第玖話

 体の奥から溢れる衝動。

 逢いたかった。逢いたかった。逢いたかった……!

 溢れ出す想い。

 身を焦がすほどのそれらに身を任せ、はなは背後に佇む青年に抱き着いた。


「シン……っ!」


 はなの体を抱き留め、シンは微かに苦笑した。


「こら。危ないよ、はな」

「だって……!」


 兄が戻ってからというものの、なんだか恐ろしいのだ。ぎくしゃくした父子のやり取りを見ていると、この家は何かの変わり目を迎えているのではと思えてくるのだ。

 これまでの日々が崩れ、先の見えない新たな道へ、革新の道へ、雨宮は進んでいるのではないかと。

 それ自体は悪くない。雨宮家にとっては。しかし、生きる一人の人間としては変化というものは恐ろしかった。

 だから、シンに会いたかった。

 永い、永い時の中を生きているシンは、そう簡単には変わらない。はなにとって、シンは変わることのない心の拠り所でもあるのだ。


「……何かあったのかい?」


 はなの怯えを敏感に感じ取ったシンが、真剣な声音で問う。

 はなはシンの胸に顔を押し付けたまま、小さく笑った。


「大したことじゃ、ないよ」


 家の事情を話す気には、ならなかった。

 シンには、自分をただの娘として見ていてほしい。身分や立場を気にしてほしくなかった。だから決して、はなは生臭い近代の人間社会のことを口にしない。社会では必須とされる損得勘定なんて、自分と彼の間には必要ないのだから。

 この安らぎの得られる関係性を、はなはとても大切にしていた。現実では絶対に得られない、特別な繋がりだから。


「それならいいのだが……」

「うん。いいの」


 シンの心配そうな視線に努めて明るい笑顔を向ける。華族の娘は愛想を振る舞うことに慣れているから、笑顔をくらい造作もない。


「そういえば、どうして夢に? お務めはいいの?」

「我が君の命でね。会いに行って来いと。……お優しい方だよ」


 そう話すシンは実に誇らしげで、それに幸せそうな笑みを浮かべている。

 シンが幸せそうにしていると、こちらも辛いことを忘れられる。自分の置かれている状況や、大きな変化の波に揉まれている雨宮の家のことを、今は全然不安に感じなかった。

 話していたシンが、不意に瞬きして首を巡らせた。


「どうしたの?」

「――年が明ける」


 何の音もなかった夢の空間に、除夜の鐘が聞こえ始めた。年越しの象徴ともいえる厳かな鐘の音を聞きながら、はなは仄かに微笑んで、瞼を伏せた。


「シンと年を越せるなんて思わなかった。……嬉しい」

「……はな」

「ん?」


 見上げたシンの顔に、なんだか苦しみに近いものが浮かんでいて、はなは心配になり眉尻を下げた。


「どうしたの?」

「……大したことでは、ない」


 はなは唇を尖らせた。

 大したことでないなら、こんな深刻そうな顔はしないだろう、普通。


「隠さないで。気になるじゃない」

「はなだって誤魔化しただろう?」

「う」


 そこを突かれてしまうと反論できない。

 言葉に詰まるはなを見てシンは苦笑した。


「こうしているときは、お互い悩みは忘れよう。……無理に話すべきでもない」


 どこか重みのある言葉に、はなは声を出せなかった。

 無言で頷いて、絶えず響く、新たな年を告げる鐘の音を聞いていた。



 はなは日々成長している。

 背が伸び、体つきも女性にょしょうらしいものになって、表情も大人のそれに近づいている。

 きっと、近いうちに彼女は嫁に行くのだろう。同じ年頃の娘たちと同じように。誰かの妻と、なるのだろう。

 それを思い出すたびに、シンの胸は鈍く痛む。錆びついた刃で心臓を斬りつけられるような、鈍く曖昧だが、それでも息が詰まるほどの痛みが走る。

 この痛みと感情の正体は、自分が人間をやめて久しくとも、さすがに分かっている。けれど、それを彼女に打ち明けることは許されない。

 ……こういった自重ができるようになるほど、自分は人間らしくなってきているのだ。

 感情のままに行動してはならない、という人の独特なことわりを自分は解ってきている。

 人間らしくなればなるほど。彼女のことばかりを考えたくなり、それはいけないのだと己を律する。その、繰り返し。

 息苦しい。気管が、肺腑が、潰れるくらいに。苦しいが、この上なく幸せでもあった。

 わずかな自由。わずかな時間。この終わりはきっと、唐突なのだ。分かっている。けれど、願ってしまう。

 嗚呼――この時が、できる限り長く、続いてくれ。

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