第漆話

 蝉の合唱が響く。

 山に、森に、村に、街に、家々に。

 どんなに耳を閉ざしても、その音は鼓膜を叩き続ける。

 運命と同じように。



「……ぬぅ」


 うちの布団はこんなに固かっただろうか? 頬に感じるひんやりとした冷たさ。

 違う。これは布団じゃない。地面だ。

 はなは呻きながら体を起こし、おかしくなった筋を元に戻そうと腕やら肩やらを回した。


「……ここは」


 泣き疲れて眠ったところまでは覚えている。

 そのあとで眠ったまま屋敷の外に出たのなら、医者に診てもらった方がいいかもしれない。

 そんなことを考えていたが、すぐにやめた。

 霧の向こうに見える人影に見覚えがある。彼は、屋敷の傍にはいない。よって、これは夢だ。

 それも、作為的に見せられている夢だ。


「――久し振り」

「久し振り」


 こんなにも堅いやり取りはここ最近したことがなかった。

 だが、なぜだ。自分はともかく、シンまで堅い態度をとっているような気がする。

 向こうから歩いてきたシンは、驚いたことに前会った時よりもやつれていた。

 シンはもう人ではない。ゆえに、外見的な変化は起こらないと思っていたのだが、それは大きな間違いだったらしい。


「ひどい顔をしているね」

「父様が、亡くなったから」

「っ」


 意外とあっさり口にできてしまった。父親の急死を。

 きっとそれは、兄の持ち込んだ話が原因だ。兄の件がなければ、確実に父のことは口にできなかっただろう。

 シンは一瞬狼狽えるような素振りを見せたが、はなが落ち着いていることから特に慰めの言葉をかけてくることもなかった。


「そうか……まだお若かっただろうに」

「うん。急な病だったから。年齢は関係ないって」

「そうか……」


 はなは眉を寄せた。

 おかしい。

 いつものシンは、どんなにはなが大丈夫そうに振る舞っていても、何かしらの言葉をかけてくる。それなのに今日はどこか冷たい。


「……シンの方こそ、どうしたの?」

「え?」

「最近、夢には来なかったのに、急に来たから」


 地面に座り込んでいるはなの傍らに立ったままというのも、なんだか変だ。普段なら座って視線を合わせてくる。

 妙な違和感で、ざわざわと胸の奥が疼いた。


「……はな」


 シンは、はなを見ることなく告げた。


「もう、来るな」


 唐突な言葉に、はなの理解が遅れる。

 理解して見上げたときにはもう霧が深くなっていて、シンの姿は目に映らない。

 急激に遠のいていく意識。

 屋敷のベッドの上で目を覚ましたはなは、ぽつんと声を漏らすことしかできなかった。


「……え?」



 瞼を持ち上げても誰もいない。……予定だった。


「おはよう」


 今は実体化を解いて寝ているはずの精霊が、相変わらずの無表情で顔を覗き込んでいた。


「こっちはこうやって体力も霊力も想定外に消費しているというのに、礼の一つもないわけ」

「その言葉を聞いたら礼なんか言えないだろう?」


 シンは横になってはいない。岩の上で座禅を組んでいた。

 意識を他人の夢に潜り込ませるというのは力の消費が激しい。全身に疲労と倦怠感が蓄積していた。


「雪の。今は休眠期だろう? よく顕現できたね」

「完全体じゃないこの姿なら実体化可能だった。今まで試す気もなかったから、新発見」


 自分自身のことにすら興味が薄いというのは、いささか問題ではないだろうか。


「その顔を見る限り、一方的で図々しい別れ方をしてきたようね」

「ひどいね」

「否定しないところから謝る必要はないとみた」


 少し誇らしげな顔に一発見舞ってもいいだろうか。

 シンから苛立ちを感じ取ったのか、雪のはさっと身を引いた。


「暴力反対」

「……はぁ。何しに来たんだい?」

「挨拶よ」


 珍しく真剣な口調だ。

 雪のはシンを見上げて、はっきりと言った。


「次の冬にはもう、いないだろうから」


 そうだ。自分は、おそらく次の冬は迎えられないのだ。

 雪のはそれを察して、わざわざ休眠を中断してまで顔を出してくれたというのか。

 すとんと、雪のがシンの傍に膝を抱えて座った。


「相手が大切なら、大切なほど、きちんと伝えるべきなのよ。……忘れないで」


 雪のの姿が徐々に薄れ始める。

 無理矢理起きたものの、やはり季節外れの活動は厳しいのだ。本人の意思とは関係なく、体が眠りに堕ちていく。


「限界ね。……さようなら」


 雪のが消えた後、シンは大きく溜息を吐き、前髪を掻き揚げた。


「……尤も、だな」


 最後まで、雪のの言うことは正論だった。

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