彼ノ年
最終話
この地に足を運ぶのは、何年振りだろうか。
長いこと訪れていなかったというのに、この暑さ。ここの夏は、全然変わらない。
「ふぅ……」
「大丈夫? もう少しだけれど、疲れたのなら停めるわよ?」
「いえ、平気よ。母様」
外の景色を珍しそうに眺めている幼い娘。
はなは、そんな我が子と遠いあの頃の自分が、ぴったりと重なるのを感じていた。
非日常に心を躍らせた子供時代。懐かしいと思えるほど、あの頃から時は流れた。
「今から行くところって、伯父様の別荘なんでしょう?」
「伯父様……というよりは、雨宮の別荘ね」
「何が違うの?」
「あまり違いはないわね」
「何それ」
娘の眉間に寄った皺を人差し指の腹でほぐしてやりながら、はなはそっと苦笑した。
出来れば区別したいのだ。兄は土地と建物を所有しているだけで、主な管理は、はなが行っていた。
屋敷を守っていた泉が亡くなったあとは、静が夫と共に移り住んで直接の管理に当たっている。
「あ、見えた! 母様、あれ?」
窓から身を半分だけ乗り出して指さした先に、屋敷の姿があった。
屋敷と背後に佇む巨大な山を認め、はなは様々な記憶が甦ってくるのを抑えられなかった。しかし、涙は不思議と零れない。当然だ。あの感情は、すべて、あの星空に託したのだから。
自分には今がある。この子と夫がいる。それ以上に、何を望もう。
馬車から降り、正面玄関に向かうと、見慣れない青年が出迎えた。静の息子はもう少し年が下であったはず。そういえば、新しい使用人を雇ったと静が言っていたが、彼か。
「お初にお目にかかります、奥様」
深い落ち着きのある声音。はなは、思わず息を詰めた。
この声。そして、この立ち振る舞い。雰囲気。――――間違いない。
「先日より、ここの使用人として仕えさせて頂いております。――
娘は若い使用人を一目で気に入ったらしい。微笑んでいる真の元へ駆け寄っていく。はなはなぜか、それが遠い場所の出来事のように感じてしまう。目の前のことなのに。
はなは、一瞬怯えたのだ。今が崩れ、過去が動き出すのでは、と。
しかし、違った。
娘と早くも打ち解けた様子を眺めていると、湧き上がってきたのは恋情でも悲哀でもなく、温かく穏やかな感情だった。
そうだ。これでいい。
「奥様」
「……お静」
振り返れば、奥から出てきた静が微笑んでいた。しかも、その腹は少し大きいように見える。
はなは、ハッとして問い掛けた。
「あ、貴女もしかして……?」
「はい。――二人目です。これでは仕事がままならなくて、夫の手伝いに、彼を」
「なるほどね」
「彼、とてもよく働いてくれて。お嬢様とも相性がよろしいようですし、この子が生まれた後も……」
「ええ。構わないわ。私も、何となく気に入ったもの、彼」
「良かった……では、奥様。長旅でお疲れでしょう。こちらへ」
「ありがとう。……小夏、行きますよ!」
変わる。変わっていく。人は移ろっていく。
それでも、心に抱くものは、こんなにも温かい。
山奥の聖域 土御門 響 @hibiku1017_scarlet
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