第玖話
神は非情だ。しかし、無情ではない。
午後の日差しが木々を照らし、森の中に光を届けている。真夏並みとまではいかないが、じりじりと焼けるような暑さが辺りを包んでいた。
山神は珍しく人の姿を取り、巨木の根元に片胡坐をかいていた。立てた膝の上に頬杖をつき、瞼を伏せて何やら思案している。そんな何気ない様も神の持つ荘厳な雰囲気を漂わせ、誰であっても声をかけることを躊躇うだろう。
しかし、勇気を振り絞った者はいた。
「――――恐れながら」
「何用だ。精霊」
山神の強大な神気を受けて顕現した数人の精霊が、いつの間にか、その周りに集まってきていた。
美しい見目の精霊たちは、誰が本題を切り出すのかと無言で頻りに視線を交わし合っていたが、中でも落ち着きのある穏やかそうな風貌の者が、ゆっくりと緊張で微かに震える口を開いた。
「巫覡様を人に還されるというのは……」
「事実だ。眷属に下らぬ嘘を吐くわけがなかろう。そして、今更撤回するつもりもない」
「理由を、お聞かせ願えませんか?」
遥かに下位の自分たちが神に問いを投げ掛けて、無事でいられるとは思っていない。その怒りに触れれば、きっと我々など一瞬で存在を消されるだろう。
それでも、精霊たちは知りたかった。永いこと共に、この山で暮らしてきた一人の仲間のことを。元は人間でも、シンは山の立派な仲間なのだ。
精霊たちの嘆願を微動だにせず聞いていた神は、徐に瞼を持ち上げた。
周りに寄っていた精霊たちが、慌てて頭を垂れる。神は、それについては何も言わず、代わりに、ぽつんと呟いた。問いに対する答えと言うよりは、独り言に近かった。
「……彼奴は、よくやった」
それを聞いた精霊たちは、互いに顔を見合わせた。なんだか、らしくなかった。こんなに寂しげな神は今まで見たことがない。
そっと続きに耳を傾けていると、神の唇に寂しさと自嘲の混ざった、ほろ苦い笑みが浮かんだ。
「初めは彼奴の巫覡としての才覚を我が物にし、傍に置いておきたかっただけだった。だが、いつの頃からだったか……彼奴の心を感じるようになった。人としての生は奪ったものの、生まれつき備わっていた心までは奪わなかったからな。彼奴の思考は、嫌でもこちらに伝わるものよ」
神は昔から知っていた。シン自身すら無自覚であった、人に対する憧れを。
眷属といっても、神にとってシンは子のような存在でもあった。我が子の心、その深層に在る願いを、いつからか叶えてやりたいと思うようになった。
だから、神は動いたのだ。
心の奥にある人への情を引き出し、再び人として生きたいと、シンが自ら願うように。
本来なら絶対にありえない、神の、我が子に対する愛情。それが、理由だったのだ。
精霊たちは、もはや何も言えなかった。
この動機自体が奇跡に近い。神が自らの手足に過ぎない眷属に対して、これほど深い情を抱いていたとは。奇跡としか、言いようがなかった。
生温い夏の風が吹いた。
神の髪を、精霊の衣を、木々の葉を、生い茂る草を、優しく撫でる母の手のようだった。
「――――来たか。娘」
不意に神が空を仰いだ。
精霊たちは俯き、一礼して姿を消した。
人の心は複雑だ。繊細で、温かく、苦く、甘く、脆く、深く、儚い。そして、時に恐ろしく強い。人でない者には、理解ができないほどに。
だから神は、一つに定めたのだ。シンを人に還す。それだけを叶えようと。その過程で何が起ころうと、決して目的は曲げないと。たとえ、それが非情と思われるとしても。
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