第拾参話
昔。遠い昔。
まだ少年が幼く、神のもとに仕え始めたばかりの頃のこと。
「シンよ」
人の姿をとった主が、近くに来いと仰るので、シンは隣に正座した。
「隣にくるか」
「いけませんでしたか?」
「いや、良い」
まだ子供のあどけなさが強く残っているシンに神は苦笑し、手を振って許した。
「我が君、何かご用でしょうか」
呼んだのだから、とシンが問う。
「……ない」
「え?」
「特にない」
「ではなぜ?」
「シンよ。神とて、こうやって古木に腰掛け、たった一人の眷属と風に当たりたいと思うものだ」
「そうなのですか」
うんうん、と頷く姿が、不覚にも愛しいと神は思った。
神は、巫覡とした人の子を完全な眷属とはしなかった。人の心という根幹を残して、神はその子を眷属とした。神は、人に対してだからこそ抱くことできる新鮮な感情の数々を、知らないままでいるということが、どうしようもなく惜しいと思ったのだった。
シンは溢れる神気と霊気の渦の中心で、自己が崩れていくのを感じていた。
身体を失い、巫覡としての力を失い、人の魂だけになって、これから彼の世に向かうのだ。次の生を歩むために、自分は一度死ぬ。
だが、さっきの声は幻聴ではないだろう。
「はな……」
来るな、と言ったのに。
会ったらきっと、逝けなくなる。そう思って、遠ざけた。しかし、今になると、違う気もしてくる。
「……会わないまま、逝けるのか?」
シンはもう分かっていた。
会うしかない。会わなければ、きっと死んでも後悔する。
「はな、私は――」
この続きを、最期に彼女へ届けたい。
シンは立ち上がり、洞窟の外を目指して駆け出した。
いきなり体が地面に叩きつけられて、はなは思わず呻き声を上げた。
素早く体を起こして辺りを見ると、驚いたことに聖域の結界の中にいた。いつの間に聖域のある高度まで登ったのか。そんなに山を登った覚えはない。
「なんで……」
いや、そんなことは、どうでもいい。今は早く、彼の元へ行かなければ。
したたか地面に足をぶつけて痛むが、我慢して力を込めた。立ち上がって再び足を進める。
本人にとってはどうでもいいことだろうが、はなが聖域の中に出た理由は実は単純なものだ。
はなは、シンのように神に見出されなくとも、強い霊力を保持しているのだ。はなの意志と霊力が繋がれば、容易に為せることなのだ。
はなの“シンの元に行きたい”という意志が霊力に影響して、精霊の作った世界から肉体を聖域内へ移動させた。それだけの話である。
「はな!」
はなは洞窟の入り口に立つ姿を認め、一気に走り出した。
シンの身体から絶えず溢れている燐光は、彼をあちらへ連れて行くものだろう。もう時間はない。
「シン!」
シンの広げた腕の中に飛び込み、はなはその胸に顔を埋めた。
はなを抱き留めた勢いで、シンの身に纏わりついていた燐光が一気に舞い上がった。ふわっと大きく膨らみ、綿毛たちが空へ飛んでいく。
シンの温もりを味わうのはいつ振りか。少しの間、はなは温かな胸に頬を寄せていたが、ふと違和感を抱いた。
外見的なことは何も変わらない。触れた感覚、匂い、体温。表層的なものは変わっていないのに、何かが違うのだ。
眉を寄せて、シンの顔を見上げたはなは、自分を見下ろすシンの表情で、違和感の正体を悟った。
「まさか」
「よく分かったね。我が君が君を認めるわけだ……」
表層的なものは変わらない。なら、深層は? ――言うまでもない。
内側から瓦解しているのだ。シンという存在が。ひとつの生命が。本人の否応関係なく、死は進行している。痛みも、苦しみも、哀しみもないままで。
「私が消えるのも、もう時間の問題だ。その時が来たら……一瞬だよ」
はなの頭を、微笑みを浮かべながら撫でるシン。だが、その瞳の奥にあるのは、苦痛の伴わない死への安らぎでも、愛しい娘との再会に対する幸福感でもない。
――――実感を持たぬまま死ぬ。そんな現実が寂しい。悲しいのではなく、寂しい。
死ぬというのは、もっと痛くて苦しくて、辛くて……負の感情とやりきれなさに苛まれながら、成されることだと、シンは思っていたのに。現実は、こんなにもいつも通りで。
愛しい者を悲しませるだけ悲しませて。薄情にもほどがある。人間をやめた自分が言えることではない。
しかし、それでもこれは――残酷という奴だろう。
「シン」
はながシンの頬に触れた。
指の腹で、すっと輪郭をなぞる。
「いいの。一瞬でも。今こうやって、再び貴方と一緒にいる事実だけで、私は十分――幸せだわ」
嗚呼、だめだ。
はなは、心の中で苦笑した。
大事な最後が、最期の台詞が、震えてしまった。一番大切なところなのに。
シンの、深い森色の瞳が見開かれる。同時に、はなの目の前が滲んだ。
はなは両手でシンの衣の襟首を掴み、泣き顔を見せまいと、その間に顔を埋めた。
「っ……」
「はな」
「何も、言わないで」
「だが」
「お願いだから……!」
泣くのを必死に堪えるはなを、シンはきつく抱き締めた。
何を言っても、運命は変えられない。奇跡なんてそんなもの、所詮は生者の願いでしかなく、現実は酷だ。
これくらいしかしてやれない自分が情けない。シンは、震えるはなを抱き締めながら唇を噛んだ。
「……ねぇ、シン」
「ん……?」
「好き」
しょっぱい雫で頬を濡らしながら、はなはシンの顔を再び見上げた。
これさえ伝えられたら、もう未練はない。未練を抱くことも、許されない。このあと間もなく、自分は嫁ぐのだから。だから、貴方に届けられただけで、満足――――
そんな胸中を、シンは察しているのだろうか。瞳の奥に苦悩の色を覗かせた。
「……すまない」
「どうして……?」
「女性に先に言わせるものではないだろう、確か」
虚を突かれ、はなは瞠目した。次いで、吹き出した。
全く、想定外だ。そんなことを気にするなんて。意外だ。その観念があったとは。
「っ、はは……もう、こんなときに……」
「やっと笑った」
「え」
間髪入れずに告げられた言葉。
「私も貴女を愛している」
やっと……やっと言えた。やっと、聞けた。
はなの中に、心地よい温もりが広がっていく。胸の中に、安堵という名の湯が満ちていくようだ。
安心した笑顔を見せ、はなはシンから離れようと身を引いた。
もうそろそろ限界のはず。だから――――
「行くな」
シンは許さなかった。
死の瞬間から目を背けるなと、はなに求めた。
「酷いことを言っている自覚はある。だが」
「酷いことじゃないわ」
はなは即座に否定し、両手で希薄な色へ変わりつつあるシンの頬を包んだ。
表面的な部分も、もう保たなくなってきている。あと、どれだけの言葉を交わせるだろうか。
「むしろ見送れないなんて、いやよ」
「そうかい……」
もう何も言わなかった。
互いに触れながら、徐々に近づく別れを受け入れる。
とうとう頬を撫でていた手が、肌に触れることなくすり抜けた。
「あ……」
「はな」
シンが腰を曲げ、はなの唇に、もう重なることのない自分のを寄せた。本来なら感じるはずの温もりも、ない。
シンから溢れていた燐光が、ひときわ強く輝いて、彼を覆う。
そのまま光は空の彼方へ一本の道を作り、誰の干渉も許すことなく、彼をあちらへ連れて行った。
光の道が消えると、役目を終えた燐光の雨が山々に降り注いだ。植物も、動物も、精霊も、この山に生ける者すべてが、巫覡の逝去に想いを馳せている。
はなも、澄み渡った星空を見上げている。
かけがえのない想い。実らずとも、よい。せめて――――彼の地に、届け!
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