終幕ノ時
第拾話
神が天を見上げていた頃、シンは祈りの間で禅を組んでいた。
主の力の高まりが、この身にも影響してきている。意識的に制御しなければ溢れ出しそうな霊力を精神統一によって抑え込み、シンは天井に開いた穴から主と同じように空を見上げた。
そろそろ日暮れの時刻だろうか。日が傾いてきている。
ここまで主の神気が昂ぶったことなど、この永い時の中でも一度もない。嗚呼……と、シンは瞼を閉じた。――ついに、始まるということだ。
シンが、そう悟ると、今まで抑え込んでいた莫大かつ強大な霊気が、霧のような実体を持って周囲に漂い始めた。
それを抑えることも、もうしなかった。シンは立ち上がり、霊気の霧の中で腕を伸ばし、午後の空に向かって手を翳した。
「しばらく……この空とも、お別れか」
はなが別邸の前に降り立ったとき、もう日が高くなっていた。正直なところ、今すぐ山へ走りたかったが、それが許されるわけがない。
正面玄関から出迎えてくれた泉が、突然の訪問に目を丸くしている。
「これはこれは……」
「小父様にお伝えしたいことがありまして。先触れもなく、申し訳ありません」
努めて冷静に告げると、泉はいつもと同じ穏やかな笑みを浮かべて、はなたちを迎え入れてくれた。
取りあえず落ち着こうと居間へ向かい、静が奥で茶を淹れてきた。泉は使用人という立場であるため、はなと共にソファへ腰かけることは許されていないが、今回は特例だと言い張って座ってもらった。
泉は、いったい何事だろうかと少々驚いているものの、挙動は普段と大差ない。さすが、長年雨宮の別邸を管理しているだけのことはある。
はなは静の茶を口にしたが、泉は手を付けず、はなの話を待っていた。
「……小父様」
「はい」
「……っ」
早く表向きの用を済ませてしまいたいのに、いざ告げるとなると、喉が強張ったようになってしまって、声が出ない。ここで泉に婚姻のことを伝えるということは、受け入れたということだ。――諦めた、ということだ。
はなは唇を噛み締め、膝の上で手を握り締めた。何をぐずぐずしている。今更だろう。そう自分に言い聞かせても、本心が……自分の中でも奥深い場所に封じている本当の気持ちが、邪魔をする。
嫌だ。結婚なんてしたくない。私はシンと一緒にいたい。一緒に在りたい。これからも、ずっと――!
「っ……!」
「……お嬢様」
穏やかな、祖父を思わせる泉の声で、はなは我に返った。
一瞬のことだっただろうに、はなの額からは焦りで汗が滲んでいた。
泉はソファから中腰で立ち、はなの頭に手を伸ばした。そして、幼い頃、やんちゃが過ぎて怪我をして泣いた時のように、そっと優しく、撫でてくれた。お嬢様、大丈夫ですよ。声にしなくても、泉の温かな手から言葉が伝わってくるようだった。
はなは何回か息を吸って、吐き、どうにか落ち着きを取り戻した。そうだ。今は、それを考えている場合ではない。大切なヒトに何があったのか。何が起ころうとしているのか。それを確かめることが第一。彼の無事が何よりも大事なのだ。自分の運命など、気持ちなど、二の次で構わない。
「――小父様。私の婚姻が決まりました」
「それは……」
「父様亡き今、私が他家と繋がることが雨宮の今後を大きく変える。ゆえに、兄様が決定した縁談を、受けることとなりました」
「お嬢様は、それで構わないと?」
「はい」
即答した。
泉は軽く瞠目し、はなの瞳を見つめた。はなは昔から、家のために自分の生き方を決めるような真似は大嫌いだったはず。そう言いたげな視線だった。しかし、全く揺れることのない瞳に何を見たのか、泉は微苦笑し、そして、頷いた。
「そうですか……おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「お嬢様」
泉は窓の方を見て、言った。
「いつぞやの迷子騒ぎを、覚えておられますか?」
ギュッと胸が締め付けられた。だが、顔には出さない。
「ええ」
「せっかくの慶事。山の神にもご報告されてはいかがですかな?」
一瞬の沈黙。後に、はなは答えた。
「…………ええ。そうするわ」
「では、行ってらっしゃいませ。あの山道は、お嬢様の方がよく知っておられるでしょうからなぁ」
はなは首を縦に振って立ち上がり、急ぎ足で屋敷を出た。
そんな後ろ姿を見送った静は、泉を振り返った。何か知っているのだろうか。はなの中にあるものを。
「泉様」
「なんです?」
「何かご存じなのですか?」
「いいえ」
窓辺まで歩いた泉は、嬉しそうに笑った。
「お嬢様も、大きくなられましたなぁ」
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