第捌話
静も兄妹同士の挨拶の終わった直後に慌てて立ち上がった。
秀一郎は、雨宮の屋敷において二番目に権力を持っている、はなの兄であり、次代当主だ。想定外の事態だったとはいえ、無礼があってはならなかった。
「若様、お帰りなさいませ……!」
「ああ。ご苦労、静」
軽く頷いて静に応え、秀一郎は、再びはなに目線をやった。
別れた時よりも、背丈が静に近くなっている。それに、顔つきも幼子というには大人びてきた。纏う雰囲気もどこか落ち着きがあり、そういう面は亡き母に似てきているようだ。
「見ないうちに背が伸びたな」
「……十三に、なりましたから」
「そうか」
兄妹の仲を象徴するような淡々とした会話が続く。
それを打ち切ったのは、意外にも静ではなかった。
「あの……」
女給が困惑気味な笑みを浮かべて、秀一郎の背後に立っている。
「相席になされますか?」
秀一郎は頷かなかった。
「いや、構わない。……申し訳ないことをした。立ち話をされて困っただろう」
「いえ、そんなことはございません。……それでは、こちらの席に」
先導する女給の後に続く兄を、はなはぼんやりと見つめていた。
昔から、そうだった。
『俺は雨宮のために生きている』
いつも、そうだ。
『お前も、大きくなったら雨宮に貢献するんだ。いいな』
いっつも、兄は。
『父上。俺は亜米利加に行きます』
私のことも。
父のことも。
母すら、見ていなくて。
『雨宮の繁栄が、次期当主たる俺の喜びだ』
そんな兄が本当に――憎い。
大広間の宴は日付が変わる頃まで続くだろう。
兄の帰国祝いの宴。はなも途中までは出ていたが、九時を過ぎてから眠気を言い訳に退出してしまった。
緩慢な動作で寝間着に着替え、ベッドに倒れこんだ。
とても、疲れた。
兄の学友や父の仕事関係の人々に、ずっと愛想を振る舞って回っていた。
表情筋が、いまだに痙攣している。
父の知り合いは、まだいい。大きくなったとか、綺麗になったとか、娘に対する世辞を言ってくるから。
けれど、兄の学友は。
「っ……!」
思い出すだけで腹が立つ。苛立ちで胃液がせり上がってくる。
『麗しき妹君だな、
『貴様に、このような可愛らしい妹がいるとはな』
『参った……許嫁を取り換えたくなる』
次々に言い寄ってくる若者たちには辟易した。
どんなにこちらを褒めちぎってきても、所詮、彼らにとって、はなの価値は“雨宮家次代当主の妹”で“雨宮家唯一の令嬢”なのだ。
金塊の山を見るような目で、はなを見てくるのだ。あまりの気色悪さに、項に鳥肌が立った。
同じ階級の若者たちは、やはり好きになれない。
(あれらに比べてシンは)
曇りのない純粋な目で、はなを見てくれる。家柄も肩書も気にしない、不純物の一切ない好意を向けてくれるのだ。はなという一人の人間を見てくれる。
無性に、シンに会いたい。
「……はぁ」
願ったところで、叶うはずもなく。
宴の夜は、ゆっくりと更けていった。
帰国した兄は、忙しなく会社と屋敷の往復ばかりを繰り返していて、はなには兄が帰ってきた実感というものがなかった。
間もなく年越しだというのに、父も兄も仕事に忙殺されている。しかも、二人は喧嘩が絶えることがなく、毎日必ず言い合っている姿を見かけた。
大晦日になっても仕事は減ることがないらしく、二人はそれぞれの書斎に籠っていた。
夕餉も、いつも家族で集まらずに摂ることが多い。そんなこの家で、今日は珍しく兄が一緒の時間に夕餉を食べに、食堂へ降りてきた。
「兄様が降りて来られるなんて珍しいですね」
「一区切りついたから来ただけだ」
「そうですか。父様は?」
「俺の出した報告書に目を通しているから夕餉はまだ無理だろう」
「……そうですか」
その後は会話という会話もないまま、無言であっさりとした味わいの汁に浸された蕎麦を啜った。
食事を終え、部屋に戻ろうとしたとき、兄に呼び止められた。
「はな」
「なんです?」
「お前、卒業したら何をしたい?」
はなは答えに詰まった。
自分は華族の娘ながら、許嫁というものがいない。よって、女学校を卒業したら嫁に行くことが決まっている級友たちと違って、今後の人生の歩み方について考えねばならなかった。かといって、何かしたいことがあるかと問われても、今この瞬間を生きることしか考えられない不器用な人間なので、いつも誰かにこの話題を振られたら、曖昧にはぐらかしてきた。
だが、兄はそんな甘いことを許してくれない。だから、無難にやり過ごすことにした。
「……兄様と同じように、父様のお役に立つ仕事をしようかと」
「ほう? 雨宮の会社に入る気か」
「……はい。今のところは、そのつもりです」
兄の追及から逃れたくて、はなは答えを最低限述べると、足早に部屋に戻った。
秀一郎は、そんな妹の背を眺めながら、小さく呟いた。
「……お前なら、社で働くよりも有効な手段で雨宮に貢献できるだろうに」
その独り言を耳にした者は、いなかった。
はなは、兄のこともあって早々に床に就いた。
大晦日の夜。
今年最後の夢。
「……これって」
妙に現実味のある感覚。
覚醒時に近い意識。
これは。
「っ……!」
胸の高鳴りが。期待が。
喉元まで、込み上げてくる。
辺りを見渡し、その姿を必死に探す。
(どこ……どこ……!)
いる。会える。逢える……!
期待が、膨らみに膨らんで。
「……はな」
――――弾けた!
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