第伍話

 人の道に戻る。

 その言葉の意味が理解できなかった。いや、本音を言えば理解などしたくなかった。


「我が君……?」


 なんだ。


「任を解く、というのは……」


 お前には世話になった。そろそろ人に還るがよい。


「しかし……!」


 その為の、あの娘だ。


「な」


 その為の、娘。

 頭の中を閃光が駆け抜けた。

 ……!

 愕然としたシンの表情は、その複雑な胸中を如実に表している。


 あの娘と逢瀬を交わした末に、久しく忘れていた人の心を取り戻した。もう、そろそろよい頃合いだと思ったまで。


 最初から仕組まれていたというのだ。はなとの出会いも、関係も、全て。

 全ては、シンが人の世に戻るための準備に過ぎなかったのだ。

 しかし、ここで一つ問題が浮上する。


「我が君、一つ疑問が」


 そんな些細な問いすら、声が震える。現実を拒絶する。無駄と分かっていても、抗う。


 どうした。


「私は人ではあり得ぬほどの永い時を生きております。今更、人に還ることなど、できますまい……」


 問題などなかろう。


 本当に今更だが、神は皆、非情だった。


 輪廻の輪に戻れば済む話よ。


 輪廻の輪に、戻る。

 それは、シンという人物、個体の消滅、新たな生の始まりを意味する。

 そして、これはつまり――


「……は」


 掠れ声で返事をし、シンは祈りの間を出た。

 洞窟を出て、歩き慣れた森をあてもなく彷徨う。森を橙に染める夕陽が、哀しげに見えるのは気のせいか。

 シンは西日に目を細めながら、大空を仰いだ。

 もう、はなには会わない。

 会ったところでなんになる。

 これを知れば、きっと彼女は泣くだろう。

 彼女を、泣かせたくない。

 なら、知られなければいい。

 会わなければ、済む話だ――――



 この真っ黒な衣と同じように、はなの心は沈んでいた。

 沈む、なんて生やさしいものではない。地獄のどん底に突き落とされて、帰り道が分からなくなった気分だった。

 感情が失せ、言われるままに動く。そんな風になってまだ数日だというのに、はなはそれが当たり前のように感じ始めていた。


「……お嬢様」


 静のノックも普段より控えめだ。単純に、手に力が入らないのかもしれないが。あまりに突然の衝撃で。


「どうぞ」

「お茶をお持ちしました。お嬢様の好きな、アールグレイですよ」

「ありがとう。……そこに置いといて」

「……はい」


 ベッドに仰向けになったまま、微動だにしない。

 静は机の上にトレーを置き、打ちのめされた主に視線を向けた。

 遠くを見ているはなの瞳には何も映っていない。天井すら見ていないだろう。見ているのはきっと……過去だ。


「……失礼します」


 結局、気の利いた言葉の一つも掛けられなかった。


 この日の午前中に雨宮家当主――はなの父親の葬儀が滞りなく執り行われた。

 遺された子供たちの意思に、関わらず。


「……父様」


 暗くなった自室に、空虚な呟きが木霊する。

 病により急死した父を悼む余裕すら生まれない、はなの元へ、変化は容赦なく訪れようとしていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る