第伍話

 なんだか、ふわふわする。ぬるいお湯の中にいるような、陽だまりで昼寝をしているような、ずっとこのままでいたくなってしまう、心地よさ。

 どこからか、低い男の人の声音が聞こえてくる。嗚呼、これは。

 はなは、ふにゃりと笑った。もっと小さい頃、父が夜寝る前に一日のことについて語ってくれた。今日はどんな仕事があったとか、今日はこんな人にあったとか。その時の声音によく似ている。穏やかで、優しい声だ。

 父は最近仕事が忙しく、滅多に会うことができない。朝早く、はなが起きる前に仕事に向かい、はなが眠った後の夜遅くに帰ってきているらしい。

 だから、今はなは幸せだった。

 父様が、傍におられる。

 きっと今日はお仕事が早く終わったのだ。

 父様、お帰りなさい。父様、お静も心配していましたよ。父様、あまり無理はなさらないでください。とうさま――


「とう、さ……」

「目を覚まされましたか」


 少し離れたところから聞こえてきた声で、はなは一気に覚醒した。

 違う。この声は父様じゃない。似ているけれど、違う。

 はなは自分の置かれている状況が分からず、がばりと勢いよく起き上がった。ここは、いったいどこなのか。

 すると、頭に鈍痛が走った。脳を揺さぶられるような気持ち悪さに顔をしかめる。


「急に起き上がるからですよ。大丈夫ですか?」


 奥から何かを取ってきた青年は急いで膝をついて、上体を起こしたはなを支える。

 はなは痛みに目を細めながら、支えてくれている青年を見上げた。

 綺麗な顔立ちだな、と真っ先に思った。こんなに整った顔立ちの人を見たのは初めてだ。髪は男の人にしては珍しく腰よりも長い。くすんだ灰色をしていて、辺りを照らす篝火かがりびの光を受けて鈍く輝いているように見えた。

 木々の緑を映したような深い色の瞳が、心配そうに自分を見下ろしている。


「あ、あの」

「まだ横になられていた方がいいですよ」

「はい」


 背中を緩やかに擦られながら優しく促されて、込み上げていたたくさんの疑問は不思議と引っ込み、はなは大人しく再び横になった。首を巡らせて周囲を見渡す。

 使い古された畳の上に自分は横になっていて、毛布の代わりに藁を詰めた麻袋が掛けられている。意外なことに結構温かい。

 ここが室内でないことは一目瞭然だ。青年が片膝を立てて座っているのは固そうな地面。壁は岩盤のようだ。洞窟、だろうか。


「ここは……?」

「自分に何があったか、覚えていらっしゃいますか?」

「……はい」


 山を登っていた。

 そして力尽きて、意識を失った。

 はなは、ぞくりとした悪寒に襲われた。

 本来なら、あんな山奥で倒れたら助からない。……助かるはずがない。

 この人がいなかったら、自分は確実に。

 はなの顔色が見る見るうちに蒼白になっていく。


「大丈夫ですか」

「え……」

「ひどい顔をしていますよ」


 青年がはなの頬にそっと触れた。


「こんなに冷たくなって……怖かったでしょう」

「あ、あの!」

「はい?」


 はなはもう一度起き上がろうとした。しかし、四肢に力が入らない。


「いけません。まだ動いては。一晩は安静になさらないと」

「けど」

「けど、ではありません。大怪我をしていたのですから、体を休めてください」


 青年の口調は穏やかだが、反論を決して許さない。それほどに、ひどい状態だったのだ。

 はなは渋々体の力を抜いた。


「あの、こんな姿で言うべきではないですけど……助けてくださり、ありがとうございました。私、雨宮はなと申します」

「……私は、シンと言います」

「シン、さん?」


 苗字はないのだろうか。話したくないだけか。ぱちぱちと瞬きして、はなは小首を傾げる。

 その時、シンが頭上を仰いだ。


「我が君……」


 小さくそう呟くのが、確かに聞こえた。

 我が君、とは何だろう。


 娘。


「……え?」


 シンの声ではない。もっと低い声だ。


 娘、お前だ。


 呼ばれているのは自分で間違いないらしい。


「誰……?」


 そう問うはなの声にシンが目を見開いて反応した。


「聞こえるのですか!?」

「え、あ……はい」

「貴女は、いったい……」


 はなに詰め寄ろうとするシンを低い声が窘める。


 シンよ、落ち着くのだ。


「っ……は」


 はなは訳が分からなかった。ここにいるのはシンと自分だけのはず。


 驚くのも無理はない。我は人ではないからな。そこのシンも同様。


 人じゃない? 何を言っているのだ。声の主はともかくとして、シンはどう見ても人だ。

 はなの抱く疑問は、口から発せられる前に声の主によって答えられていく。


 信じる信じないはお前の自由。我はこの山をるもの。人々は、我を神と呼ぶ。……そこのシンは我が手足の役を担う巫覡。遠い昔に人をやめた、我が眷属けんぞくだ。


 はなは、じっと声に耳を傾けた。自分を助けてくれたのだ。どんなに普通では信じられない話でも、真摯に受け止めるべきだ。そう思えた。


 お前は我が結界を超え、この聖域に入った。本来ならば生を奪うのが道理。だが、娘。お前は幼い。頑是がんぜない。ゆえに、罪に問うのはやめてやろう。


 はなは、ぼんやりと覚えていた。懸命に進む中、何かをすり抜けたような感じがした。あれが結界だったのだろう。


 娘。聞け。一つ、お前に命を下す。


 はなは横になったままだが、背筋をできるだけ伸ばした。話を信じるなら、神様からのお願いだ。自分は、入ってはいけないところに入ってしまった。そのことを責めない代わりに何かをするのだ、きっと。自分にできることなら、何でもしよう。いや、しなければ。

 はなの緊張感などお見通しなのだろう。少し声に笑みが含まれた。


 そんな固くなるな、娘。大したことではない。……お前は、麓の子ではない。様々なこの国の姿を見聞きしていよう。それをシンに話せ。


「え?」

「我が君……?」


 二人の訝しげな声が重なる。


 シンは幼少から我に仕え、外界を知らぬ。我も山だからな。大したことは知れぬ。……娘、我々に日ノ本の、この国のうつつの姿を伝えよ。


 その言葉を最後に、声の主……山神は気配を消した。

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