第拾話
年が明けて、しばらく経った頃。微かに梅の香りが、風に乗って運ばれてくる。小さな春の気配を感じる、そんな穏やかな晴れの日のこと。
父様が、書斎で突然、倒れたのだ。
「父様、はなです。お茶をお持ちしました」
いつもなら、すぐに返事が来るのに、その日は何の返答もなかった。
きっと、仕事に夢中なんだ、と思った。父は、集中すると周りが少々見えなくなるところがあったから。きっと、今も集中し過ぎて外からの音なんて耳に入っていないのだ、と。
「父様、開けますね。このお茶、お静のおすすめで休憩のときに是非にって――」
その言葉が最後まで紡がれることはなかった。
部屋の中央に置かれた机。その椅子に腰かけているべき父は、壁を覆う書架の手前に倒れていた。
はなは悲鳴を上げた。
「父様っ!」
自分が父に駆け寄って、屋敷の者を呼んだことも、医者を手配したことも、兄と医者の到着を待ったことも、よく覚えていない。
父に、もしものことがあったら……身に余る恐ろしさと戦慄を堪えるのに、精一杯だったのだ。
カタカタと震えるはなとは対照的に、秀一郎は冷静だった。いつもの硬い顔のまま、はなの傍にいた。
ひどく怯えている様子のはなを見ることなく、秀一郎は医者が診察をしているであろう父の寝室の扉を、じっと静かに見据えていた。
「……はな」
はなは兄を見上げた。静かな眼が自分に向けられている。何の動揺もない、静寂に満ちた泉の
「覚悟、しておけよ」
え?
はなは自分の耳を疑った。
兄は今、何と言った? 今、覚悟と言わなかったか? 何の覚悟と言うのだ。まさか兄は、父が――
「おい、勘違いするな。父上の容体の話ではないぞ」
容体ではない? では、なんだと言うのだ。
「では、どういう……?」
恐る恐る問えば、秀一郎は淡々と説明した。
「父上の容体に関わらず、父上が雨宮の頂点に君臨されるのも、そろそろ限界だという意味だ」
「……」
意味が分からず、はなは眉間に皺を寄せた。分かりにくい。もっと具体的に言って欲しい。
言うまでもなく、秀一郎は妹の表情だけで、それを察した。
「父上に、倒れるほどの病を抱えながら仕事をさせるのか?」
「だめです!」
即答だった。問うた秀一郎自身も頷いた。
「同感だ。ならば、療養の間、父上の行っていた職務を引き継ぐ人間が必要になるな」
「あ……」
はなも、ようやく理解した。兄が、病の父に代わって当主や経営者としての仕事をすると言っているのだ。
「そうなったら、私も……?」
「学生は学業に専念しろ。仕事を手伝うなどと考えなくていい」
はなは肩を落とした。父の役には、立てないのか。変化に向けた心の準備をするだけなのか。
ただ、と兄は続けた。
「お前には父上が無理をされないよう見張ってもらうことになる。――父上の看病は、任せるからな」
「……はい!」
兄とはずっと分かり合えない、兄のことは分からない、と思っていたけれど。父と喧嘩ばかりしている兄も、父のことが大切なのだと知ることができて、はなは嬉しかった。
はなが微笑んだ時、父を診ていた初老の医者が部屋から顔を出した。
過労で体が弱っているから、当分は休むように。
医者の言葉通り、父は療養を始めた。
父は息子に仕事を任せることを最初渋っていたが、その実力をよく知っていたので、結局は折れた。
兄は代理当主として多忙な日々を過ごし、はなは毎日学校に行っているとき以外、父の看病をしていた。父は、お前に悪いから使用人に任せて構わない、と言ってくれたが、はなは自分がやりたいのだと言って押し通した。
そんな風にして春は飛ぶように過ぎていき、あっという間にまた夏がやってきた。
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