死ノ年

運命ノ胎動

第壱話

「お嬢様……」

「お静、そんな泣きそうな顔しないでよ。ただの風邪なのに」

「それは風邪だと診断されてから仰ってください!」


 静の悲鳴に、はなは半ば呆れ気味だ。はいはいと、適当に返事をしておく。静の不満そうな表情は、もちろん見て見ぬふりである。

 二人の会話が終わると、ベッド近くの椅子に腰かけていた医者が聴診器などを手に立ち上がった。


「では、診察しますよ」

「お願いします」


 秋になり、本邸へ戻ったはな。

 疲れが出たのか、ひどい熱を出してしまった。ただの風邪だと思っていたのだが、数日経っても熱が引かない。

 ひどく心配した静が父に頼んで医者を手配した。

 それを聞いたはなが、大げさなと笑ったら、油断してはいけないとこっぴどく叱られた。

 静の異常とも思える心配にも、きちんと理由がある。はなの母は既に鬼籍に入っている。奥方だけでなく、自身の主まで失ったら。どうしようもない不安が静の心には確かに存在しているのだ。

 父が倒れたときと同じ医者が、はなの診察に当たった。父の一件もあって、彼には雨宮家の専属医になってもらったのだ。

 はなの診察を終えると、医者は静を振り返って一つ頷いた。


「今年は旦那様の一件もありましたから、体力が落ちているのでしょう。ゆっくり休養をお摂りになれば、必ず良くなります」

「何か重篤な病を患われたというわけではないのですね」

「はい」

「良かった……」


 静が大きく息を吐く。

 診察を終えた医者は、素早く器具などの荷物を鞄に片付けた。鞄を片手に、医者はベッドに横たわるはなへ一礼した。


「それでは、お大事に」

「ありがとうございました」


 はなもベッドの上で上体だけ起こして頭を下げ、静がはなの部屋の扉を開けた。


「玄関までお見送りいたします」

「うん。……その前に旦那様の経過も診てもよろしいか。もともとそういう話になっている」

「かしこまりました。ではこちらへ。……お嬢様は休んでいてください」


 釘を刺す静に、はなは苦笑するしかない。信用がなさすぎる。まあ、幼い頃のやんちゃを考えれば当たり前か。

 肩を竦めてベッドに横になる。


「分かったよ」


 熱のせいか意識が朦朧とする。

 静が懸念するような何かをやらかすどころか、起きているのも限界だった。

 はなは目を閉じて、深い眠りへと落ちていった。



 泣いている。

 女の子が、泣いている。

 暗闇の中で、女の子が。

 小さなその身を絞って、呻き声にも似た泣き声を漏らしている。

 哀しい。哀しい。哀しい――!

 どうして、なぜ、どうして――!

 幼い心から溢れる烈しい悲哀の刃が、はなを容赦なく切り裂いていく。胸の深淵まで突き刺さる。

 はなは痛みを耐え、恐る恐る手を伸ばして、その華奢な肩に触れた。冷たく、肉の薄い肩だ。


「どうしたの……?」


 女の子がゆっくりと振り返る。

 涙と鼻水でぐしゃぐしゃな女の子の顔が、はなの視界いっぱいに映った。


「――――っ!?」


 これは紛れもなく――幼い頃の自分、だ。


 気が付いたら、あの洞窟にいた。

 シンが寝起きをし、山神に祈りを捧げる洞窟。


「――――ッ!」


 奥の……祈りの間から叫び声が響いてきた。なんと言っているかは分からない。

 ただ、シンがいるということだけは分かった。


「シン……?」


 声の方へ足を踏み出す。

 祈りの間に近づいていくと、奥から淡い光が流れてきた。

 蛍のような光。無数の光の粒が、ちらちらと舞う。

 はなが祈りの間に足を踏み入れると、祈りを捧げていたシンが振り返る。その身に纏いついた燐光が、どこか儚げな危うさを孕んでいるように感じられた。


「……」


 声は聞こえなかった。

 けれど、何と言っていたかは口の動きから読み取ることができた。


 さようなら。


 刹那、シンの体が数多の燐光に呑まれて、消える。

 はなは訳も分からず、叫んだ。


「何がっ……なんで……どうして、嘘よッ――!」


 はなは喉が焼切れるほどの悲鳴を上げ、悪夢から飛び起きた。




 ――――「お嬢様……?」


 瞼を持ち上げると、静が手拭いを手にして傍らに立っていた。


「お静……」


 はなが、鈍器で殴られたかのように激しく痛む頭を手で押さえながら、静の名を紡ぐ。

 静が心配そうに、はなの顔を覗き込んだ。


「ひどくうなされておいででしたので……何か良くない夢を?」


 静の質問に首を振ることしかできない。

 は、あまりに恐ろしかった。何かの予感のようなものを感じた。漠然とした嫌な予感。けれど。


「……分からない」


 そう答えるだけで精いっぱいだった。

 何かの暗示のような内容だったとしても、所詮は夢。単なる、夢だ。

 静も深く追及することはせずに一つ頷いて、はなの額に浮いた汗をぬぐい始めた。浮いていたのは粘り気の強い脂汗。十分すぎるほど、はなの動揺が窺える。

 はなは汗を拭かれながら、視線を窓の向こうに逸らした。

 今のは、何だったのだろう。

 この胸がざわつく不快感はいったい。

 言い表しようのない恐怖。

 はなは瞼を落として、そっと息を吐き出した。



 ――――はなは自覚がない。

 自身に力があることを。神に認められる素質があることを。

 そして……力のあるものが見る夢には、意味がある。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る