるきり泥酔者のそれだ。

「アガッ……オウッ、き、きさ……ま……っ」

 口から泡を噴き、憤怒の声を垂れ流すゾルダルート。だが体はふらついたままだ。 

 脳漿も血液も、細胞成分に乏しい。だから「細胞配列変換能力」では治癒できない。間接的な手段で回復させるしかない。通常の負傷より回復は遅くなる。

 その間に敬介は、跳んでいた。

 首の筋肉の力だけを使って床を叩き、反動で跳躍。

 もし闇を完全に見通す目の持ち主がここにいたならば、世にも奇妙なものを見ただろう。

 いまや敬介は腕も足もなく、ただ頭部と胸部だけが残っている状態。折れた背骨が胴体の断面から突き出している。

 そんな屍にしか見えない物が跳躍し――空中で融ける。

 頭も肩も胸も、残っている肉体の全てが液体に変化する。

 蛹の中で、芋虫から蝶へと姿を変える時のように。

 すべての細胞結合を解除して、内臓も骨も原形質に還して、組み立て直す。

 コンマ一秒に満たない時間で、新たに液体が人の形を成す。

 身長はたかだか一メートル。手足は幼児のように短く、胸板も薄い。脳だけは小さく作れなかったのか、頭はスイカほどに大きい。

 棘に覆われた、巨大な頭の目立つ化け物。

 化け物――敬介はさらに空中を舞い、ふらつくゾルダルートの背中に飛び乗った。首の後ろにしがみついた。そのままゾルダルートの耳を引きちぎる。耳は頭蓋骨の開口部だ。これで道が開いた。耳をちぎって出来た穴に、赤ん坊のような細い腕を突き入れる。中耳と内耳をまとめて粉砕、脳髄に指をめり込ませる。

 そのとき、敬介の体を幾本もの触手が貫いた。

「魔軍」は脳にはいなかった。脊髄だろう。だから力を失っていない。ゾルダルートに代わって肉体を制御すると、触手を作り出し、敬介を攻撃したのだ。

 敬介は何の抵抗もできない。両手は塞がっている。避けることも、装甲で防ぐことも。肉体の再構成にすべての力を使ってしまったから、針状装甲は脆弱なものしか作れなかった。たったいま作られたばかりの肺を、肩を、臓物を、何十本もの触手が串刺しにして機能を奪っていく。穿たれた穴から、血液がほとばしる。一瞬で血液の半分が流れ出した。

 気にしない。

 痛みも麻痺も、迫り来る死も。

 ただ指を、頭の中に深く、深く刺し入れて。

 指先が何かを捉えた。引っ張り出す。

「ヤメロォォォ!」

 巨獣が絶叫する。主を慕う眷属たちの、悲痛極まりない叫び。

 もちろん敬介は止まらない。掌に掴んだ生ぬるいアメーバを、高く掲げて、天井へと投げつけた。

 音速ですっ飛んだアメーバは天井に衝突して四散。霧状の細かな微粒子になって、駐車場内の空間に広がっていく。

 蒼血は微生物の集合体で、細胞ごとにバラバラになっても生きることはできる。だが、ある程度の数が密集して相互に信号を飛ばさなければ、知能や人格を維持できない。

 「魔軍の統率者」ゾルダルートは、いま死んだのだ。

 だが敬介は油断せず、緊張をたもったまま、次なる攻撃に身構えた。

 激怒した『魔軍』は主の仇を討とうとする。そう思ったのだ。

『エルメセリオン。相手の体を乗っ取って戦うぞ。フェイズ5がいなくなったから、支配力の競争で勝てるはずだ!』

『待て。様子がおかしい』

 エルメセリオンの言う通りだった。巨獣は微動だにしない。怒りの咆哮をあげることもない。そればかりか、敬介の体に突き刺さった触手までもが、力を失ってしおれ、千切れていく。

「なんだ……?」

 当惑する敬介。

 巨獣が顔を上げた。

 いまだ駐車場内は真っ暗闇だ。熱源視界では表情はわからない。

「……天野敬介よ。礼を言おう」

 表情はわからないが、巨獣の声は……静かで、落ち着いて、満足の色すら滲んでいた。

「我等はゾルダルート様の眷属。ただゾルダルート様の手足となり刃となることが望み。

 ゾルダルート様の望みは戦いを楽しむこと。

 きっとゾルダルート様は喜んでおられるだろう。

 これほどの敵手と巡りあえた事を。

 ならば我等が、お前を憎む理由は何もない。

 そして我等が生きる理由も、もはやない」

 それきり声は途切れた。敬介が座り込んでいる巨獣の体が、たちまち柔らかく変化、泥のように崩れ落ちる。心音も呼吸音も消えている。

 骨も残さず溶けて、床に広がった。

 蒼血細胞は人間の細胞と発熱量が違うので熱源視覚で捉えることが出来る。だが見当たらない。

 すべて死を選んだか。

 敬介はあっけにとられる。ようやく胸や腹の風穴が激痛を訴えてくる。

「勝った……のか?」

『そのようだな。だが油断してはならないぞ。

 こんなもの、君が越えていく千の戦い、万の敵の、最初の一つなのだから』

「ああ……!」

 そうだ。俺は誓ったのだ。

 力強く答えて、立ち上がり、地下駐車場を去った。

 ありがとう、凛々子……

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