第肆話
先日この地域に襲来した嵐は予想以上に激しいものだった。
「これは……!」
今朝から広大な森を見回っていたシンは、思わず目を見張った。目に入ってきたその光景が信じられなかった。いや、現実として受け入れたくなかった。
湿った落ち葉と折れた枝に覆われた地面を蹴り、小さな崖の下まで跳躍した。滑りやすい足場にも慣れているので全く問題ない。危なげなく着地し、膝をつく。
「長寿の大樹が……」
無残にへし折れて、他の木々を巻き込みながら倒れていた。子供の身長よりも太い幹が見事だったというのに。おそらく、落雷に打たれたのだ。
これは、この森で最も長命な樹木だった。この森の象徴だった。それなのに。
シンは目を伏せて、倒れた幹にそっと触れた。しばし、その場で同胞の痛ましい死を悼む。
「……」
この森の生けるものは皆、シンの同胞。無言で黙祷を捧げるシンの姿勢は真摯で、厳かだ。
青年シンは、人に
人であった頃のシンは、山の
彼が生まれ落ちた時、里を束ねていた長老の婆様が山神の声を聞いた。正確に言えば、神勅をその身に降ろした。
婆様には生まれつき強い
『今生まれた子は里の子であるが、里の人にはなれぬ』
そう告げた婆様の瞳は、どこも見ていなかった。神にその身を委ねていて、彼女の魂は眠っていたのだ。
『生まれた子は我が手足、
あんまりな宣告に、命を賭して我が子を産んだ母は嗚咽を漏らし、父は涙を堪えられなかったという。
しかし、長老のひどく澄んだ瞳と言の葉を向けられた当の赤子は、泣きも喚きもしなかった。まるで、やがて訪れる自分の命運を
さすがにシンも、このことを自分では覚えていない。両親や婆様、里人から教えられたのだ。
お前はいずれ山の神にお仕えする。おのこながら、婆様以上に強い巫の素質が、その身に宿っている。だから、神に選ばれたのだ。
幼い頃から、何度もそう言われて育ったので、シンは何の違和感も抱かなかった。
親や幼馴染、里の人々と永久に別れることも、二度と人里に下りられないことも、自然なこととして受け入れた。
寂しくなかった、と言えば嘘になる。だが、それを仕方ないと諦められるくらいに、まだまだ幼い少年シンは大人びていた。
そんなところも、さすがは神に選ばれた子だと讃えられた。
そしてシンは、家族との記憶をあまり覚えていない。
山に参上した後、神によって意図的に曖昧にされたというのも大きいが、そもそも鮮明に記憶するほどの出来事がなかったのだ。父も母も、神の使いを自分らがお育てするのだといった、どこか余所余所しい接し方をシンにしていた。
あまり情を注ぎ過ぎると両親との別れが――我が子との別れが、どうしても辛くなる。それが大きな要因だろうとシンは推測している。そんな両親の哀しい気遣いを、ありがたく思うと同時に、申し訳ないことをさせてしまったとシンは思う。
もう一度、成長してから会いたいと思っていたが、それが許されることはなかった。
十八を過ぎた頃から肉体の成長が止まり、そのあとは永い時を神に仕えて生きてきた。
身に宿る巫の力で神の声を聞き、神の命に従い、神のために生きた。
それは、麓に住む人間たちに、山の恩恵を贈ることと同義だった。神の加護のある山は生に満ちる。その生を、人間は生活の営みに利用する。シンは、今麓にいる人間を知らない。けれど、人々の生活の助けになれているのなら、シンは嬉しいと思えた。
嵐による山への打撃は予想以上に大きかった。
今は斃れた大樹のある森から、寝起きを行う聖域に戻る途中だ。
神に祈りを捧げる洞窟を中心に、一定の範囲が神威によって守られている。山神は頻繁に降臨する場に人が立ち入らないよう、強力な結界を張ったのだ。
そこで、シンは生活している。神の巫覡となってから食物は必要ないが、水は変わらず摂取しなければならない。ゆえに、洞窟の近くにある沢で、今日は水を汲まねばなるまい。そろそろ保存している分がなくなるはずだった。
そんなことを考えていたが、不意に足を止めた。
「そういえば」
この先に、小川があった。今日は、あそこで水を汲もう。あそこも聖域の範囲内。問題はない。
たまには趣向を変えてみるのも悪くないと思えた。気紛れだった。決して不満ではないが、毎日さして変わらない日々を送っている。こういう簡単な気分転換が、意外に楽しく思えるものなのだ。
小川の方へ足を向け、しばらく歩いたところで、シンは立ち止まった。
「な……」
馬鹿な。ありえない。なぜ。どうして。
様々な言葉がシンの頭を埋め尽くす。
小川が近く湿気の多い草地。そこに、人が倒れていた。
まだ幼い
麓に住む子が山登りに来ることは多い。しかし、聖域にまで迷い込んだ事例はなかった。この子は、結界を何らかの方法ですり抜けてきたのか。ここは聖域であるというのに。人の子が迷い込むなんて。
「どうしたものか……」
人は立ち入りを許されぬ場所だ。
だからといって、極度に弱って倒れている子供を目にして、そのまま捨て置けるほどシンは薄情ではなかった。
助けるべきか否か迷っていると、シンの脳裏に荘厳な響きが木霊した。
その娘を、助けよ。
神の命に、シンは度肝を抜かれた。
「我が君……!?」
聞き返しても、返答は変わらなかった。
助けよ。
神の真意は、傍に仕える巫覡にもわからない。
シンは主の命令に従い、意識を失っている少女の傍に寄り、その小さな体躯を抱き上げた。水溜りの水を吸って衣が重くなっているというのに、少女はひどく軽かった。
ここで尽きるべき命ではないはずだ。数百年ぶりに、他人への情というものが湧いてきた。早く手当をしなければと思いながらシンは少女を背負い、洞窟に連れ帰った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます