第拾肆話
転落防止用の柵もない崖。まさしく断崖絶壁。
その先の光景にはなは息を呑んだ。呑まずにはいられなかった。
「これ……」
三年前、初めてこの山に登った理由。
そう。私は。
この光景を見たかったのだ。
眼下に広がる光景は想像していたものよりも壮大で、屋敷のある村どころか、その先に点在する近隣の村々まで見渡せる。村では最も見事な建物である屋敷も、ここからでは可愛らしい小屋のように見えた。まるで、以前父に買ってもらった人形の家のような。
自分の知る世界が、いかに小さなものだったのか。それを見せつけられたような気がする。
後ろに控えていたシンが足音もなく、言葉も出ないはなの隣に並んだ。
「……どう?」
シンの短い問いに、はなはゆっくりと頷いた。
「……すごい」
その返答を気に入ったのか、シンはそっと微笑む。
それにしても、よく覚えていたものだ。山に登ったきっかけなんて、出会ったばかりのころに話して、それっきりだったというのに。
はなは自分の横に佇むシンを振り返った。
「どうして……?」
「見てみたかったと、言っただろう。……ここからの、麓の景色を」
「それだけ?」
「十分じゃないか」
だって、私の友人は君だけだ。友人の願いを叶えたいと思うのは自然だろう?
シンの言葉の意味。その深さが、量れなかった。それは、友人を思ってということか、それとも……
冷たい月明かりに照らされて、どこか幻想的な雰囲気を纏ったシンを見上げる。
シンの顔を見つめていると、何かが胸の奥から込み上がってくる。外に出してはいけない気もするのというのに、それは無意識に、はなの口を開かせた。
「……っ」
「はな」
込み上がるそれを確かな言葉にしようと、はなの口が動きかけた瞬間、シンがそれを遮るように、はなの名を紡いだ。
はなが我に返ると、シンはどこか寂しげに笑っていた。
どうしたというのだろう。
「シン?」
「そろそろ帰る時間だ」
「え?」
「私の術で、ここに来る直前の麓に帰すから。いいね?」
「直前の麓?」
「時間を飛ぶということさ」
事の大きさが分からず、不安そうにするはな。シンは、心配するなと笑う。
「大丈夫だから。私に身を任せて」
「う、うん……」
「怖いのなら、目を瞑っていればいい」
「分かった……」
はなが瞼を閉じると、シンは自分の胸の前で刀印を組んだ。
シンの霊力が解放されると同時に、はなの姿が薄れていく。
過去へ、過去へ。はなの身が戻っていく。
無論、ここでの記憶はそのままに。肉体だけが過去へ戻る。これなら、はながまた消えたといった騒ぎは起こらずに済むだろう。
シンが、わざわざ高度な術を行使した理由。麓の混乱を避けたかったのだ。
時の流れを超えて、はなは村へ帰って行った。
「……ふぅ」
はなの体が麓へ戻ったことを確認してから、シンは印を解いた。自然の理に反する術は、やはり体力の消耗が激しい。神の眷属でなければ、決して為せないものだ。
シンが、ほっと息を吐いていると、背後に凄絶な気配が舞い降りた。
まさかと思って振り返れば、主が人の
「なっ……!」
「ふむ。やはり慣れぬな。人の体という奴は」
「何をされているのです、我が君……!」
シンの言動を気にすることなく、山神は肩や首を回して体の感覚を確かめている。
あくまで自分は配下。諌めることはできても、咎めることはできない。相手はなんせ、神なのだから。
「なぜ
シンの問い掛けに、神は笑みを返す。
「シン。己が立場を忘れたか」
「っ……無礼を、お許しください。我が君」
決して笑っていない神の冷淡な瞳に射抜かれ、
しかし、神はシンの振る舞いには、あまり興味がないらしい。無感情にシンを見下ろしてから、視線を崖の向こう、麓の方へやった。
「構わぬ。面白いものが見えたゆえ、気紛れに降りただけだ」
「面白いもの……?」
シンが跪いたまま、顔だけ上げた。
主は壮年の男の姿をしていて、
シンと同じ深い緑の瞳は、真っ直ぐ麓を捉えていた。
「……あの娘」
「はい」
はなのことだ。初めて聖域に迷い込んだとき以来、はなの前に現れていなかった神だが、神の本体はこの山である。降臨せずとも、ずっとシンとの様子を見てきたのだ。
神は、己に仕える巫覡を見ずに呟いた。
「大きくなったものだな」
「はい……人の子の成長は、早いものです」
「娘らしくなったものだ。そうしないうちに、
「我が君が、そう仰るのならば、そうなのでしょう」
ヒリ……と、赤黒い炎が胸の中で燃えるのを感じながら、シンは努めて冷静に応えた。
しかし、そんな努力は無駄らしい。シンを振り返った神は、唇に愉しそうな笑みを乗せていた。
「感情豊かになったものだな」
「お見苦しい姿をお見せし、申し訳ありません」
「いや、面白い」
シンは微かに眉を寄せた。主の考えが全く読めない。
……前から思っていたのだが。
なぜ、すっかり年頃となったはなを、ここまで通わせているのか。
いつまで、はなを神勅に従わせるのか。
神の考えは、その眷属にも読めない。
「……シンよ」
「は」
「あの娘を、我が妻に」
「な……っ!」
御意、と応えられなかった。
思わず、その顔を凝視する。
確かに、我が君は男神。じゃあまさか。妻を得るために、はなをここへ通わせていたというのか、今まで。神の妻として
シンの中でいくつもの推測が飛び交う。
すると、神は唐突に笑い出した。
「っ……はっはっはっはっは! 本当に人間らしくなったのだな、シン。それほどに取り乱した貴様を見るのは、
「わ、我が君、まさか……!」
「ほんの冗談だ。貴様が変に案ずる必要はないというものよ」
何も言えなかった。神は自分なんかよりも、何枚も、何十枚も
情けなさと恥ずかしさで目を片手で覆うシンを、神は面白そうに見下ろしていた。
シンは、手で目を覆っていたから気づかなかった。神の瞳に、何かを定めたような決意の色があったことを。
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