第拾壱話
父の体調の回復が見込めなければ、別荘へ行くことはできなかった。しかし、幸いにも父は夏前にすっかり回復して、仕事復帰も果たした。それでも、はなは父が心配で、夏休みも一緒にいると進言したが。
「ずっと面倒をかけてしまったからな。父様は大丈夫だから、向こうで思い切り遊んで、楽しんできなさい」
その言葉一つで、はなは今年も別荘に滞在することとなったのだった。
一年ぶりの山だ。
はなは、滑らないようゆっくりと足を進めて聖域に向かった。
だが、その手前の森でシンを見つけてしまった。
「シン?」
「あ。いらっしゃい、はな」
この山全体が、シンにとっては我が家なのだろう。迎えてくれたシンは聖域の外でも、いらっしゃいと口にした。
「久し振りね」
「ああ。直接会うのは一年ぶりだ」
去年は夢で会うことが多かったので、そこまで久しいという感覚はなかった。
それにしても、シンは聖域の外で何をしているのだろう? 神に命じられて、山の調査か何かだろうか。
「何をしているの?」
「明日の晩、祭りなんだよ」
「お祭り?」
はなの問いに、シンは頷いた。
「そ。麓でもやると思うよ? 十年に一度の、我が君を祀る祭りさ」
「それなら知っているわ。今年やるってことも。そうじゃなくて、こっちでもやることが意外なのよ」
今年は祭りの年だから是非楽しんで欲しい、と泉が笑顔で言っていたのを思い出す。山の深部でも行われているとは想像もしなかった。誰が参加するのだろう。ここにいるヒトは、シンだけだというのに。
「そういうことか」
シンが馬手で印を組んで、辺りを払うような仕草をしながら答えた。
「こっちに人間は来ない。人間の祭りは麓でやるからね。こっちの祭りは、動物や精霊たちが参加する」
「へぇ」
「で、運営役みたいな立場の私は今、会場を清めて回っていると」
「どこまでが会場なの?」
「この森全域かな」
「全域!」
この森は、とても広い。一昨年、山を案内されて、はなはよく分かっている。森の全域といったら、本邸の敷地三つ分は軽く超える面積だ。
はなの驚きように、シンが笑った。
「ははっ。そうやって驚いているけどね、動物は大型なものもいる。そういったことを考慮すると、この森全域が会場でも少し狭いくらいなんだよ?」
なるほど。そういうものなのか。けれど、動物や精霊が祭りを楽しむなんて、まるで物語の世界だ。……気になる。
「……楽しそう。こっちのお祭りも」
「来てもいいよ?」
「え」
「我が君が、はななら構わないと仰っていた」
「そう……」
山神は、あの神勅をいつまで続けるつもりなのだろう。もう来なくていい、と告げられる瞬間は、いつかやってくる。それが、恐ろしく思えた。
シンに会えなくなるなんて、そんなこと――
「はな?」
「え、あ……」
しまった。自分の思考に耽ってしまった。
シンが少し心配そうな顔をしていたから、はなは笑って大丈夫だと伝えた。すると、シンも笑って応じてくれた。良かった。
「夜、山に登るのは危ないから、私が術で麓に道を開こう。ここまでの、はな専用の道をね。だから、麓の祭りを楽しんでから来るといい」
「分かったわ」
「だから、今日はもうお帰り。これから崖なんかも回りに行くから、付いて来ると危ない」
「ええ。そうする」
シンの言葉に素直に頷いて、はなは踵を返した。もと来た道を戻ろうとすると、シンが肩に触れてきた。はなは不思議に思って、シンを振り返る。
「なに?」
「途中まで送ろう」
「ありがとう」
あまり会話もなく、二人で山道を下りる。シンが、はなの手を握って先導してくれるも、なんだか落ち着かない。
そうだ。シンが話さないのだ。いつもなら、シンから何かしら話し始めるのに、今日は一向に喋る素振りを見せない。どうしたのだろう。
麓近くのところまで来て、シンが手を放した。
「ここからは、自力で帰れるね?」
「うん。……シン、あまり喋らなかったけど、どうしたの?」
「……祭りのことで、ちょっとね」
嘘だ。はなは直感的にそう思った。
それなら、そのことを話しただろう。はなが不満そうな顔をすると、シンはフッと苦笑した。その表情が、なんだか儚く、そして美しく、はなは思わず息を詰めた。
「そんな顔、しないでくれ」
ぽんぽんと、はなの頭を軽く撫でて、シンは山の方へと足を向けた。
「じゃ、明日。はな」
「……うん」
シンの儚げな笑顔が胸を締め付ける。息苦しさを感じながら、はなは屋敷に戻った。
シンは山道を戻りながら、口元を片手で覆った。
目元が、微かに紅い。
「……だめだ」
もう、はなを子供として見られない。
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