第弐話

 はなは目を丸くしていた。

 父の話した内容は理解したつもりだ。しかし、少しばかり病床の身には衝撃が大きすぎる。

 頭の中を整理しようと、はなは何回か瞬きをしてみた。

 穏やかな父の笑顔。その後ろに控える静の泣き出しそうに歪められた顔。それらが否応なく視界に映る。

 対照的なそれらを見比べて、はなはゆっくりと口を開いた。


「本気なの? 父様。……お静に見合いをさせるって」



 はなは昨年の秋に体調を崩して以降、ちょくちょく風邪を引くようになってしまっていた。今も一週間ほど前から微熱が下がらないため、大人しくベッドの上で過ごしている。

 梅の香りが漂うようになった初春。父は風邪をこじらせている娘の部屋に顔を出したと思いきや、唐突にこう告げたのだ。


「静が見合いをすることになった」


 はなは最初、新手の冗談かと思ったのだが違ったようだ。本気で静に縁談を持ってきたらしい。


「相手はうちの取引先の御曹司だ。悪い話ではないだろう」

「父様、待って。お静の気持ちは? そこが肝心でしょう」


 雨宮家の令嬢付侍女が取引先の御曹司と結ばれたとなれば、確かに雨宮の繁栄は約束される。

 しかし、嫁ぐ予定である当の本人が、この世の終わりを悟ったかのような絶望に満ちた面持ちでいるのだ。素直に受け入れて祝福などできるわけがない。


「もちろん静も承知したよ。なぁ、静」

「は、はい……」


 静を振り返って確認する父に、はなは苦々しい表情を浮かべた。

 父は人がいいものの、少々鈍感な節がある。留学していた兄が帰国した後に自立せず、家の会社に勤めると決めた理由も、これが大きいのだろう。


「雇用主の問いに“いいえ”なんて言えないでしょう、普通に考えて……」


 そう小さく呟き、はなは静に視線を向けた。


「お静。少し話しましょうか。申し訳ありませんが、父様は席を外してください」


 父が部屋を出ると、静の体から余計な力が抜けた。ほぅ、と息を吐く静に、はなは問い掛ける。


「お静は嫁ぎたくないんでしょう? なぜ父様に本心を言わないのよ。父様は本人の意思を無視して政略結婚させるようなことはしない人よ? お静もよく知っているでしょう」


 静は答える代わりに、壁に掛けられた絵画へ目を向けた。


「……この絵、お嬢様が旦那様にお願いされて購入したものだとお聞きしました」

「そうだけど……それがどうしたの?」


 静の言いたいことが分からず、はなは眉間に皺を寄せる。静がこのような回りくどい言い方をしてくるとは。

 珍しいと思いつつ、続きを促す。

 静が絵画から、はなに視線を移し、そっと苦笑に近い笑みを浮かべた。


「私は、お嬢様よりも先にどなたかの妻になるようなことはしたくないんです」


 不覚にも、息が詰まった。

 静は、知っているのだ。はなの心を。

 体調を崩すようになってからというものの、はなの夢にシンが現れなくなった。正確に言えば、去年の夏以来シンの顔は見ていない。

 寂しかった。不安だった。

 心に積もった寂しさを少しでも和らげたくて、絵画を飾った。

 あの山を描いた絵画を飾ったのだ。


「お嬢様がどなたを想われているか、私は存じません。しかし、お嬢様が一途にその方を想われていることは私の目にも一目瞭然です。……ありがとうございます。これで心が決まりました。どんなに理性的に判断したとしても、本心は変えられませんね。私は……お嬢様が嫁がれるまで、お傍でお仕え致します」


 静の決意に満ちた真っ直ぐな瞳を、はなは見ることができなかった。


 ここまでくると、嫌でも気付く。

 自分は、何があろうと人なのだ。人であり、華族であり、良家の姫。その事実は、何があろうと覆らない。

 そして自分は、叶うことのない夢を追っている。決して実ることのない、想いを抱えている、と。

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