第捌話

 シンは何があっても、はなには温かな眼差しを向けてきた。己が主の命という理由抜きで、はなと親しくしてくれていたと思っている。

 しかし、さっきの彼は今までと違った。神の眷属本来の冷徹さが表に出ていたのだ。最初に会ったときにすら見せたことのなかった個の意識を排除した表情。視線すらこちらに向けない酷薄な態度。


「――――違う」


 あれは本心ではない。

 確信はないけれど、おそらく違う。直感に似た感覚が、そう告げていた。

 はなはベッドから降りて窓辺に寄った。外は快晴だった。真夏並みとまではいかないものの、夏の到来を感じさせる強い日光が地面を照らしている。

 壁に埋め込まれるような形で垂れている紐を引っ張ると、間もなくして扉を叩く音がする。


「静です。……お嬢様。お目覚めになられましたか?」


 今の紐は使用人の控室に設置された鈴に繋がっていて、こうやって人を呼ぶときに使うのだ。

 失礼します、と入室してきた静を振り返り、はなは息を吸って一気に告げた。


「今から別邸に向かうわ。準備を」

「は……? お、お嬢様? 今からというのは……」

「文字通りの意味よ」

「それは……」


 さすがに戸惑いを隠せない静に、はなは大丈夫だと微笑んでみせる。


「縁談のことを早く小父様にお伝えしたいのよ。きちんと、自分の口から」

「お嬢様……」


 それが本音と偽りの両方だと静は瞬時に気づいた。主には想い人がいる。それが別邸の近くに住む者だというくらいは分かっているが、それ以上は静も知らない。

 唐突な縁談に、ひどく動揺するくらい慕っていた相手。伝えたいのだろう。会えなくなる前に。全てを。

 静は息を吸って、吐いた。すっと己の主を正面から見据え、強く頷いた。


「畏まりました。すぐに出立の準備を」

「お願い。兄様には私から話す」


 構わない。

 知らない相手の妻になろうと構わない。

 彼以外の男のものになろうと受け入れよう。

 ただ、今は。

 あの異変の原因と無事な姿を確かめたいのだ。



 妹が部屋を訪ねてくるのというのは、一年に一度あるかないかの出来事だった。

 先日の狼狽えた姿は欠片も残っていない。凛とした立ち姿は雨宮の一人娘に相応しいものだ。

 書き物の手を止め、秀一郎は妹に尋ねる。


「どうした。さっきから静が何やら慌ただしく支度をしているようだが、その説明か」

「はい。兄様、これから少し別邸に顔を出そうと思っています」

「別邸?」

「はい」

「なぜだ」

「別邸を管理している泉に縁談の報告をしたいと思いまして」


 秀一郎は理解しがたいといった顔で、至って真剣な妹を見据えた。


「文を送れば良いだろう。わざわざ出向かずとも」

「いいえ。小父様は私にとっては祖父も同然。この口から伝えなければ、私の気が済みません」


 はなは兄相手に一歩も引かなかった。

 縁談とシンの二つが、はなの中でぐちゃぐちゃに混ざって、早く早くと急かしている。

 秀一郎はしばらく、はなの顔を眺めていたが、徐に苦笑した。


「……分かった。いいだろう。嫁に行けばそうそう行ってられんだろうしな」

「ありがとうございます」

「泉に、よろしく伝えておいてくれ」

「はい」


 当主の許可はとった。あとは向かうだけ。

 兄の部屋を出ると、静が正面玄関から旅装束姿で小走りに駆け寄ってきた。


「お嬢様。支度が整いました。すぐにでも」

「分かったわ」


 馬車に乗り込み出発する。

 縁談の時よりも、はなは焦りを感じていた。本能的な焦燥。何かが知らない間に始まっている。そんな恐ろしさが、緩く首を絞めてくるのだ。

 はなは窓の外に目をやりながらも、その景色を見ることは決してなかった。

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