第弐話
屋敷の敷地内に、はなの母は眠っている。
はなは母を覚えていない。比較的高齢ではなを出産した母は、産後の肥立ちがあまり良くなかったそうだ。そして、はなが乳離れをする前に息を引き取った。その後、はなは静の母に面倒を見てもらった。よって、はなと静は乳姉妹でもあるのだ。
短い間だったとはいえ、母は生まれたばかりのはなを慈しみ、心から愛し、育んだ。
記憶には残っていない母。だが、父が語る母の姿は、とても聡明で、朗らかで、優しそうな印象があった。そして父を、あんなにも幸せそうな表情にさせることができる人だったのだ。母は、父が心から愛した人だったのだ。だから、はなも母のことが大好きだ。
広大な庭園の一角に設けられた、雨宮家の墓地。ここに、母は父の両親たちとともに眠っている。
はなは静が用意した花束を手に、父と庭を歩いていた。
「父様」
「どうした?」
「……何でもない」
逡巡した末に首を振ったはなの問いを父は何となく察したようだったが、深く追及することなく、そうかと頷いた。
はなは父の隣を歩きながら想像する。
あの人は、はなとは違って両親とここを歩いたのだろうか。
ここに来るのも半年ぶりだ。
墓石の汚れを水で洗い流し、綺麗に拭いてから花を供えた。父と並んで手を合わせる。
母様。私は元気です。父様が無理をされないよう、きちんと見ていますから、母様は安心なさってくださいね。
心の中で、そう母に告げる。
傍らの父が立ち上がった。
「戻るか」
「はい」
さっきから、いや、以前から気になっていること、今なら訊いてもいいだろうか。
そう思って父を見上げる。
「とう」
「そういえば、もう一つ言うことがある」
父の声音が硬い。はなは無意識に体が竦んだ。父から、怒気に似たものを感じたからだ。
父はまっすぐ前を見据えて歩きながら、告げた。
「兄様が、近々帰ってくる」
「え?」
「秀一郎が、亜米利加から戻ってくる」
言葉もなく、はなはその場に凍りついた。
はなは兄が苦手だ。一回りも年が離れていて、あまり話したことがないというのが一番大きい理由だが、はなは兄に昔から嫉妬していたのだ。兄は母をよく知っている。母と長い時間を過ごして育った。羨ましいと、昔から思っている。けれど、兄は合理主義者で肉親という家族への情よりも、雨宮家の繁栄と発展を第一に考える人だった。そんな兄の考え方が、はなはどうしても苦手だった。
父も、そんな兄をあまり好いてはいないらしい。嫌いというわけではない。ただ、家族も仕事も両方大切にする父にとって、兄の考え方ややり方は反りが合わないのだろう。兄が数年間後学のために留学すると言い出した時も、好きにすればいいの一言で終わらせていた。父は、母を知らない妹を母の代わりに目一杯可愛がる、甲斐性のある兄を期待していたのだ。
「兄様が……そうですか」
「ああ。亜米利加で様々な知識を身に着けたらしい」
「それは……父様の会社にとっては、良いことなのですよね?」
「そうだな。だが、この三年間一通も文を寄越さず、勉学に夢中になっていたことは家族の評価としては零点以下だ」
父が苦々しく吐き捨てる。
はなも、何も言えなくなって俯いた。
兄――秀一郎が帰ってくるのは、年末だそうだ。
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