第弐話

 翌朝。

 はなは静が起こしに来る前に目を覚ましていた。

 衣装棚から服を取り出し、寝間着を脱いで手早く着替えた。白いシャツに臙脂色の袴を履きブーツに足を突っ込む。髪には先日買ったばかりの新しい紅色のリボンを結んだ。

 いつもは朝餉の時間ぎりぎりまで布団から出られないのに、今日はやけに早起きだった。

 それほどに胸が高鳴っているのだ。

 静が嫌がっていることも、はなは承知していた。行かないでほしいと、静が願っていることも。けれど、折れることは許されない。山に行くのは、はなの使命のようなものだから。これは、はなだけの秘密。はなが山に行く本当の理由は、はな以外は一人しか知らない。


 早めに食堂へ降りていけば、テーブルを整えていた静が顔を上げて目を丸くした。


「お嬢様? お早いお目覚めですね」

「起きちゃったのよ」

「……そうですか。おはようございます」

「うん。……おはよう」


 自分はひどい主だ。自分の意志を優先させるがゆえに、昔から一緒に過ごしている姉同然の侍女を傷つける。

 お静、本当にごめんなさい。でも私、行かなくちゃいけないの。

 言葉には、できなかった。



「ごちそうさまでした」

「お皿お下げしますね」

「ありがとう。……もう行くから」


 立ち上がりながら放たれた言葉に静はパッと振り返った。

 押し止めていた不安が、じわじわと胸の奥から溢れてきた。……また。また、帰ってこなかったら。自分は、また泣くことになるのか。大切な主を失うかもしれない恐怖に苛まれるのか。気にし過ぎだ、鬱陶しい、と思われているかもしれない。けれど、静は何よりも。はなを失うことが怖い。


「……お嬢様」

「ごめんなさい、お静」


 やはり止めようと静が一歩踏み出した瞬間、普段では考えられないほど落ち着いた声音で、はなが詫びてきた。

 こちらを見る瞳は申し訳なさに染まっている。けれど、その奥に。決して揺らがないという意志が表れていた。

 静は、去年と同じだと思った。去年も、こうやって止めようとして。そして彼女の意志の固さを目にして。無意識にこう言ったのだ。


「……行ってらっしゃいませ。お気をつけて」

「うん」


 屋敷を出ていく小柄な背を静はぼんやりと見送った。また、負けてしまった。あの意志に。

 皿が来ないことを不思議に思って厨房から出てきた泉は、無言で佇む静を見つけた。

 小刻みに肩が震えているように見えるのは、気のせいではないだろう。


「静さん」

「あ……」


 自分が皿を持ったままだということを思い出し、泉に頭を下げる。


「申し訳ありません! お待たせさせてしまい……」

「いいよいいよ、それは」

「しかし……!」

「静さん」


 落ち着くよう促す口調に肩が跳ねた。静はいたたまれなくなって、とうとう俯いた。


「静さんは、怖いですか? 山が」


 泉の問いに静は緩く首を振った。


「いえ……私は、あの方を、失うことが怖いのです。そう考えれば……あの方を奪いかけた山を、憎んでいるのかも、しれません」

「……これは昔からの言い伝えです」


 静が顔を上げる。

 泉は静をまっすぐ見つめながら、穏やかに語って聞かせた。村に、この地域に根付く古い伝承を。


「お嬢様が通われる彼の山には、護りの神がおられると言われている。この村や隣村……この辺りを太古より守護されているとされる、山神が」

「神……」


 鸚鵡返しに繰り返す静に泉は頷く。


「お嬢様が山へ入られるのはきっと、理由があるのですよ。上手く言葉には出来ない、理由が。……静さん」


 泉は自分の娘のような年齢の、不安に呑まれかけた侍女に微笑んだ。安心していい、と。


「考えてみてください。あの日、神隠しに遭われかけたお嬢様が、無事に戻ってこられたのは、神の温情のおかげだったのではと。今、お嬢様はそのお礼をされに山へ通っておられるのだと。そうは思われませんか? 私は幼き時分より、ここに仕えている為、あの山に入ったことはありません。しかし、入ったことのある者が言うには、山神を祀る祠が山中にあったはずです。……山へ向かう理由を、きちんと仰って下さらないことに対しては、私も少し憤りを感じています。しかし、使用人だからといって我慢するのも、良くないのですよ」


 静は強張っていた四肢の力が抜けていくのを感じた。

 主が彼の山へ向かわれる理由。主は悪戯をするとき、あんな真摯な目はしない。あんな、申し訳なさそうな瞳は見せない。……そういうことだ。

 それに、自分は使用人だから。そういう理由で、何も今まで言えなかった。しかし、それは良くないのだ。分かっていた。分かっていたけれど、お嬢様の目に圧倒されてしまっていたのだ。お嬢様だって、自分が抱えていることを身近な存在である自分にも話せず、心苦しく思っていることだろう。あんな目をして、屋敷を出て行くくらいなのだから。


「そんな顔をしないでください」


 泉が頭を撫でてくる。まるで……父の手のようだ。温かく、安心する手だ。


「ひとまず今は、お嬢様のために仕事をこなす。それが我々の役目でしょう?」


 正論だ。

 目尻に浮かんだ雫を指で拭い、静はしっかりと頷いた。

 仕事をしよう。お嬢様が、帰ってこられる時に備えて。己の役目を果たそう。そして、今晩は、山について訊きたいことを問おう。自分の中にわだかまっているものを、ちゃんと訊くのだ。それが、お嬢様にとっても良いことであるのだから。

 そう自身の中で結論付けてから、静は踵を返した。その心は、どこかまだ不安が残っているものの、先ほどよりも軽くなったような気がした。



 道なき道。

 そんな言葉が脳裏に浮かぶ山道だ。この道を進むのに苦労を感じないほど慣れているわけではない。だが、やっと少しばかり慣れてきた。

 奥に進めば進むほど、木々は鬱蒼としていく。葉の隙間から降り注ぐ夏の木漏れ日も徐々に細くなっていき、足元の土も水気を増してぬかるんできた。踏み締めるたびに、土と泥の中間のような質感の地面がぬるつく。気を抜けばうっかり尻餅をつきそうだ。それは避けねば。着物を洗うのは自分ではない。いや、自分でやればいいのだが、静はともかく泉はきっと、お気になさらずお任せを、などと言って洗ってしまうに違いない。


「気をつけなきゃ……わっ」


 …………油断大敵。

 考え事に耽るあまり、浅い水溜りに足を取られてしまった。

 びしゃんと水の跳ねる音がして、急いで立ち上がるも袴に泥水が染みていくのを嫌でも感じた。

 やってしまった。


「うー……」


 この汚れた服を着て赴くのか。

 帰っても特に咎められないだろうが、ここまで歩いてきた自分の努力は。それに、かなり深部まで来てしまった。

 きっと、いや確実に。今頃あの人は自分の来訪を察知して、迎える準備を行っている。今更、服が汚れたからと踵を返して下山できるわけがない。


「……うん。仕方ない」


 綺麗で去年よりも少し成長した姿を見せたかったのだが、それは諦めるしかないようだ。

 それに、今は早くあの人の顔が見たい。話がしたい。その為に、自分はここまで通っているのだから。


「よし、行こう」


 そう呟いて、再び歩き始めた。

 濡れた樹木の匂いが鼻を抜け、じっとりとした空気が肌に絡む。

 華族の娘は本来、こういったものを嫌がる。周りに虫が飛んでいたり、時々茂みの向こうから獣の気配がしたりすることを、気持ち悪いと思う。

 だが、はなはそれらが嫌ではなかった。

 自然が好きだった。体を動かすことが好きだった。

 なんとも風変わりな姫だ、落ち着きのない娘だ、と父の知人や本邸の使用人たちに囁かれたことも多い。そんな言葉を不快に思って、傷ついた時期もあった。けれど、父は。そんな悩みを吐露して泣く愛娘の頭を撫でて、こう言ったのだ。


『他人の戯言たわごとなど気にすることはない。誰が何と言おうと、父様ははなの味方だ』


 その年からだ。

 はなが静と二人だけで、別荘に行くようになったのは。

 父は確かに、はなの個性を尊重してくれたのだ。

 別荘で存分に暴れる代わりに、都では淑やかに振る舞うようにした。そうしなければ、父の風評が悪くなると気づいたからだった。


 しばらく歩くと、視線の先に洞窟が見えてきた。

 はなは息をついた。やっと着いた。

 ここには、洞窟の住人が許した者しか辿り着けない。

 洞窟の入り口に人影が現れた。はなは足を止め、一礼する。

 それを受けた人物が、こちらに歩いてくる。

 太い木の根や生い茂った草も慣れきった様子で避ける。少し息を乱しているはなに、洞窟から出迎えに出て来た青年は、苦笑のような曖昧な微笑みを向けた。


「久しいね、はな」


 青年の言葉に、花のような笑顔を返す。はなという名に相応しい、明るく穏やかな笑みだった。


「久し振り。シン」

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