第参話

 肌を刺す真冬の空気が、自らの思考をも凍らせているような気がした。

 新たな年が始まって数日。年末頃から降り続いている雪は止む気配を見せない。

 今年は大陸からの寒波が猛威を振るい、この地域一帯を雪国へと変貌させていた。


「……」


 麓の村々を見渡すことができる高台に佇むシンの表情は固かった。吐き出した息が湯気のように立ち昇るも、すぐ吹雪によって掻き消される。

 寒暖を感じない身となって久しいが、この風景を見ていれば嫌でも心が冷えるというものだ。


「今年はやけに荒れる」


 ぽつん、と。川へ小石を放るような呟き。

 それに反応する人間は、この冬山には存在しない。しかし、


「――――貴方の心のこと?」


 感情のない、無機質な声音がシンへと投げかけられた。

 シンが視線だけ振り返る。


「……雪の、か」


 いつの間に現れたのか。ほんの子供にしか見えない少女が背後に立っていた。

 能面のような顔。吹雪に揉まれても微動だにしない小柄な体躯。まるで、荒野に一本だけ残った枯れ木だ。

 シンは一旦瞼を伏せて微苦笑し、改めて体ごと彼女に向き合った。


「おそよう、雪の。今年はまた一段とお寝坊だね」

「今年は寒すぎて起きたくなかった。それに、元人間に文句を言われる筋合いはない」

「随分な言いようだ。私の方が君よりも永く此の世に生を留めているというのに」

「……うるさい」


 顔を顰める少女に、シンは穏やかな笑みを返しておく。

 雪の、とは“雪の精霊”のことである。シンが精霊に向けて砕けた振る舞いをすることは基本的にありえないが、この精霊だけは特別だった。

 シンよりも後に山の住人となった精霊。それが、この、雪のだ。

 肩に付かない白銀の髪が吹雪に煽られて、激しくはためいている。しかし、そんな彼女の表情は、若干の苛立ち以外の感情を見事に排していた。


「貴方は大昔に人間を捨てたくせに、今更になって人間性を得たようね。滑稽だわ」

「人間を捨てたつもりはない。生きながら神の眷属になっただけだ」


 シンの言い訳も彼女には通じない。雪のは淡々とシンの詭弁を一刀両断する。


「同じこと。……寿命が永久に訪れない人間なんて、人間に非ず」

「……雪のさ。機嫌悪くないかい?」


 彼女の冷淡な毒舌はいつものことだが、今年は鋭さが増しているような気がする。寝起きで不機嫌なところに寝坊を指摘されて、更に気が立っているのだろうか。

 雪のは問いに答えず、ゆっくりと前へ足を踏み出した。深い雪に足を取られることもなく、普通の地面を歩くような、しっかりとした足取りである。

 そうやってシンの隣に並ぶと、眼下の村々を無感動に眺めた。


「……人の娘に心を奪われるような為体ていたらく。神の許しがあるからといって、少し調子に乗り過ぎている」

「気に入らないのか?」


 スッと、刀を鞘から抜いたかのようにシンの纏う霊気が凄味を帯びた。

 そんな些細な変化を気にしない精霊はシンを振りむこうともせず、ただ自分の言いたいことを並べていく。


「別に。ただ、あの娘と出会ってから貴方は変わった。それは事実。……人でないものが人に憧れた末路がどうなるのか、私はそれが少し気になる。単なる興味。それ以上でも、以下でもない」

「人に憧れているんじゃない」


 雪のは目を見開いて、顔を上げた。そして、初めてシンと目を合わせた。

 シンははっきりと断言する。


「彼女に、惹かれているんだ」


 その答えを聞いた幼い容姿の精霊は、見た目に似合わない溜息を吐いた。嗚呼、やれやれ。そう言わんばかりの呆れと重みの混ざった溜息だ。

 そのあと、鬱陶しそうに肩に積もりかけた雪を払って瞼を閉じた。

 肌を、体躯を叩いていた吹雪が精霊の小さな体に絡みつき、その本来の姿を呼び覚ましていく。忠実な従者が絶対の主に頭を垂れる。そんな様を連想する光景だ。

 一瞬後、シンの隣にいたのは妖艶な美女。髪は背よりも長く、胸も腰も人間の男なら見惚れて当然と思えるほどの、妖しい魅力を放っている。

 シンよりも背の高い彼女は、無造作に剥き出しの腕を天に向けた。筋肉で堅く引き締まった、逞しさすら感じられる腕だ。

 長い指を揃えて、上空の雲を一閃する。

 その圧倒的な力は長いこと雪を降らせていた厚い雲を切り裂き、数週間振りの日差しをもたらした。

 長い睫の下から覗く蒼穹の瞳がシンを射抜く。


「……シン」

「おはよう、雪の」


 完全体となった精霊に、もう一度挨拶をしたが、返事は戻ってこない。代わりに、


「……一つ、言っておく」


 低く、荘厳とも受け取れる声で、雪の精霊は山神の巫覡に忠告した。


「叶わぬ夢は、雪の中に埋めておけ」

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